預言者ヨナ物語 05
「救いはエホバより出ずるなり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 エフェソの信徒への手紙3章14-21節
旧約聖書 ヨナ書2章
1章のメッセージ
 ヨナは、紀元前8世紀のイスラエルに生きていた人で、神様のお言葉を人々に伝える預言者でありました。当時の世界には、メソポタミア地方から勢力を拡大して参りましたアッシリア帝国という巨大な国がありまして、イスラエルもやがてはこの国に滅ぼされ、呑み込まれてしまう運命にありました。ヨナはそのような巨大な敵国であるアッシリアの首都、ニネベに乗り込んで神様の教えを宣べ伝えよという、人間的に考えたら無茶で、無謀な使命を神様に与えられるのであります。

 ヨナは、この使命に疑問を抱きます。どうして、敵国の首都に行って神様のことを伝えなければならないのか? あるいは、この使命に恐れを抱きます。そんなことをしても、誰も聞いてくれるはずがないではないか。それどころか、自分の身の安全すら保証されないに違いない、と。そこで、ヨナは神様に与えられた使命を果たそうとしないで、神様の前から逃げるように、ニネベとまったく逆方向に向かうタルシシュ行きの船に乗り込んでしまうのです。

 ところが、神様はヨナを逃がすまいとして、海に大風を放たれたので、海は大嵐となりました。船乗りたちは嵐から救われんとして、積み荷を海に投げ捨て、なんとか船を守ろうとしますが、何をしても甲斐なく、もはやただ叫び声を上げ、それぞれの神に命乞いをするばかりの有様でした。ところが、肝心のヨナは、神様が自分を逃がすまいとして起こした嵐も何のその、船底に潜り込んで深い眠りに陥っていたのでした。

 やがて船長が船底にやってきて、「起きて汝の神に祈れ」と、ヨナを起こします。ヨナはようやく目覚めますが、呑気なもので、まだこの嵐が自分のせいであることを知りません。神様から逃げだそうとし、神様に心を閉ざしてしまったヨナは、霊的な無感覚に陥ってしまっているのです。むしろ、異教徒である船乗りたちの方がずっとこの嵐の真相に対して敏感でありまして、これはただごとではない、きっと誰か神様を怒らせている人間がこの船の中にいるに違いないと言いだし、犯人を捜すために全員でくじを引くことになったのです。

 くじは、ヨナに当たりました。さすがのヨナも、これには肝をつぶしたに違いありません。今更ながら、自分がしでかしたことの大きさに気がつき、船乗り達から問い詰められるまま、自分が預言者であり、神様の使命に背いて、この船に乗っているのだということを白状するのであります。驚いた船乗りたちは「いったいどうすればいいのか」と、ヨナに問います。すると、ヨナは、この嵐は神様と私の問題であるから、私を海の中に放り込んでください、そうすれば関係のないあなたがたは助かるでしょうと答えたのでした。

 船乗りたちは、「いくら何でも、そんなことはできません」と、なおも船を岸に戻そうと必死の努力をいたしましたが、ついにどうにもならないとあきらめ、「神様、こんなことをする私たちをお怒りにならないで下さい」と祈りつつ、ヨナを海に放り込んだのでした。すると、荒れ狂っていた海はぴたりと静まり、船乗り達はヨナの神を大いに畏れ、いけにえを捧げて礼拝した、というのがこれまで学んできた1章に書かれているお話でした。

 この1章だけでも、色々なことを考えさせられる物語でありまして、私たちは四回にわたって、この中からいろいろなメッセージをくみ取ってきました。しかし、一言で、この1章全体が私たちに伝えんとしているメッセージは何かということを端的と捉えることも必要でありましょう。それは、神様に背中を向けて歩み始めた人間の末路は、必ず「死」であるということなのであります。

愛によって生きる
 もっとも、人間は誰でも死を迎えます。人間だけではなく、この世に生を受けたものは、動物であろうが、植物であろうが、必ず死を迎えます。けれども、人間の生き死にというのは、そのような自然の理としての生死だけでは語れない、もっと深い精神的な問題があるのではないでしょうか。

 たとえば「生ける屍」なんていう言葉があるのです。屍といのは死体のことですから、生きているという表現は矛盾です。しかし、現実には、体はピンピンしていても、精神的には生きる意味、生きる目的、生きる力が持たないで、漫然と生きているだけの人がいる。それを生ける屍というのです。つまり、人間の生き死にには、自然的、生理学的な生き死にだけではなく、精神的、霊的な生き死にがあるということなのです。

 たとえば、ある本で読んだことの受け売りなのですが、道でばったりと出会った人に「あなたは生きていますか」と尋ねたら、その人は怪訝な顔をして、「何を馬鹿なことを言っているのですか。見れば分かるでしょう」と答えるに違いありません。しかし、「あなたは真実に生きていますか」と尋ねたなら、その人は心臓が動いているとか、呼吸をしているという意味ではなく、人間としてどういう生き方をしているのか、正しく生きているのか、価値ある人生を生きているのか、幸せに生きているのか、そういうことを考えるに違いありません。人間にとって生きるということは、ただ空気を吸って、ご飯を食べて、子孫を残すということだけではないのです。

