私にとっては、家族三人で礼拝を守れるということが何よりも大きな感謝です。仕事が忙しいので、ついつい眠くなってしまったりすることがあるのですが、いつも十字架を見上げるとぱっと眠気が醒めるということが一番の恵みかなと思っています。
十字架というのは、普通の方から見れば死刑台ですから、非常に辛くて、暗くて、痛いというイメージだと思うのです。けれども、私たちから見ますと、教会の真ん中に掲げられている十字架というのは救いであって、感謝であって、勇気であって、安心の象徴です。そういう感覚をもって十字架を仰ぐことができるとのをうれしく思っています。
ともすると、私なんかは教会に来てなければとんでもない人間になっているんじゃないかなと思います。どうしても人間の内面的な部分というのは悪い思いがあったり、そういうものが自然にたまってきてしまうのだと思います。そういうものが、教会に来ることによって悔い改め、清めていただけるということを感じるのです。
自分が死ぬ間際にどうなっているかなということよりも、どのように生きたのかということが大切だと思います。どのように生きたのかということの道添えをしてくださるのがイエス様であり、み言葉だと思います。これがなければ、どんどん道を反れてしまうと思うのですが、礼拝に来てみ言葉を聞くことによってまたレールの上に載せていただているということが信仰生活の喜びです。
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