|
|
|
どこにいますのか。わたしの造り主なる神
夜、歌を与える方
地の獣によって教え、
空の鳥によって知恵を授ける方は。
旧約聖書『ヨブ記』の一節です。「夜の間に歌を与えてくださる御方、それが神様である」と言われています。
ここで夜と言われているのは、明日に備えて休む安息の夜のことではありません。待ちわびても、待ちわびても、なかなか明るい日がやってこない、人生の闇夜のことです。みなさんも、きっと眠れぬ夜を過ごしたことがおありの事と思います。それは悲しみの夜であったでしょうか。迷いの夜であったでしょうか。それとも罪の暗黒に捕らわれた夜であったでありましょうか。
この教会にも歌いに来て下さったことがあるゴスペル・フォークシンガーの山口博子さんの歌に、「時を忘れて」という歌があります。
目を閉じなければ、見えない世界がある。
口を閉じなければ、言えない言葉がある。
耳をふさがなければ、聞こえない声がある。
歩みを止めなければ、会えない人がいる。
少しぐらい遅れたとしても
大切なものを見つけたいから
道であり、真理であり、いのちである主に
尋ね求める 時を忘れて
私たちが眠れない夜を過ごしている時というのは、確かに苦しくて辛い時に違いないのですが、実はそういう時こそ、ごまかしではない本当に大切なものを真剣に、時間をかけて見つけようとしている時なのかもしれない・・・そんなことを教えてくれる歌です。
私も、悲しみや、恐れや、不安にさいなまされて眠れない夜を過ごしてきたことがあります。それだから言えることでありますけれども、確かに、神様は、そのような夜の日々に、御自分を親しく現して下さり、飢え渇いた魂を満たして下さり、心を賛美で満たして下さるお方なのであります。
|
|
|
|
|
さて、今回はアブラハムのエジプト滞在についての二回目のお話です。このエジプト滞在の話は、アブラハムの夜の物語です。アブラハムの信仰の迷いや、挫折や、言い逃れの出来ない罪が、この物語の中にあるのです。
(1) 信仰の揺らぎ
アブラハムは、神様を信じて、神様がお示しになったカナンの地にやってまいりました。ところが、そこに大飢饉が起こります。この飢饉によって、アブラハムはもちろんのこと、家族や僕たちも皆、飢えに苦しむことになったのです。
そのとき、アブラハムの神様に対する信頼が揺らぎ始めました。「神様は、御自分に従う者を決して飢えさせたり、見捨てたりしない」と信頼すればこそ、アブラハムは自分の暮らしを捨てて、神様に従ったのでした。ところが、その結果飢饉に見舞われ、酷い窮乏生活をさせられるはめになってしまったのです。
祈っても、祈っても、神様はアブラハムをこの窮乏から救って下さいませんでした。「なぜ、神様に従ったのに、このような目に遭うのか? 神様は本当に私を祝福して下さるおつもりなのだろうか?」アブラハムの信仰は揺らぎはじめ、闇の中をさまよい始めました。
(2) 約束の地を離れる
そして、ついに、アブラハムは神様が示された約束の地を離れて、エジプトに行く決心をするのです。「エジプトに行こう。あそこには穀物が豊かにある。そこで飢饉をやり過ごし、落ち着いたら、またここに戻ってくればいいではないか・・・」おそらく、アブラハムはそんな風に考えたのではないでしょうか。
アブラハムは、約束の地を離れるからと言って、信仰を捨てるつもりなど毛頭もなかったと思います。信仰は、アブラハムにとって一番大事なものでありました。一番大事なものは、どんな時でも一番大事にされるべきです。ところが、アブラハムは「背に腹は代えられぬ」と考えてしまったのでした。当面の問題が過ぎ去るまでは、一時的に信仰をお休みするのも仕方がないと考えたのです。
かくして、アブラハムはカナンの地に住むのをやめ、エジプトに避難しようとしたのであります。それでもなお、アブラハムにとって信仰は大事なものであったでありましょう。しかし、もはやそれは一番のものではなくなってしまったのです。
(3) 恐れと不安
最初のボタンを掛け違えれば、すべてが掛け違ってしまいます。一番最初であるはずの信仰を二番目にもってくれば、それが三番目になり、四番目になるのは時間の問題なのです。そうであれば、アブラハムのエジプトでの生活は言わずと知れています。それは恐れと不安に満ちていました。11-13節を読んでみましょう。
「エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。『あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、「この女はあの男の妻だ」と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。』」
これは何と酷い言葉でしょうか。アブラハムの過剰とも言える恐れにかられています。この恐れのために、アブラハムは嘘によって自分を守ろうとします。しかも、一緒に嘘をつこうと、妻のサラに呼びかけています。しかし、一番ショックなのは、アブラハムが自分のことしか考えていないということであります。平気な顔をして、わたしのためにあなたが犠牲になってくれと、妻に言うのであります。
アブラハムの信仰はいったいどこに行ってしまったのでしょうか。一番最初であるはずの信仰を二番目にもってくれば、それが三番目になり、四番目になり、ついには一番最後になるのは時間の問題だというのは、こういうことなのです。
(4) アブラハムの欲
