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今日は『ヨナ書』の最後の学びです。前回もお話ししましたが、『ヨナ書』というのは、本当に思いがけない話の連続でありました。預言者ヨナが神様から逃げ出してしまった話。その預言者が嵐の海の中で大きな魚に救われた話。また、こんな情けない人間を、神様はもう一度信任して、預言者としてニネベに遣わされたという話。こうしてヨナがニネベの町で神の裁きを宣べ伝えると、ニネベの人たちがこぞって悔い改めたという話。すると、神様はニネベに下そうと決めていた災いを思いとどまられたという話。このように思いがけないことばかりを語る『ヨナ書』が、私たちに伝えようとしているのはいったいどんなことなのでしょうか? それは、神様の愛は、人が驚き、戸惑い、場合によっては拒絶したくなるほど広く、長く、高く、限りないものである、ということなのであります。
よく旧約聖書の神は怒りの神であって、新約聖書の神は愛の神だと区別する人がいます。果たしてそうでありましょうか? 『ヨナ書』を読みますと、それは全くの思い違いであることがよく分かります。もちろん、ヨナの時代には、神の独り子イエス・キリストはまだ世に与えられておりませんけれども、神様から逃げ出したヨナを取り扱い給う神様の愛、異邦人の町ニネベを取り扱い給う神様の愛、それはまさしくイエス様を世にお与えくださった神様の愛と一つなのです。
そういう意味でいうと、『ヨナ書』は、旧約と新約を結ぶ書だと言ってもいいかもしれません。実際、イエス様は、この『ヨナ書』こそ旧約時代において新約時代の福音を証しする貴重な書であるということを明らかにされています。
すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(『マタイによる福音書』12章38-39節
ユダヤ人たちの一派が、イエス様のところにやって来て、「あなたがメシアであるという証拠を見せてください」と願った、と記されています。しかし、イエス様は一言、「そんなことはヨナ書を読めば分かる。」、とお答えになります。「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」とは、そういう意味です。
しかし、それでは納得できないユダヤ人たちに、イエス様はさらに、こういう風に言われました。
「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。(『マタイによる福音書』12章40-42節)
ヨナが三日三晩、魚の腹の中にいて、そこから生還したように、イエス様もまた三日目に復活するであろう。また、ヨナの宣教によって異邦人の町かつ悪徳の町であるニネベが救われたように、イエス様の宣教によってアブラハムの子孫であるユダヤ人を差し置いて、まず異邦人たちが救われることになるであろう、ということが言われています。つまり、『ヨナ書』のどんでん返しに次ぐどんでん返しの物語は、イエス・キリストの福音によるどんでん返しの物語の前触れだということなのです。
「見よ、ここにヨナにまさる者あり」、これが私の証しであると、イエス様はおっしゃいます。『ヨナ書』の中に現れている罪人の赦し、復活の命、異邦人の救いという驚くべき物語が、それ以上の規模で、今イエス様によってこの世界に現されようとしているのだ、ということなのです。
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さて、先週は、ヨナが、このような限りない神様の愛に対して怒った、というお話をしました。具体的には、神様がニネベに下そうとしていた災いを思いとどまられたということが気にくわなかったのです。それはどうしてなのか。一つには、先週もお話ししましたように「神様の気前の良さをねたむ」という気持ちがヨナにあったのだろうと思います。このことついては、今日はもうお話ししません。しかしもう一つ、ヨナの怒りの源には、ヨナの正義感ということがあったのではないかと思うのです。
確かに、世の中で罪を犯した人が罰せられないとしたら、世の中の正義は著しくねじ曲げられることになるだろうと思います。ヨナだって、罪を犯したのですが、そのために嵐の海の中で放り込まれ、死ぬような思いをしたのです。それなのに、ニネベの人たちは悔い改めたとはいえ、何のお咎めもなしで赦されている。なぜ、自分だけはこんな厳しい罰を受けなければならなかったのか? あるいは、こんなことがあり得るなら、正しい人だって報われないではないか? 正しく生きようとした人の努力や苦労はどこで報われるのか? こんな不公平な神様のやり方は間違っている。そういう正義感が、怒りとなってヨナの中に湧いてきたのではないかと思うのです。
そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。
ヨナは、都の外からニネベを眺めるような場所に、簡単な小屋を建て、その中に座り込んで、じっと都の様子を見張りました。この小屋というのは、木の枝などを組み合わせて、申し訳程度に日差しを避けるだけの非常に粗末な東屋だったと思われます。どうして、ヨナは荒れ野の厳しい日差しに打たれる苦しみに耐えながら、ニネベの様子を見張り続けたのでしょうか。ハンガーストライキじゃありませんが、「わたしはニネベが何の罰も受けないなんてゆるせませんよ」ということを、神様にアピールしたかったのかもしれません。 |
