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すでに苦難を巡る人間の議論は尽き果てました。ヨブは思いの丈を語り尽くし、エリファズ、ツォファル、ビルダド、エリフの知恵袋もはや空っぽです。こうして人語が尽きた時、天声が響きます。人間のおしゃべりが止んだ時、神が口を開き給うのです。
「これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて
神の経綸を暗くするとは。」(2)
知識もないのに・・・まことにその通りです。私たちは自分についても、世界についても、何も分かっていません。それなのに、自分だけの考えで神様の御心を測り、「神様は残酷ではないか」とか、「神様はこうあるべきではないか」などと議論をしている。いったい君たちに、神の何が分かっているというのか、私に答えてみなさいと仰ったのでした。
「男らしく、腰に帯をせよ。
わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」(3)
こうして、4節以下から、神様がお造りになった自然界について、ヨブに対する神の厳しい問いが始まります。前回は3節までをお話ししましたから、今日はこの4節以下を学んで参りたいと思います。
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4-7節は「大地の設置」について語られています。
「わたしが大地を据えたとき
お前はどこにいたのか。
知っていたというなら
理解していることを言ってみよ。」(4)
大地を据えたとき・・・いきなりスケールの大きな話です。私たちは大地をねぐらとし、大地の実りを糧として生き、死ねば私たちの肉体は大地に帰って行きます。それゆえ、「母なる大地」などと賛美されることもあるのですが、この多くの命を育み給う偉大なる大地は、私たちが造ったものでもなければ、私たちが支えているのでもありません。それは神様の御業なのです。
「誰がその広がりを定めたかを知っているのか。
誰がその上に測り縄を張ったのか。
基の柱はどこに沈められたのか。
誰が隅の親石を置いたのか。」(5-6)
神様は、きっとこのように言いたいのでありましょう。「君は自分の人生の一コマについて、『ああでもない、こうでもない』と、まるで自分が神にも優る者であるかのようにわたしに楯突くが、それは正しいことか? 君の全生活を支えている大地を私が据えたとき、君はどこにいたのか。そのことについて何か知っていることがあるならば、言ってみよ。そんなことも知らずに、私のやることに文句を言う資格があるのか」
「そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い
神の子らは皆、喜びの声をあげた。」
これについては内村鑑三がこのように解説をしています。少し長いのですが、なかなかの名説教だと思いますので、そのまま引用します。
「地の造られし時、天の星と天使との合唱歓呼せしことを言う。まことに壮大なる言である。ああいかなる合唱なりしぞ。ああいかなる歓呼なりしぞ。人の合唱、人の歓呼すら、壮大高妙をきわむることあるに、これはまた類なき合唱歓呼、明けの星声をそろえて歌い、神の子たちみな喜び呼ばわる合唱歓呼である。人は宇宙の創造に参与せず、少しもこのことを知らない。そして今いたずらにその貧弱なる知恵をしぼりつくして宇宙と造化の秘儀について知らんとし、少しばかりの推測の上に喋々し、喃々する。実に憐れむべき人の無知である。知らずや、地は人の思うがごとくにして現れ出たのではない。思うだに心躍るところの壮大といい、厳粛といい、優美というも、とうてい言い尽くし得ぬところの光景の中に造られたのである。
しかり、地はかかる大賛美の中に勇ましく生まれ出でたものである。すでにかかる地である。神が造りかつ治めたもうかかる地である。かかる賛美の中に生まれて神に治めらるるこの地である。そしてかくのごとき地に生を受けたる人である。さらば人よ、無益なる不平や疑惑を去れ。諸星と天使との大賛美、大歓呼の中に生まれし地に住みて、心に賛美の歌なく歓呼の声なくして生くる酔生夢死である。小さき理知の生むもだえと疑いを去りて、星と共に、天使と共に、神とその造化とを賛美しつつ、意義ある希望ある生を送るべきである。
ああ人は無知にして造化の秘儀を知らぬ。そしてひとりもだえている。しかるに人の立つところの地の造られし時において全宇宙の賛美歓呼があったのである。神は地とその上に住む人をむなしく造ったのではない。さればわれらは地を見てそこに神の愛を悟るべきである。そして、安んずべきである。」
内村の言っていることはこうです。この世界は神への大賛美の中に生まれた。そして、その素晴らしい神の栄光を讃える大地の上に、人間が造られた。それなのに、神の偉大な御業への感動なく、賛美なく、自分の小さな知恵のゆえに悩んだり、疑ったりして生きているのはどうしてか。私たちも星々や天使たちと共に神様の偉大な御業を賛美しながら生活するならば、この大地に生を受けた私たちに注がれている神様の愛、目的、祝福を知り、希望もあり、平安もある人生を送れるだろうに、というのです。
内村は、この世界を神の祝福と肯定のもとにある世界として受け止める信仰の大切さを説いているのです。言うまでもなく、この世界の中には様々な悲劇があります。自然災害もあれば、戦争やテロもあります。そういう困難に耐えたり、悪と戦ったりして行かなくてはいけないことは言うまでもありません。しかし、そういうことで絶望してはいけないということなのです。
