先日、三月二八日に洗礼を授けていただきましたばかりですが、今日は証しをさせていただく機会をお与え下さいましたことを感謝申し上げます。
私がこの荒川教会の門をくぐったのは丁度ペンテコステ礼拝の前でしたので、もう一年前になります。自分の犯した罪にさないまされ、つらい日々が続き、落ち込んでは食べ過ぎたり、自分を責めたりすることにも疲れ果て、まさに苦しい時の神頼みのように、導かれました。地元で育った私にはこの教会は馴染みがあるものの、今まで縁がなく素通りするだけの存在でした。その時、読み返していた三浦綾子さんの『光あるうちに』の中で、「まず近くの教会のドアを叩き、礼拝に出るように」と書かれていたのも後押ししてくれました。
教会に行こうと決めると、居ても立ってもいられなくなり、日曜の礼拝を待てず、水曜の祈りの会に飛び入り参加させていただきました。そこで温かく迎えていただき、また聖書や先生・信徒の方々の意義深いお言葉を伺い、砂漠に水がしみ込むように私の心を潤してくださったのを覚えています。初めて礼拝に与らせていただいた日には信者の方々から温かい拍手と握手と歓迎のお言葉をかけていただき、それまでの世界とは別のような、本当にここに神様がいらっしゃると、この教会の人々の中に神様を見た思いがしました。
その後、礼拝にはできるだけ与らせていただくようにし、日曜の十時四五分に教会に行く前と十二時十五分くらいに教会から出る時とでは、自分の心持ちが確かに違う、行く前よりも行った後のほうが晴れやかで前向きで生き生きとしており、何事にも感謝したくなる、家族にも優しくなれる。たぶん礼拝の効果を一番実感しているのは家族だったのではないでしょうか。讃美歌を歌うだけで涙が流れるようなこともありました。
こうして神様のお言葉を伺ったり、聖餐式などを見守る中で、キリストを信じたいけれど、どう信じて良いのか。自分がどのような状態になったら信じていると言えるのか分からないまま、その年の暮れを迎えました。国府田先生への年賀状にその思いを「来年こそは受洗できますように」としたためました。そうしたところ年明けに、国府田先生から、「洗礼を受ける準備のための勉強会をやりましょう」と声をかけていただきました。
下の子が生まれて五ヶ月目ぐらいでしたが、育児休業中で比較的時間にゆとりがあったため、毎週月曜日に、上の子は先生のご自宅で遊ばせて頂き、下の子は抱っこしながら、長森さんとも一緒に学ぶことができ、とても有り難い機会に感謝しています。そこでは聖書の読み方から教えて頂き、クリスチャンになるための心構えや、聖餐式など礼拝や教会にまつわる意味、素朴な疑問など何でも話し合うことができました。
その中で当初からの疑問だった「信じたいけれど、どうなったら洗礼を受けられるのだろうか?」と尋ねたところ、「どうなったらという目安ではなく、信じたいと思う気持ちがあるところに既に神の導きがあるのだ」というお言葉をいただきました。それまで私は何かの確信が得られてから洗礼を受けるものと思っていましたが、まだ信じる途中にあってもそれは既に導きに応えられている所以なのだと知り、信仰の第一歩を踏み出す決意をするに至りました。
洗礼を授かると決まると心落ち着き、嬉しくて待ち遠しかったです。自分の罪はなくなりませんが、打ちひしがれてしまうのではなく、自分に出来ることをしていこう、と思いました。洗礼の日は家族で礼拝に与り、讃美歌に涙し、また先輩の信者の方々からも温かく祝福して頂き、感謝と共に、これからはその温かさを私ももって、次に洗礼を受ける方にリレーしていきたいと思いました。
洗礼を受けてから二ヶ月が経ちましたが、四月から職場復帰をしますと忙しさも環境の変化も重なり、礼拝に参加できない日や神様から心離れてしまうこともありました。すると途端に心が荒み、些細なことでイライラしたり、落ち込んだり、体調まで壊してしまいました。これではいけない、やはり神様・教会から離れてしまってはいけないと実感し、また信仰生活を改めていきたいと思っているところです。
今日、こうして証しをさせていただくにつけ、自分の導かれた道を振り返り、思いを新たに、強くすることができ感謝しています。準備に当たって『クリスチャン生活百科』の「あかしする交わり」のページを読みました。今日のような「話すことによる証し」の他に「行いによる証し」というものがあり、誠実で愛に溢れた姿を見るとき、人々は確かに主がおられることを知る、一番説得力のある証しかもしれません、と書かれていました。私がこの荒川教会に導かれた初日から今日至るまで一貫して感ずる温かさは、まさに行いによる証しなのだと、今分かりました。これからは自分も、その行いによる証しができるよう心がけていきたいと思います。
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