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わたしが、このように十字架のもとでお話しすることは、十数年前にはまったく考えられないことでした。まだまだ十字架の救いの喜びを得て歩みだしたばかりとしか思えない者なのですが、早いもので13年を迎えようとしています。
それまでは、まったくイエス様を知りませんでした。自分が神様の大いなる恵みを頂いて歩んでいるんだという自覚も、まったくありませんでした。家が浄土真宗で、年寄りが、朝に夕に、熱心に念仏を唱えていたものですから、自分も浄土真宗の信者なんだろうぐらいに思っていたんです。
しかし、それは決して自分自身の信仰ではなかったということを気づかされまして、それじゃあ自分は何を拝し、何を信じていったらいいのかという疑問にぶつかったわけなんです。
ちょうど、その当時、私の出た大学に講師として来て下さった先生でもあるんですが、ネパール伝道に力を入れているその先生が、荒川教会に来られるということで、「聞きに来ないか」と母に誘われました。その時に、はじめて荒川教会に行って、キリスト教に触れました。決して違和感はなかったんですが、皆さんが同じ思いをもって、一つになって祈りつつ、イエス様を拝する様子を見まして、いったいどういうことなんだろうなと疑問を感じました。
それから水曜日の祈祷会にうかがうことになったのです。小さな集まりだったんですが、そこで勝野先生をはじめ、Uさん、Tさんなどにやさしく、親切にご指導を頂くことになりました。
最初は、本当に疑問ばっかりで、「どうして」「どうして」と尋ねるものですから、先生もお疲れになったのでしょうか。「『どうして、どうして』と言っているうちは駄目なのよ。とにかく毎週、毎週日曜日の礼拝に来なさいよ。そこから始まるんだから」と言われました。そういうわけで、今日まで十数年間、先生のその言葉に勇気づけられ、そして忠実に、日曜日の礼拝を皆さんと共に守ってくることになったわけなんです。
「継続は力なり」と言いますが、「毎週、毎週きていれば、分からないものが見えてくるのよ」と言われた、そのことが、今、少し分かってきたように思います。
しかし、「本当に信者だったのかな」と、改めて気づかされたのが、先ほど読んで頂いた聖書の御言葉なのです。まったくの未信者から信者として、神様の恵みを賜りつつ、「うれしいな。信仰というのは素晴らしいな。奥が深いな」と、神様の幸せを自分自身に頂いていて、本当に幸せだなと思ってきました。しかし、祈祷会も礼拝もほとんど休むことなく守り続けてきたということを、神様の恵みとしないで「自分が努力している」という、その一つの傲慢さがあったと思うのです。
その喜びを、一所懸命に教会生活、日々の生活をしておられる方に対して、自分なりに評価したり、批判したりしている自分をみつけたわけでなんです。自分自身のいたならさ、弱さというものを棚にあげて、その人たちを批判している自分につきあたったときに、自分は一所懸命に「神様、神様」と言いながらも、「なんだ、この聖句を見れば、これは決して信者としての歩みじゃなかったんだな」ということを強く教えられたわけなのです。
新共同訳聖書を読むようになってから、見出しがところどころにありまして、これがたいへんよく目に飛び込んで来るんです。すると、申命記八章、「主を忘れることへの警告」という言葉が目にぽっと入りました。
信者となっても主を忘れることがあるのかなと思って、自分をちょっと振り返りながらここを読んで、びっくりしたんです。いろいろな恵みを賜りながら、そして、神様の富を賜っているにも関わらず、霊的な傲慢といいましょうか、霊の落とし穴にすっぽりと陥っていた自分というものがいたのです。
この世的な的な恵みを頂いて、それだけで満足していたり、御霊を頂いているにも関わらず、そこの部分にサタンが巧妙に入り込んで、自分を引っ張っていたんだなと強く教えられました。自分は、いっとき本当に多くの人々を自分なりに批判し、評価していた。その部分を強く悔い改めさせられる箇所だったのです。
人を裁くとか、人を中傷するとか、これは本当に心地よいものなのです。自分はこうで、こんなことをやっているのに、あの人はあんなことをやっている。なんであんなことをやっているんだろう。しょうがないな。というところで、自分は信仰生活をしていること、教会に来ていることに鼻高々だったんですね。しかし、その鼻の高いところを、神様はポンと折って下さった。その恵みに気づかされたことに、もう一度、神様に感謝を捧げたいと思っています。自分は未信者ではないけれど、不信者であった。そのことを神様は強く示してくださり、「このままじゃあ、お前、いけないよ」と教えて下さったのです。
それは何がきっかけかというと、毎週日曜日教会に来る喜びを、祈って与えられた喜びとして、週なかばの祈祷会をどんなに忙しい仕事があっても、その時間帯をぽっと与えて下さる神様に感謝しながら守ってきました。その部分で、神様が答えて下さったんじゃないかなと思うんです。
こうして、すべてにおいて神様が備えておいてくださるその部分に、自分がいかに100パーセント乗れるか否か、ということを、もう一度祈りながら、そしてすべて神様に披瀝しながら歩んでいかなければいけないなということを強く教えられたわけなんです。
同時に、新約の方でも読んで頂きました「高ぶることがないように」という部分なんですが、この高ぶりというのは、すごく巧妙に、私自身をサタンが引き寄せるわけですね。高ぶりというのは、何事においても心地よいわけですから、「人を裁くな」「決してつまづくなかれ」と言いながら、自分がつまづいているばかりではなく、隣人に大きなつまづきを与えている自分に気づかないまま、日々の信仰生活を送っているという落とし穴、そこに気づかせてくださった神様に感謝しています。
小さいところからだんだんに忠実に歩んでいくならば、大きな恵みを与えて下さるという、「忠実であること」という部分を新しく教えられました。この部分は1996年12月15日の国府田先生のお説教にもありましたけれども、「一日は千年であり、千年は一日でもある。主のもとに信じ、主が来られる時まで、つねに忠実で生きていなさい。主のために生き、自分を捨てて生きることが、主の恵みのもとに生きることなんだ」ということを、先生が言ってくださって、小さな事に忠実であるならば、必ず大きなことにも忠実に生きられるんだということを、私に教えて下さった箇所でもあるのです。 |
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