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「苦しいときの神頼み」と言います。ふだんは信心など持たないような暮らしをしているのに、病気になると願掛けに行く。人生に迷うと占いをする。悪いことが続くとお祓いをしてもらう。そういう人たちを揶揄する言葉です。私たちも神様を信じ、苦しいときには神様に祈る人間ですから、少し気になる言葉でもあるのです。
ある教会の祈祷会での話です。八十歳ぐらいの男性が、「わたしは入れ歯をなくした。たいへん困って神様に祈ったところに、すぐにそれが見つかった。神様は素晴らしい」と、神様への感謝いっぱいにお話しくださいました。すると、これを聞いた同じぐらいの年齢の女性が、「わたしはそんな個人的なことで神様に祈らない。神様は忙しいのだから、そんなことで患わせてはいけない。もっと神様のお仕事のために大切なことを祈るべきだと思う」と話されました。みなさんはどう思われるでしょうか。この婦人のように、「苦しいときの神頼み」なんて、本当の信仰、本当の祈りではないと考えているクリスチャンも少なくないようなのです。信仰や祈りというのは、自分の願いを神様に押しつけることではなく、神様の従い、仕えて生きるためのものだというのです。
さて、わたしたちはこれから「信仰の父」と仰がれているアブラハムの生涯を学びながら、毎週の礼拝を守って行きたいと思っています。そのアブラハムの信仰というものを見ますと、確かに自分を捨てて神様に従っていくという姿があります。今回お読みしたところでも、神様が《あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に生きなさい。》(第十二章一節)と言われと、アブラハムはすぐさま《主の言葉に従って旅立った》(第十二章四節)と書かれています。自分の守ってきたものを守り続けようとするのではなく、また自分が行きたいところに行こうとするのでもなく、それを犠牲にしても神様に従っていったというのです。これこそが本当に祝福される生き方なのだと、聖書はわたしたちに教えています。
しかし、もう一つ真実なことがあります。それは、苦しみの時にこそ、人は神様と出会うということです。神様を求めることなく生きていたわたしたちが、どうして教会に来るようになったのでしょうか。どうして聖書を手にして読み始めたのでしょうか。どうして神様に祈ることを覚えたのでしょうか。苦しみがあったからなのです。苦しみのなかで、わたしたちの魂は神様への探求を始め、神様と出会ったのです。これは信仰の始まりに限ったことではありません。神様を信じて従っている生活の中にも、さまざまな苦しみがあります。そのような苦しみのなかで聖書を読んだり、祈ったりしながら、わたしたちはより深く神様の愛を知り、力を知り、正しさを知る魂へ導かれていくのです。苦しみは、神様と出会うための素晴らしい機会であるということも、忘れてはならない大切な真実です。
確かに「入れ歯をなくした」ということは、生命に関わるような問題ではないかもしれません。しかし、わたしの祖母は入れ歯が合わなくて何度も作り替え、大金を払い、たいへん苦労したと聞いています。ですから、入れ歯をなくすということが、どんなにその人の生活をどんなに脅かす危機であったかということも想像できるのです。それで神様に祈ったら、入れ歯を見つけることができた。素晴らしい話ではありませんか。最初、わたしたちは苦しみの時に、神様を求め、神様に出会いました。しかし、それで神様のすべてがわかったのではありません。今に至るまで何度も神様と出会いを重ね、神様の愛、力、正しさを経験してきました。そして、神様への讃美と感謝と信仰を深められてきました。そのような神様との出会いは、しばしば苦しみのなかで与えられるものなのです。
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アブラハムも例外ではありません。神様のお言葉を聞き、すぐに自分を捨てて従ったアブラハムでありますけれども、実は、彼もまた苦しみの時に、神様との出会いを果たしたひとりなのです。
第十一章二十七〜三十二節には、「テラの系図」が記されています。この系図を「アブラハムとその家族の生活」として読んでみると面白いと思うのです。アブラハムはカルデヤのウルという町で大勢の家族と一緒に暮らしていました。ウルはメソポタミヤ文明の最も古い町の一つで、当時の大都会です。人々はレンガ作りで部屋が幾つもある邸宅に住み、文化的な暮らしをしていました。ウルには、遺跡としても有名でありますが、エジプトのピラミッドと並び評されるジックラドと呼ばれる大きく立派な神殿があります。このような賑やかで、華やかな町で、アブラハムとその一家は人並みの暮らしをしていたのです。
人並みであるとは、幸せなことです。しかし、幸せそうに見える人が、本当に幸せであるかどうかは別の問題でしょう。健康であれば幸せ、家族があれば幸せと言いますが、健康であっても、家族があっても、まったく幸せを感じていない人がいます。幸せというのは心の状態ですから、何がなくても心が満たされている人は幸せですし、多くのものに囲まれていても恐れや不安、虚しさがあれば、幸せを感じることはできないのです。
アブラハムは幸せだったのでしょうか。幸せもあったでありましょう。しかし、心を満たされて、ウルの文化的な生活を楽しんでいたかというと、決してそうとは思えないところがあります。第十一章二十八節をみてみましょう。
ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ。
アブラハムの弟ハランが、若くして死んだということが書いてあります。このことはアブラハムとその一家の生活を大きく揺るがす辛い出来事だったでありましょう。特に父親のテラは一生癒えることのない心の痛手を負ったに違いありません。三十節にはこんなことも書かれています。
