アブラハム物語 15
「今日、汝ら神の声を聞かば」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙3章12-19節
旧約聖書 創世記15章1-6節
前回の復習
 前回、アブラハムとはいったい何をした人かというお話をしました。アブラハムは、キング牧師のように正義の戦いをした人でもなければ、マザー・テレサのように愛の奉仕に献身した人でもありません。モーセのように律法を残した人でもなく、ダビデのようにたくさんの賛美と祈りを残した人でもなく、パウロのような伝道者でもありません。アブラハムは、信仰者として世のために、人のために、何か立派な功績を残した人ではないのです。
 それではアブラハムは何をしたのかと言いますと、創世記15章6節に「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあります。アブラハムは、神様を信じる人間であった、ただそのことだけで神様に認められ、聖書の中に存在している人物なのです。
 そのことから、前回は、神様が私たちに望んでいるのは、あれやこれやではなく、「ただ神様を信じる人間であれ」という、このたった一つのことなのだというお話をしたのでありました。神様は、私たちが何者であっても、また何者でなくても、ただ信仰があればそれを良しとしてくださるお方なのです。
信仰は神の恵み
 ところが、その信仰を持つということが、人間にとっては決して簡単なことではないのです。イエス様ですら、人々に信仰をお与えになろうとして大変な苦心をなさったということが聖書に書いてあるのです。

 かつて、私はこう考えました。もし、イエス様が「見ないで信じる者は幸いである」などと難しいことは言われずに、イエス様にしか出来ない素晴らしい御業をたくさん見せて下されば、誰もがイエス様を信じるのではないだろうか。たとえば復活されたイエス様は40日目に天国に帰られたとあります。もし、イエス様がずっとこの地上で私たちと一緒に生きていてくださったなら、誰もがイエス様の復活を信じたのではないか。でも今は、こういう考え方も甘すぎる考えだと思うようになっています。

 「イエスは、数多くの奇跡を行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」

 私は、福音書にこのように書かれいるのを読んで、信仰を持つというのは決してそんな簡単なことではないと思いました。神様の御業を目の当たりにして尚も神を畏れず、信じようとしない人たちがたくさんいたのです。

 それでもイエス様は繰り返し、繰り返し、私たちに信仰を持たせようとしてくださいました。日々の思い煩いや不安から解放されていない人たちには、「小さな群よ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と、神を信じる勇気を与えようとして下さいました。十字架につまづくペトロのためには、「あなたの信仰がなくならないように祈った」と仰いました。復活を信じられないトマスのためには、十字架の釘跡と見せ、「あなたの指で私の釘跡を触り、あなたの手を脇腹にいれてみなさい」と言われました。

 このように信仰のない者たちや、信仰の弱い者たちに、イエス様は常に恵み深く、忍耐強くあってくださったのです。そのイエス様の苦心があればこそ、今日、私たちにさえも信仰が与えられているのではないでしょうか。そうだとすれば、信仰すらも私たちの力や行いではなく、神様の恵みの賜物なのです。
信仰を与える神
 アブラハムも事情はまったく同じ事でありました。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあります。しかし、アブラハムは強くて立派な人間として、神様を信じたのではありませんでした。それどころか、アブラハムの信仰は、神様に対して何も期待できなくなるほど冷めかかっていました。

 「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか」

 「ご覧のとおり、あなたはわたしに子どもを与えて下さいませんでしたから、家の僕エリエゼルに跡を継がせることにしました」

 前回、アブラハムはこのような失望を乗り越えて、神様を信じる者になったのだというお話をしたのですが、今日はアブラハムにこのような失望を乗り越えさえ、もう一度神様を信じる者にさせてくださったのは、神様ご自身であったということを、ご一緒に学びたいのです。

 いったい、神様はどのように私たちに信仰を与え、どのように強めて下さるのでしょうか。4節に「見よ、主の言葉があった」とあります。信仰は、神様のみ言葉によって私たちに与えられ、また成長していくのです。

 「主の言葉があった」と言われているのが面白いと思います。「主が語れた」と言ってもよいし、「主の言葉を聞いた」と言っても良いはずです。しかし、「主の言葉があった」という言い方が一番ピンと来るという時があるのです。