 イエス様は、そのことをこういう言葉で表現されました。

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(『マタイによる福音書』4章4節)

 「神の言葉で生きる」とは、神様の愛、神様の祝福、神様の教えを聞き、それを受け止めることによって、自分が生きる意味や価値や目的が与えられるということでありましょう。人間というのは、なぜ自分が生まれてきたのか、何のために生きなくてはならないのか、生きることにどんな価値があるのか、そういうことが分からないと、どんなにパンがたくさんあっても、お金があっても、生きる力が湧いてこないのです。

 では、神様の言葉は、私たちに命を与えてくれるのでしょうか。それは、私たちが神様に愛されるために生まれたということ、そして隣人を愛するために生まれたということであります。

 ある時、イエス様は、律法学者から「永遠の命を受け継ぐためにはどうしたらいいでしょうか」と尋ねられました。イエス様はどのようにお答えになったか、ちょっと聖書を読んでみたいと思います。

 「ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』イエスが、『律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』と言われると、彼は答えた。『「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります。』イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』」(『ルカによる福音書』10章25-28節)

 神様を愛し、隣人を愛しなさい、そうすれば命を得ると、イエス様は言われました。生きるためには、愛が必要なのです。それは別の言い方をすれば、人間は一人では生きていけないということでありましょう。愛とは、関わり合う中で生み出されるものだからです。

 ところが最近、どうやって人と関わったらいいか分からない人や、人との関わりにストレスしか感じない人や、人との関わりを避けて生きようとする人々が増えていると言います。学校の先生のお話を伺うと、挨拶ができない、人の話をきけないというのは、子どもたちだけではなく、その親たちも同じことのようです。あるいは町会の役員をしている方のお話を聞くと、近所づきあいができない大人たち、お互い様ということが分からないわがままな大人たちが増えていると言います。そういう学校や社会の中で、孤独な人たちが非常に増えているのです。

 最近もこのような事件がありました。死にたいと思っている人たちがインターネットで知り合い、集団自殺をしたというのです。死にたいと思う人が同じような悩みを持つ人々とインターネットで出会うことができるというのは、本当に素晴らしいことだと思うのです。しかし、もっと生活の身近な場に彼らの隣人となる人がいなかったという面では、もの悲しい思いがするのです。また、インターネットという文明の利器によって、せっかく同じ悩みを持つ人々と出会っても、互いに悩みを分かち合ったり、励まし合ったりするような関わり合いに発展させることができないというのは、その人たちの生きていく力の弱さというものを感じないではいられないのです。

 関わり合うとは、向き合うことです。人と人が向き合うときには、嫌なものとも向き合わなければなりません。でも、嫌だからといって向き合うことを避けていたら、いくら集まっても、一緒に暮らしても、心はすれ違うばかりで、関わり合うことができないのです。そのことが、人間を孤独にし、生きる力を弱くします。

 逆に、ストレスも感じ、衝突も起こるかも知れませんが、最後まで向き合い続けるならば、最後には分かり合うことができる可能性は大いにあると思うのです。そして、ストレスや衝突を乗り越えてお互いを受け入れ合うことができた分だけ、深い愛や友情の絆がそこに結ばれることになります。それは、私たちを孤独から解放し、大きな生きる力になるでありましょう。

 ただし、残念ながら、私は人間の現実というものをみますと、「その可能性は大いにある」という程度のことしか言えないのです。人間というのは誰でも、平和に、仲良く、愛に満ちて暮らしたいと願っているはずですが、人間の文明社会が始まって以来五千年の間、殺し合いや戦争が絶えたことがないのです。

 イエス様は「互いに愛し合いなさい」と言われただけではなく、「あなたの主なる神を愛しなさい」とも言われました。そして、どちらも命を得るためになくてはならないことであるけれども、第一の律法は、あなたの主なる神を愛することにあるのだと言われたのでありました。神は愛であり、すべての真実の愛は神から与えられるものだからです。私たちが神様と向き合い、神様の愛と祝福と教えの言葉を聞き、それを信じ、信頼し、神様との関係に生きるとき、私たちの心には人を愛する豊かさが生まれてくるのです。

 それは、聖書が、人間が神の形に作られたと記していることからも分かります。神の形とは、神様と同じ姿という意味ではなく、神様と向き合い、関わり合うことができる人格的な存在として、人間が造られたという意味です。それから、神様は人間がひとりでいるのはよくないと言われて、男に対して女を作られたと書いてあるのです。人間は、まず神様と向き合う存在として造られ、それが互いに向き合う存在として造られているのです。
ヨナの死
 さて、ずいぶん遠回りになってしまいましたが、神様に背中を向けて歩み出した人間の末路は、必ず死であるというお話であります。ヨナは、神様に与えられた自分の務めを放棄し、自分の思うがままの道を行こうとすることによって、神様に背中を向けてしまいました。神様と向き合い、関わり合うことをやめてしまったヨナの末路は、嵐の海に投げ込まれることであったというのです。それはヨナの死を意味するのです。

