「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(Uコリント4章7ー9節)
子供の頃、このみ言葉によって、私の信仰が定まりました。
私は五年生で北鮮から引き上げてまいりました。その引き上げの道中でたいへん苦しみ、体をすっかり壊してしまったのです。終戦が昭和20年ですから、21年に帰ってきました。
北鮮では一年間、日本人学校に検束されてしまい、ほとんど教育というものがありませんでした。それで、日本にかえってからもう一年、五年生をやることになりました。
体はすっかり弱っているし、みんなが元気に体操をしていても、自分はいつも見学でした。それは高等学校がすむまで見学でした。お医者さんはいくらでもいるんですが、当時は薬もなく、しっかりした診断もつけてもらえず、治していただけませんでした。その時に自分の心に抱いたものは何かというと劣等感です。劣等感がありながら傲慢ということが必ずつきまとうのです。それで本当にこれでいいのかしらと悩みました。
私は赤ちゃんのときから教会には行っていましたけれども、当時は文語体の聖書でしたから、五年生ぐらいではわけがわかりませんでした。だけど、ある時、この箇所のお話を分かり易くしてくださった牧師先生がいらっしゃいました。それでも分からなくて、このことを両親に尋ねたら、両親が細かく話してくれました。その時にハッと気づいたことがあったのです。自分の力で信じようとか、みんなのように立派になろうとしても、自分にはとても出来るものじゃないということが、私の問題だったんですね。ですから、自分が一番葛藤したり、悩んだことは、自分が嫌いになったこと、つまり自分が嫌いになったことだったのです。
それで「土の器」というもの聞いたとき、それは自分だと思いました。けれども、ひびだらけで水を入れても漏れるような、そういう貧しい器の中に神様の宝が入れられるというのです。そして、その宝によって計り知れない力を私たちに与えてくださっているというのです。そのことが分かったときに、「それじゃあ、自分の力でなんか何もできないんだ。もう神様に委ねて、器の中の神様の宝に助けていただけるんだ」ということを子供ながらに思ったときに、なんかとても気が楽になって、そして進んで教会に行こうという気持ちになりました。
これが私の信仰の出発点です。信仰の喜びということですが、試練が信仰の始まりでした。それからいろいろな試練がありましたけれども、その分だけ神様が助けて下さるという経験もしてきました。私は、このように試練のお陰で信仰の喜びが与えられるということを子供の頃から感じてきたように思います。
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