サライは不妊の女で、子供ができなかった。
サライはアブラハムの妻です。とても美しく、夫によく仕える素晴らしい女性であったと言われます。しかし、子どもが生まれなかったのです。アブラハムは、是非とも跡継ぎとなる男の子が欲しかったでありましょう。しかし、それを諦めざるを得ませんでした。続いて三十一節を見てみます。
テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。
この箇所は、わたしが最も想像力をかきたてられたところです。テラは息子ハランが死んだ後、その心の痛手を負って、生まれ育った町、すなわち賑やかで、華やかで、今まで築いてきた全生活の土台があるウルの町を後にして旅出ったと書いてあります。アブラハムも、その妻サライも、そして死んだハランの息子であるロトも一緒でした。目的地はカナンであったと書かれています。カナンに行くことに何か大切な意味があったのでありましょう。しかし結局、テラは目的地にたどり着くことができませんでした。カナンまで行こうと思えば、きっと行けたに違いありません。けれども、その途中でハランという亡くした息子と同じ名前の町を通りかかります。テラは、この町に愛着を覚えました。そして、カナンという目的地を忘れ、ハランの地に長逗留し、死ぬまでそこに住み続けたというのです。なんとも哀しく、やりきれない話ではないでしょうか。
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わたしはアブラハムとその一家が、人に較べて格別に不幸だったと言っているのではありません。何の問題のない幸せな一家などあるでしょうか。アブラハムは人並みの幸せをもっていました。そして、人並みの苦しみや悩みを負っていたのです。「人生とはそんなものだ。それ以上を望むのは贅沢だ」と諦めて過ごす人も多いでしょう。本当にわたしたちはこのような投げやりの人生観しか持ち得ないのでしょうか。
作家の三浦綾子さんは、青春のまっただ中にあった十数年を、重い病気で床に臥したまま過ごしました。恋人の死の知らせも、床に臥せたまま聞き、床に臥せたまま涙を流しました。その三浦綾子さんは、「天地をお造りになった神様は、何一つ無益なことはなさらない。わたしの病気もそうであった」と語っておられます。そして、苦しみに人生を諦めるのではなく、苦しみを通して神様を求め、神様を知るならば、人生のどんな辛いことにも意味がある。そして、神様が自分の人生をどんなに大事に思って下さるか、どんなに尊い人生であるかということが分かるのだとおっしゃっておられます。それが分かったら、わたしたちはどんなに大きな幸せを感じることができるでしょう。
そのためには、どんなに分からない人生であっても、「人生とはそんなものだ。それ以上を望むのは贅沢だ」と諦めてはならないのだと思います。神様はそれだけに過ぎない人生をわたしたちに与えようとしているのではありません。諦めて、生ける屍のような生き方をしていては、せっかくわたしたちに尊い命を与え、一人一人に格別の人生を与えて下さった神様を知ることはできません。まして、神様の祝福を受け取るような生き方もできないのです。「もっと何かがあるのだ。神様、それを教えて下さい。それを与えて下さい」と、このような祈りをもって人生を生きることが必要なのではないでしょうか。神様に求め、神様を知ろうとしてこそ、「それだけではない人生」を与えようとしておられる神様に出会い、人生の意味や目的を知り、苦しみにも、悲しみにも負けない、喜びと希望の人生を生きることができるようになるのです。
イザヤ書第二十六章十九節に、次のようなみ言葉があります。
塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。
あなたの送られる露は光の露。
あなたは死霊の地にそれを降らせられます。
アブラハムは塵の中に住まう者でした。華やいだ町に住み、人並みに暮らしていたかもしれません。けれども、それらはアブラハムの人生に特別な価値を与え、特別な目的を与えるものではありませんでした。アブラハムの人生もまた塵のように踏みつけられ、石ころのように転がっているものだったのです。しかし、そのような塵の中から、神様はアブラハムを呼び出されます。それが今日のお話の最も大切な点です。弟ハランの早すぎる死、それを悲しみ続ける父、子どもが生まれないことを悩み続ける妻、このような苦しみや悩みの中にあるアブラハムに、神様は「わたすが示す地に行きなさい。あなたを祝福する」と、祝福へと召し出されたのです。そして、アブラハムは塵の中から立ち上がり、塵を振り払って、主の招きにこたえて旅立ち、そこからただの石ころではない、神様に召し出された特別な石にされる人生が始まったのです。
わたしたちも「塵の中に住まう者」です。わたしたちの存在はどこにでも転がっている石ころのようであり、人生は塵のように踏みつけられています。しかし、荒れ野で宣教していたバプテスマのヨハネは、地面に無数に転がっている石の一つ拾い上げ、こんなことを申しました。《神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがお出来になる》(マタイによる福音書第三章九節)と。塵の中に住む者であったアブラハムを呼び出し、アブラハムをわが友とし祝福された神様は、わたしたちをも塵の中から拾い上げ、「わたしに従いなさい」と祝福への召しを与えて生かして下さるのです。すばらしいことではありませんか。わたしたちにはいろいろ苦しいときや、人生が分からなくなる時がありますけれども、そういう時にこそ神様は私たちを塵の中から呼び出し、祝福へと招いて下さっているのです。どうぞ、苦しみの日にこそ、神様に対して心の目を覚まし、神様の声を聞き、神様との素晴らしい出会いを果たす者でありたいと願います。 |
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