「どうせ、世の中こんなもんさ」「何をやっても無駄さ」というニヒリズムに陥ってはいけないのです。たとえ、わたしたちがどんなに多くの困難に耐え、どれだけの多くの犠牲を払うとも、この世界が本来良いものとして創造され、この世界にすべての善きことを行おうとしておられる神様がおられる、そしての神様の御業が今もこの世界を支えているということを信じ続けるということなのです。
創世記1章の天地創造物語は、ユダヤ人が国を失った時に成立したと言われています。神殿が壊され、エルサレムの町は破壊しつくされ、人びとは異国の地に連れ去れていきました。そのような敵に蹂躙され廃墟となったエルサレムや、神に仕えるはず民族が異邦人の奴隷となっている運命の中で、彼等は神が天地を創造された。神はそれを良しとされた。神はすべてのもを祝福し、生めよ、増えよと言われたと、信仰を告白したのです。
これは世界がどのように創られたかという話であるだけではなく、この世界と人間の存在の確かさはどこにあるのかということを描いたものだと言えましょう。「さらば人よ、無益なる不平や疑惑を去れ。・・・小さき理知の生むもだえと疑いを去りて、星と共に、天使と共に、神とその造化とを賛美しつつ、意義ある希望ある生を送るべきである。」 内村も同じ事を言っているのです。 |
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大地の次は海について記されています。
「海は二つの扉を押し開いてほとばしり
母の胎から溢れ出た。
わたしは密雲をその着物とし
濃霧をその産着としてまとわせた。」(8-9節)
聖書において、海というのは「混沌」の表象であり、神に反抗する怪物の住むところとして人間に恐れられていました。しかし、そのような海の誕生が、ここでは赤子の誕生に喩えられています。
赤子というのは、第一に母の祝福のもとに生まれてきます。第二に、まったく無力なものとして生まれてきます。人間の恐れる海です。しかし、それもまた神様の祝福の中に創造され、神様の前にまったく無力な赤子であり、神の戒めの中に存在しているのです。
「しかし、わたしはそれに限界を定め
二つの扉にかんぬきを付け
『ここまでは来てもよいが越えてはならない。
高ぶる波をここでとどめよ』と命じた。」(11)
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次に、神様は夜明けについてお語りになります。
「お前は一生に一度でも朝に命令し
曙に役割を指示したことがあるか。
大地の縁をつかんで
神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。」(12-13)
朝に命令する・・・不思議な言い方です。朝というのは黙っていても自然にやってくるものなのではないでしょうか。しかし、神様は、私が朝ごとに朝日を来たらせ、曙に役割を指示しているのだと言っておられます。「自然の営み」は、「人為的でない営み」という意味がありますが、それは決して誰の手にも寄らないということではなく、自然を支えておられる宇宙の主なる神様がおられるということなのです。
おもしろいのは、曙の役割と言われていることです。まるでカーペットの縁を掴んで上下にパタパタと揺らし、塵を払い落とすかのように、大地の縁をつかんで、神に逆らう者どもを地上から払い落とす。これが曙の役割だと説明されています。いったいどういうことなのでしょうか。
「大地は粘土に型を押していくように姿を変え
すべては装われて現れる。
しかし、悪者どもにはその光も拒まれ
振り上げた腕は折られる。」(14-15)
朝日が夜の闇に覆われていた大地をくっきりと浮かび上がらせながら拡がっていく様子が描かれています。しかし、悪いことをしている人は、光より闇を愛します。その闇がなくなるということは、自分のすべての悪行が明るみに出されること、つまり神の審きを意味するのです。
私は、次の御言葉を思い起こします。
「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(『ヨハネによる福音書』3章19節)
ここでいう光とは、朝日のことではなく、世の光なるイエス様のことですが、毎日の朝日の中に、イエス様を感じ、そのみ光によって私たちの新しい一日が始まることを、ここで覚えても良いと思います。
続いて、死の門、闇の門について語られています。
「お前は海の湧き出るところまで行き着き
深淵の底を行き巡ったことがあるか。
死の門がお前に姿を見せ
死の闇の門を見たことがあるか。」
先ほどもお話ししましたように「海」というのは神に逆らう怪物の住んでいるところとして恐れられていました。その海の底は闇に覆われた深淵となっており、陰府に通じる門があると考えられていたのです。
私たちは今、海の底が決してそのようなものではないことを知っています。しかし、それでも海の底というのはまだまだ闇の中に閉ざされた未知なる世界であることに変わりありません。死後の世界も同じなのです。死後の世界はこうだ、ああだと語られることはありますが、誰も行って見てきた者はありません。だから恐ろしいのですが、神様はすべてを知っておられるのです。
「お前はまた、大地の広がりを
隅々まで調べたことがあるか。
そのすべてを知っているなら言ってみよ。
光が住んでいるのはどの方向か。
暗黒の住みかはどこか。
光をその境にまで連れていけるか。
