「福音の希望から離れてはなりません」
(新約 『コロサイの信徒への手紙』1章23節から)
福音とは何でしょうか。福音とは、イエス様がしてくださったことと、してくださること、この二つによって人が救われるということです。自分に何ができるかとか、他人が何をしてくれたか、何をしてくれなかったではありません。イエス様の恵みの業によって救われるのです。
「わたしは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた」
(旧約 『ネヘミヤ記』1章4節から)
ネヘミヤは落胆し、何もできなくなるほどの憂いに襲われ、幾日もただ嘆き続けました。しかし、人にはこのような経験も必要なのではないでしょうか。ネヘミヤの場合、この落胆が次なる人生への準備の期間であったとも言えます。
目を覚まして祈っていなさい。
(新約 『マタイによる福音書』26章41節から)
目を覚ますというのは、第一に肉体的な覚醒を言い、第二に霊的な覚醒を言います。寝ぼけ眼で祈ることはできませんし、霊的に神の御業を見る信仰を持たずして、力強い祈りはできないのです。
義に飢え渇く人々は幸いである。
(新約 『マタイによる福音書』5章6節から)
イエス様を主と信じる人の生活は、目標をイエス様においていますから、決して満足するということがありません。その代わり、いつもより良いものを求めて心が燃えているのです。イエス様は、そのような人を幸いだと言われます。
わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。
(新約 『ルカによる福音書』22章32節から)
自分の信仰が本物かどうか疑っている人はいませんか。イエス様はあなたの弱さを知っていてくださいます。そして、あなたに信仰を求めておられるだけではなく、あなたの信仰の為に祈ってくださっているのです。あなたの真実ではなく、イエス様の真実によって、信仰は守られるのです。
イエスは涙を流された。
イエス様は愛するラザロの死に涙を流されました。悲しいときは泣きましょう。どんなに悲しんでも、私たちは神様の御手で支えられているから大丈夫なのです。
きっと神が備えてくださる。
「なぜ、愛の神がこんなことをなさるのか」「何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな目に遭うのか」人生にはどうしても理由が分からない道を強いて歩まされることがあります。しかし、そんな時にも神様には理由があり、試練に対する答えと備えがあるのです。
あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。
福音とは、イエス様がしてくださったことと、してくださること、この二つによって人が救われるということです。わたしがしてきたこと、わたしにできることではありません。この世が何をしてくれたか、何をしてくれるかでもありません。どうぞ、福音にこそあなたの希望をおいてください。
「助言が多すぎてお前は弱ってしまった」
「必ず成功する」「必ず治る」「必ず儲かる」「必ず痩せる」・・・巷にはたくさんの助言が溢れています。しかし、それらはみな私たちを迷わせるだけです。「イエス・キリストはすべてのことにおいてあなたの救い主である」どうぞ、そのことだけを信じてください。
愛は忍耐強い。
まず茎、次に穂、そして穂には豊かな実ができる。
このことが分かり、その通りに実行するなら、幸いである。
キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
わたしはアルファであり、オメガである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。
夜明けは近づいている。しかしまだ夜なのだ。
祈るためにひとり山にお登りになった。
疲れた者、重荷を負う者は、だれもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。