信仰を二の次のもとして堕落させてしまったアブラハムは、恐れと不安にかられて過ちを犯しただけではなく、欲をかくようになりました。妻サラは、たいへん気の毒なことにエジプトのファラオのハレムに召し抱えられるようになってしまいました。その一方で、アブラハムはサラをハレムに差し出した見返りとして、羊の群、牛の群、ろば、男女の奴隷、ラクダなど、多くの財産をファラオから贈られたのです。
もし、アブラハムが少しでも妻サラのことを考えたり、自分のしたことを恥じたりしていれば、このような贈り物を受け取ることはしなかったのではないでしょうか。
みなさん、アブラハムは、一番の信仰を一番にしなかったというボタンの掛け違いから、本当に信仰を失いかけてしまったのです。そして、ここまで恥ずべき哀れな人間に成り下がってしまったのです。
|
|
|
|
|
「ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。」
17節のみ言葉です。「ところが主は!」、今回お話ししたいのはこのみ言葉なのです。
アブラハムは、不信仰のゆれにエジプトを頼り、エジプトに逃れました。「ところが主は!」、約束の地を離れ、エジプトで信仰なき生活を送るアブラハムにすら恵み深く、力強くあろうとし、共におられたというのです。
また、アブラハムは妻サラに取り返しのつかない罪を犯し、彼女を失いました。「ところが主は!」、サラをファラオのもとから救い出し、アブラハムのもとに返して下さったというのです。
アブラハムは神様にも、人にも罪を犯したのですから、誰かが病気にかからなければならないとするならば、当然、アブラハムが受けるべきものであったでありましょう。「ところが主は!」、罪のないファラオを病気にかからせ、アブラハムの罪を罰することなく救われました。
さらになお、このように言うこともできます。アブラハムがエジプトで得た財産は、罪によって築いた財産でした。「ところが主は!」、そのすべての財産を持たせて、アブラハムを約束の地に帰らせたのであります。
「ところが主は!」 このみ言葉は、神様が人間の考える善悪とか、罪と罰とか、そういう常識が通用しないといいますか、それを覆してしまうほど大きな愛をもって、人間を愛し、救おうとしてくださっているということを物語っているのです。
|
|
|
|
|
まことに神様の愛は人知では計り知れません。今日、お読みしましたエフェソの信徒への手紙には、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」ということが言われておりました。すべてを包み込む神様の愛ということでありましょう。
最近の読んだ歌集の中に、たいへん心に残る短歌がありました。
子は抱かれみな抱かれ子は抱かれ
人の子は抱かれて生くるもの
「子は抱かれて生くるもの」本当にその通りだと思いました。「抱く」というのは、「手で包む」と書きます。子どもは、良いとか悪いとか、出来るとか出来ないとか、そういうことではなく、悪いところも、弱いところも、過ちも、すべてを包みこむお母さんの慈しみの中で育てられていくものではないでしょうか。
神様の子どもである私たちもそうなのです。信仰者であるということは、良いとか悪いとか、立派であるとかないとか、そんなことではないのです。神様の愛の広さ、長さ、高さ、深さに包まれているということなのです。そして、それは聖書の言葉で言えば、「人の知識をはるかに越えるこの愛を知ることによって、神の満ちあふれる豊かさのすべてに与る」ことなのです。 |
|
|
|
|
そのような神様の愛を知り、神様との驚くべき出会いを果たす「時」、それがアブラハムのエジプト滞在の時、つまりアブラハムの夜だったのです。
はじめにエジプト滞在の話は、アブラハムの夜の物語、心の闇の物語であるともうしました。確かに、アブラハムは、エジプト滞在を通して自分の信仰の弱さ、罪深さ、エゴ、そして自分がいかに哀れな人間であるかということを、深い痛みをもって経験したのでした。ところが主は、そのような夜の日に歌を与え給う神なのです。アブラハムは、その夜を通して、神様との驚くべき出会いを果たしました。それはアブラハムの信仰ではなく、100パーセント、神様の恵みによることだったのです。
13章4節を見ますと、「そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだところであった」とあります。アブラハムは、信仰によってではなく、ただ神の恵みによって、完全に立ち帰りました。そして、神様への賛美に溢れて約束の地に帰り、そこに祭壇を築いて主の名を呼んだのです。
みなさん、信仰生活ですら、私たちの信仰の頑張りによってではなく、ただ神様の愛によってのみ支えられているのだということを覚えたいと思います。私たちの罪、弱さ、不信仰、それは決してそのままで良い状態ではありません。私たちはそこから救われ、変えられ、清められる必要があります。しかし、自分の頑張りによってではないのです。私たちが今、どのように神様からかけ離れていても、神様は私たちを愛してくださっている、その愛を知ることによって、私たちは神様の豊かさに与る者となるのです。もう一度、エフェソの信徒への手紙のみ言葉を聞いて、終わりましょう。
「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
|
|
|