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すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。
神様はヨナを日差しの苦痛から救うために、一本のとうごまを生えさせられたとあります。とうごまの木は成長が早く、二メートルぐらいまで伸びるのだそうです。また、手の平のような大きな葉っぱがあり、これが日陰を作るのにちょうど良かったのでありましょう。
まず私は、神様が、ヨナのこのような怒り、また座り込みの抗議にも関わらず、ヨナに対する親しみを少しも失わないで、ヨナに接してくださっていることに感動します。まるで、聞き分けのない強情な子供に手こずりながらも、決して愛情を失わず、いつでも暖かい目で教え導かれる親のようではありませんか。
私どもは、信仰生活と言いますと、正しい心で、間違いのない生活をしなくてはいけないと思うかもしれません。もちろん、そういう心がけも必要なのかもしれませんが、そうでなければ神様の愛が私から離れてしまうと考えるのは大きな間違いです。そんな風に考えると、お祈りをするにしても、こんなことをお祈りしても神様は怒らないかしらんとか、聖書を読むにしても間違った解釈をして大変なことにならないかしらんと、うかつに祈ることも、聖書を読むこともできなくなってしまう。いつもびくびくしながら、非常に窮屈な信仰生活を送るようになってしまうのです。
そうではなくて、ヨナのように不満でも、怒りでも、隠すことなく、洗いざらいにお話ししたらいいのです。そうしたら、神様がそれを清めてくださいます。いつ親に捨てられるかもしれないとびくびくしながら家で生活している子供がいるとしたら、それは本当に可愛そうな子です。それは子供の責任というよりも、子供を不安にさせるような愛情しか与えられない親の責任でありましょう。しかし、神様は決して私たちにそんな思いをさせるようなお方ではないのです。今年度の教会標語は「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」という御言葉でありますが、「あなたの罪は赦される」という誠に力強い約束があるからこそ、私たちは愚かで足りないところがたくさんある者であっても、自由に、生き生きと、神様を愛し、また祈って、教会生活を送ることができるのです。
とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。
以前には神様は大きな魚に命じてヨナを救われました。今度は、とうごまの木に命じてヨナを苦痛から救われたとあります。神様は、このように動物や植物を通して、私たちに恵みを与え、救いを与えられることがあるのです。
皆さんも、ペットに心癒されたり、植物に心癒されたりということがあるのではないでしょうか。実に、神様はあらゆるものをもって私たちを助けられるのです。ヨナもとうごまのおかげで、今までの不満をすっかり忘れ、この木の作り出す木陰を大いに喜んだのでした。
ところで、ヨナが喜んだと書いてあるのは、考えてみますと、ヨナ書の中でこの時だけです。しかも、この喜びも、たった一日の喜びでした。翌日にはすぐに喜びは消えて、また大きな不満がヨナの心に満ちてきたのでした。
ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」
神様は、とうごまの木を生えさせ、ヨナを大いに喜ばせておきながら、一日にしてそれを虫に食い荒らさせ、枯らせてしまわれます。ヨナは暑い太陽と、カラカラに乾いた熱風に吹き付けられて、ぐったりと力を失い、再び「生きているよりも、死ぬ方がましです」と神様に訴えだしたのでした。
しかし、こんなヨナを愚かだと笑えない現実が、私たちにもあります。私自身のことを顧みてみますと、出かけようとした日に雨が降ったり、バスがなかなか来なかったり、さあ一息つこうと思ったところに呼び鈴がなって、誰かと思えばセールスマンだったり、そんな些細なことですぐに不愉快な気分になってしまうことがよくあるのです。よく考えてみると、神様が素晴らしい青空をもって旅行を祝福してくださったり、間に合わないと思ったバスに間に合わせてくださったり、たくさんの喜びも神様からいただいています。それにも関わらず、ちょっと思い通りにならないこと、期待がはずれるようなことがあると、すっかりそういう喜びを忘れて不機嫌になり、場合によってヨナとまったく同じように、神様に不満をぶつけたりしてしまうわけです。
どこに問題があるのでしょうか。私たちが喜びや悲しみが、自分の外的環境によって振り回されているからいけないのです。そのようなものは、まさに一夜にしてなり、一夜にして枯れてしまったとうごまの木と同じで、めまぐるしく変わるのです。
私たちは、自分を取り囲む外的な環境にではなく、自分の内側にもっとしっかりした喜びを持つべきなのです。ヨナにも、そのような喜びがあるはずです。一度は神様に見捨てられたと思ったこの身が、今も神様と共にあること。一度は逃げ出してしまった者でありながら、もう一度神様が自分を信任して、預言者としてくださったこと。それは、神様が、取るに足らぬ無きに等しい自分のことを、それにまったく見合わない非常に確かな愛をもって愛してくださっているということなのです。