 ところが2章には、にわかには信じられないような話が書かれています。嵐の海の中で溺れるヨナに、大きな魚が近づいてきてヨナをパクリと呑み込んだ。ヨナは、その魚の中で三日三晩生きて、神様に祈った。すると、魚はヨナを浜辺に吐き出し、ヨナの命が救われたということなのです。

 まったくおとぎ話ようなことです。本当に魚の中で人間が三日三晩生きているなんてことがあるのでしょうか? こんなことをまともに信じることが信仰なら、まったくいただけない話だと思う人もおりましょう。そこまでは言わないものの、私だって何の疑いもなしに信じられるわけではないのです。

 しかし、私は、これを単なるおとぎ話、あるいは寓話だとは言いたくないのです。この通りのことが起こったのだと、信じたいのです。これが現実の話であって欲しいというのが私の願いであり、これが現実の話であると信じることが私の希望なのです。

 それは、私もヨナのように神に背き、死ぬべき、滅ぶべき人間であるからです。たとえ、私が今クリスチャンであろうと、牧師であろうと、神様は私の心の中にみにくさ、汚らわしさを、あますことなくご存じのお方です。ヨナが神様から隠れることができなかったように、私に自分の罪を隠すことができないのです。そういうことを考えたとき、私にあるのはただただ滅びであります。しかし、ヨナがその滅びのただ中から救われたとしたならば、私のことも神様は救ってくださるのだと思えてくるのです。

 ヨナは海の中で、一度死んだのです。神の背きのゆえに滅ぼされたのです。心臓が動いているかどうか、生理学的に心臓はどうだったか、脳はどうだったか、そういうことは関係ありません。神様の前に生ける者であったか、死ねる者であったか、それこそが大事です。

 ヨナはその時の経験をこのように語ります。

 「あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。
  潮の流れがわたしを巻き込み
  波また波がわたしの上を越えて行く。
  わたしは思った
  あなたの御前から追放されたのだと。
  生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。
  大水がわたしを襲って喉に達する。
  深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。
  わたしは山々の基まで、地の底まで沈み
  地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。」(4-7節)

 「潮の流れがわたしを巻き込み、波また波がわたしの上を越えていく」、「大水が私を襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。」と、ヨナが、荒れ狂う嵐の海の中で溺れていく苦しみが生々しい言葉で語られています。そして、「わたしは山々の基まで、地の底まで沈み、地はわたしの上に永久に扉を閉ざす」とは、海の底に沈み、意識が遠のいていく様子を表現したものでありましょう。

 ヨナは、これを肉体の死としてだけ捉えたのではありません。「あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた」とありますように、神の裁きとして受け止めていました。そして、そこに救いがあるなどとは夢にも思いませんでした。「わたしは思った。あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び神殿を見ることがあろうかと」と言われている通りです。神様との交わりが永遠に経たれ、もはや立ち帰ることなどできない、神なき望みなき永遠の死の闇の中に葬られたのだと思ったのであります。これが死の経験でなくて何でありましょう。

 私も、神様の救いがなければ、今あるこの生は、背きの罪を追い、永遠に追放された者として、神なき望みなき死の暗闇を彷徨っているだけの生を生きているだけに違いないのです。そういう意味では、私も死を経験しました。神なき望みなきところを彷徨いました。

 しかし、ヨナはこの滅びのただ中から救われたのでした。

 「苦難の中で、わたしが叫ぶと
  主は答えてくださった。
  陰府の底から、助けを求めると
  わたしの声を聞いてくださった。」(3)

 「息絶えようとするとき  
  わたしは主の御名を唱えた。
  わたしの祈りがあなたに届き
  聖なる神殿に達した。」(8)

 人々は、巨大な魚がヨナを呑み込んだとか、その腹の中で三日三晩も生きていたということが信じられないかもしれません。しかし、私は、神様が神様であるなら、そんなことは不思議でも何でもありません。人間にはできなくても、神にはできないことはないのです。しかし、神様に背き、神様に見捨てられ、滅ぼされていく人間の祈りが、なお神の御前に届いているということこそ驚くべきことであります。魚が云々という前に、罪人の祈りが神様の御許に届き、それを漏らすことなく聞いてくださっている神様がいらっしゃるということこそ救いの奇跡なのです。

 神様がこのような神様であればこその、私たちの救いであります。「救いはエホバより出ずるなり」、ヨナと共に神様の御救いの限りなき広さ、深さ、高さを誉め称えて生きて参りたいと思います。
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