暗黒の住みかに至る道を知っているか。」(8-20)
大地の広がり・・・お前は世界中を見て回ったことがあるのかと、神様は問います。光が住んでいるのは東の果て、闇の住んでいるのは西ということでしょうか。ところが、ヨブは23章でこう言いました。
「東に行ってもその方はおられず
西に行っても見定められない。
北にひそんでおられて、とらえることはできず
南に身を覆っておられて、見いだせない。」(23:8-9)
神様はどこを捜しても見いだせないと嘆いているのです。しかし、あなたは本当に東の果てまで行ってみたのか? 西の果てまで行ってみたのか? 大地の広がりを隅々まで見たのか? あなたが見いだせないからと言って、私がどこにもいない証拠になるのか、と神様は問われているのではないでしょうか。
「そのときお前は既に生まれていて
人生の日数も多いと言うのなら
これらのことを知っているはずだ。」(21)
少なくとも神様の前においては、私たちは何を知っているなどということは一言も言えないはずなのです。もうここまで言えば十分かと思いますが、神様はさらにヨブに問い続けます。
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もうここまで言えば十分かと思いますが、神様はさらにヨブに問い続けます。
「お前は雪の倉に入ったことがあるか。
霰の倉を見たことがあるか。
災いの時のために
戦いや争いの日のために
わたしはこれらを蓄えているのだ。」(22-23)
神様は、雪や霰を神様の武器として天の倉庫に蓄えているのだと言われます。確かに、それらのものが人間の世界に甚大な被害を及ぼすことがあります。それは神様の裁きの御手であるということなのでしょうか。
「光が放たれるのはどの方向か。
東風が地上に送られる道はどこか。
誰が豪雨に水路を引き
稲妻に道を備え
まだ人のいなかった大地に
無人であった荒れ野に雨を降らせ
乾ききったところを潤し
青草の芽がもえ出るようにしたのか。」(24-27)
「光が放たれる」とは、稲妻のことでありましょう。「東風」とは砂漠の嵐シロッコのことです。それに豪雨。しかし、雨は渇いた大地に恵みをもたらし、命を芽生えさせることもあります。
「雨に父親があるだろうか。
誰が露の滴を産ませるのか。
誰の腹から霰は出てくるのか。
天から降る霜は誰が産むのか。
水は凍って石のようになり
深淵の面は固く閉ざされてしまう。」」(28-30)
雨、露、霜、氷・・・すべては水の変化したものです。そして、これらを司っているのも神様です。 |
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そして、神様が司っているのはこの地上の現象だけではありません。宇宙を司っておられます。31節以下は、星座について語られています。
「すばるの鎖を引き締め
オリオンの綱を緩めることがお前にできるか。
時がくれば銀河を繰り出し
大熊を子熊と共に導き出すことができるか。
天の法則を知り
その支配を地上に及ぼす者はお前か。」
清少納言は枕草子の中で「星はすばる」と言い切っています。すばるとは、牡牛座の一画をなすプレヤデス星団の日本名です。オリオン座も有名な星座ですからご存じでありましょう。「大熊」と「子熊」も星座のことです。
星座というのは、今から約5000年前に古代バビロニアの羊飼い達が天に輝く星と星を結びつけ、動物や人などの姿を描いたのが起こりと言われています。このとき黄道上(太陽の見かけ上の通り道)に十二の星座がつくられました。これを黄道十二宮といいます。32節は、新共同訳では「銀河」と訳されていますが、文語訳、口語訳では「十二宮」と訳されているところです。
「なんぢ十二宮をその時にしたがひて引きだしえるや」(文語訳)
十二宮というのは、要するに星占いで使われるあの星座です。どうして、星座から人の運勢が分かると考えるのか、占いのことはさっぱりわかりませんが、少なくとも聖書にはそのような考えはありません。ただ、星座の動きを見て、宇宙が一定の法則に従って運行しているということの中に、神様のご支配をみるわけです。
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再び気象に関することが語られています。
「お前が雨雲に向かって声をあげれば
洪水がお前を包むだろうか。
お前が送り出そうとすれば
稲妻が『はい』と答えて出て行くだろうか。
誰が鴇に知恵を授け
誰が雄鶏に分別を与えたのか。
誰が知恵をもって雲を数え
天にある水の袋を傾けるのか。
塵が溶けて形を成し
土くれが一塊となるように。」
最初に語られていたのは、自然の力ということであったのに対して、ここでは自然の知恵といいますか、タイミングや時というものの絶妙さが語られているように思います。
以上、38節まで、神様がヨブに対して「お前は知っているか。見たことがあるか。調べたことがあるか。お前に同じ事ができるのか」と、問われたことを見て参りました。それはまだ続きます。39節からは動物についての話が始まりすが、それは39章との関連で読むことにします。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
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Translation
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