ヨナは魚のお腹の中で、この喜びを深く噛みしめたはずであります。
しかし、わが神、主よ
あなたは命を
滅びの穴から引き上げてくださった。
息絶えようとするとき
わたしは主の御名を唱えた。
わたしの祈りがあなたに届き
聖なる神殿に達した。
偽りの神々に従う者たちが
忠節を捨て去ろうとも
わたしは感謝の声をあげ
いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。
救いは、主にこそある。
素晴らしい神への讃美です。実は、ヨナが喜んだのはとうごまの木が生えてきた時だけだと申しましたが、喜びという言葉こそなくても、この魚の腹の中にいる時の方がずっと大きな喜びを感じていたに違いないのです。その喜びを、ヨナはあまりにあっさりと忘れてしまった。そこに、大きな問題があったのです。
神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
神様は、「お前の怒りは正しいか」と、ヨナにおたずねになりました。「もちろんです!」と、ヨナはすぐに切り返しています。ニネベの救いについてヨナが怒っている時も同じです。やはり、神様は「お前の怒りは正しいか」と問われました。このように二度も、「お前の怒りはただしいか」と問われたのですから、少しは神様の御言葉の意味を考えてみればよかったと思うのです。けれども、ヨナは、端から神様は間違っていると決めつけていますから、神様が教えようとしていることをまったく悟ろうとしていないのです。
ただ、そんなヨナに対しても、神様はあくまでも静かに、忍耐強く、諭されます。
すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。」
ヨナが失って悲しみ、怒り、「もう死にたいくらいだ」と言っているのは、自分が愛情を注いだわけでもなく、育てたのでもない一本のとうごまの木の故でありました。このとうごまの木は、決してヨナのものではありません。神様のものなのです。それなのに、ヨナが、まるで神様がそれを奪い取ったかのように言うのは、まったくおかしなことです。
けれども、神様は、「お前こそ間違っているではないか。お前にはそんなことをいう権利はない」と、ヨナを責めたりしていないところが非常に重要なポイントです。実は、つくづくと考え見るならば、私たちがもっているすべてのものは、神様からの御手による贈り物なのです。命もそうです。家族もそうです。仕事もそうです。衣食住に関わるものもそうです。霊的な恵み、たとえば信仰であるとか、教会であるとか、祈りであるとか、すべては神様の贈り物なのです。
神様は、私たちに対する愛をもって、これらのものを喜んで私たちにお与え下さる方です。それを要求する権利はお前にないはずだ、などと冷たいことはおっしゃらないのです。しかし、だからこそ、神様はつづけてこうおっしゃるのです。
「それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
私は、お前を愛しているように、あの人々を愛しているのだ。お前に豊かな恵みを与えたいと思っているように、あの人たちにも豊かな恵みを与えたいと思っているのだ。なぜなら、私はすべての者の造り主なる神、天の父だからだ、神様はヨナにおっしゃったのでした。
ヨナは、この神様の言葉をどのように受け止めたでしょうか。悔い改めのでしょうか。それとも、相変わらず、神様への不満を持ち続けたのでしょうか。その顛末について、『ヨナ書』は何も伝えていません。ただ、どうしてニネベの町を、右も左もわきまえない赤子のような者たちを、惜しまずにいられようか、そんなことは決してできないという、神様の切々たるお言葉で終わっているのです。ヨナはどうであったかということも確かに気になるところですが、それよりも、このような神様のお気持ちを聞いて、私たちはどうするかということが問われているのだと思います。
この世界は、ニネベの町よりもはるかに罪深く、神を恐れぬ世界と化していると、私は思います。ヨナのように、こんな世界はもう駄目だ、滅ぶしかないという絶望的気持ちも起こってくるのです。あるいは、もっと個人的なレベルで申しましても、自分という人間の罪深さ、愚かさに絶望することもあります。やはり、ヨナのように「死んだ方がましだ」という気持ちになったこともあります。けれども、神様は、このような右も左もわきまえない罪深い世界、愚かな世界を見て、「われこれを惜しまざらんや」と言われるのです。神様は、この世界の罪深さ、私たちの愚かさに、絶望なんかしないのです。逆に、ますます愛を燃やし、「われこれを惜しまざらんや」というお気持ちで、私たちを見てくださっている。これがヨナ書のメッセージです。
私は、その神様のお気持ちを思うとき、本当に申し訳ないという気持ちと同時に、この神様の愛になんとかお答えしなくてはと心動かされるのです。心が動いても、だから何かができるということでもないのですが、神様の愛を信じ、喜び、自分自身にも、隣人にも、この世界にも、神様の愛に対する希望をもって生きたいと願うのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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