荒川教会に参りまして、早二年三ヶ月、洗礼を受けて一年九ヶ月になりました。国府田先生をはじめ兄弟姉妹の皆様が、温かく迎えてくださいましてお礼申し上げます。
三年前、夫の病気で私の生活は一転し、姉に、苦しんでいる時悩んでいる時は教会に行って「神様に祈りなさい。救われるよ」と言われ、教会に参りました。私はただ神様お救い下さい。この一言を口にして毎日祈り、今までの私の罪をイエス様に背負って頂き、身も心も軽くなりました。
今、私は「神様を信じ、日々祈り、日々感謝をする。」この一文が私の生活であり、生きる支えであり、人生の希望でもあります。
日々神様に祈る。祈ることによって自分の精神が安らかになり、一日落ち着いて穏やかな心で過ごせるようになりました。諸々の感情、憎しみ、怒り、恐れ、不安、負(マイナス)の感情が祈りによって和らぎ、苦しい事、悩み事、悲しい事があっても祈りによって不思議と心が和みます。ただ、祈るだけなのに心穏やかでいられるのは何処からくるのか。祈った後は神様に委ねる。あれこれ考えず、思い煩わず、ただ神様を信じて結果を待つ。そうする事によって平安な日々を過ごせるのです。以前の私ですと、悩みや不安があると、いつまでも頭から離れず、クヨクヨし、イライラし、ストレスを溜めていたのです。
幸、不幸はその人によって考え方、感じ方は違いますが、私は神様を信じて祈り、委ねて生きることが幸せなのだと思っておりますし、実感しています。
そして、日々神様に感謝をする。私は、洗礼を受ける前と、受けた後では感謝の意味の捉え方が変わりました。以前は、単なる儀礼的な言葉として使っていたように思います。神様に守られ、穏やかな日々を過ごし、神様への感謝の言葉を口にするようになって、感謝の意味の奥深さ、重さ、広さを感じるようになりました。祈りにおいても同じです。
また、今まで何をするにも既成概念に囚われ、周りの目を意識し生活しておりました。その為に、自分を縛り家族をも縛ってきたように思います。時々、その紐から逃れようとし紐を解こうとするが、解くだけの勇気がないままにこの年齢まで生きて参りました。でも、神様、イエス様の存在を知り、信じることによって、どのように生きていけばよいのか、生きるとはどのような事なのか思い知らされました。社会の規範に囚われず、ただひたすら神様を信じ、感謝し、生きていく。それによっておのずと自分を縛っている紐から解き放たれ、神様に導かれ守られ人生の希望が見えてくるのではないか、と思うようになりました。
洗礼を受けて一年九ヶ月、平安な年月を過ごしています。年月が短くても、この一年九ヶ月は、私にとりまして人生のステップを一歩一歩確実に前を向いて歩かされているように感じます。
「主なる神は、日です。盾です」 この世の社会における悪から守ってくださる神様は、盾となって下さり、また自分の生きる希望、日でもあるのです。私の生活は、神様を信じ、日々祈り日々感謝です。これからも神様から離れることはないし、神様なしの生活は考えられない程、神様から多くの恵みを受け、多くの愛を頂いています。これから何十年生きられるか分からないが、残りの人生を精一杯、神様を信じて生きて行ったなら、後悔のない人生を歩むであろうし、神様とイエス様の方を真っ直ぐに向いて歩く。神様への光の道を真っ直ぐに見て生きていく。その事が私にとりまして何よりも幸せなのだと思います。
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