 ある時、私は霊的なスランプに陥り、こんな信仰じゃいけないと思いながらも、自分ではどうすることもできない状態に悶々としていました。そんな時、祈りの友が「石にかじりついてでも、聖書を読め」と言ってくれましたのです。私は、聖書を読んでも何も感じられない、祈っても言葉が虚しく響く、という有様で聖書を開くことさえ気が重かったのですが、ともかく何かをしなければと思い、友人の言葉に従って創世記から読み始めました。

 本当に石をかじっているような味気なさでした。そんな調子で、旧約聖書の終わり頃まで読み続けてきたのです。しかし、その時、私は「見よ、主の言葉があった」という経験をさせられたのです。ホセア書11章8節でした。「ああ、どうして、お前を見捨てることができようか」というを読んだとき、み言葉が熱と力をもって私の魂に触れたという経験をしました。み言葉によって私の魂を揺さぶられ、目から涙が溢れてきました。そして、そのみ言葉によって、神様の愛が私の渇ききった心に満ちてくるのを感じたのです。

 「見よ、主の言葉があった」というのは、神が自分に語られているということを発見した驚きを表現しているように思うのです。そのみ言葉がアブラハムの魂に触れた瞬間が、「主の言葉があった」という体験なのではないでしょうか。

今日、神の声を聞くならば
 逆に「馬の耳に念仏」という言葉があります。いくら大切なことを語っても、何も通じない人のことを言うのです。

 今日、お読みしました『ヘブライ人への手紙』にも、そのように神様の言葉を聞きながら、それがまったく信仰に結びつかなかった人たちもいるということが書かれていました。3章16節に「いったい誰が、神の言葉を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか」とあります。そのために彼らは40年間、荒れ野をさまよい、安息を得ることができなかったというのです。4章2節を見ますと、こうも書かれています。「彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかったためです」

 そうならないようにするにはどうしたらいいのでしょうか。そのためには、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心を頑なにしてはならない」ということが書かれていたのです。これは、ヘブライ書3章7節、15節、4章7節と、繰り返し語られている大切な言葉です。

 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心を頑なにしてはならない」

 この言葉から思いますことは、「今日」という日を大切にする生きる心にこそ、神様の声は聞こえてくるということです。「今日」というのは、生き生きとした喜びに満ちた「今日」ばかりではありません。悲しみの「今日」もありましょう。悩みの「今日」もありましょう。やっかいな仕事が待ち受けている「今日」もありましょう。そういう「今日」という日から逃げていてはいけないのです。

 漢字で今の心と書きますと「念じる」という言葉になります。念じるというのは、一心に祈り続けることです。どのような日であれ、その今日という日を一生懸命に生きようとする心が、神様への真剣な祈りになるのではないでしょうか。

 喜びの日は心から喜ぶことが祈りでありましょう。悩みんだり、迷ったりする時には、一生懸命に悩み、迷うことが祈りでありましょう。たとえば、先ほど石にかじりつくようにして聖書を読んだという話をいたしましたが、たとえみ言葉が無味乾燥した味気ないものと感じながらであっても、み言葉を読み続けたことが祈りになって、神様に聞き届けられたのだと、今は思うのです。

 アブラハムも「主よ、あなたはいったい私に何をくださるというのですか。私は今になっても子どもがいません」と、食らいつくように自分の失望を率直に神様に訴えたのです。しかし、それは神様に心を閉ざしたのではなく、神様に心を披瀝したのです。だから、神様はそれをアブラハムの不信仰としてではなく、祈りとして聞いて下さったのでした。

 神様は、そのようなアブラハムを天幕から外に連れだし、「天を仰ぎなさい」と仰って下さいました。そして、「あなたの子孫はこの星の数のようになる」という大きな幻を見せて下さったのです。

 みなさん、確かに、揺るぎない信仰を持つことは難しく、困難に思えます。しかし、どんなに揺らいでも、決して倒れない信仰は持つことができます。なぜなら、神様は、私たちにみ言葉を与え、幻を与え、私たちの信仰を支え、守ろうとして下さっているからです。

 その神様の支えとお守りをいただくために必要なことは、悩むときは真剣に悩み、迷うときは真剣に迷い、その心を神様に注ぎ出すことなのです。それが今日という日を大切にし、神様のみ言葉に心を開くことなのです。神様は、その心に必ず生きた力あるみ言葉をもって、私たちを力づけて下さいます。
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