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私たちの救い主としてお生まれになったイエス様は、旅先の旅館の馬屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたと、聖書に書かれています。その夜、野宿をしながら羊の番をしていた羊飼いたちに天使たちが現れて、救い主の誕生を知らせました。その時も。「救い主は飼い葉桶に寝ている。飼い葉桶が目印である」と言ったとあります。
飼い葉桶とは何でしょうか。それはあまりにも粗末な器であります。けれども、この粗末な器というのは、私たちの心を表していないでしょうか。イエス様がお住みくださるにはあまりに粗末な心、それを敢えて小さきイエス様をお守りするベッドにしてくださる、それが神様の私たちに対する心からのメッセージなのであります。
小さきイエス様は、私たちのすぐそばにいらっしゃいます。病んでいる人、飢えている人、凍えている人、寂しい人・・・イエス様は、「わたしの兄弟であるこの最も小さな一人にしたのは、わたしにしてくれたことである」と言われました。
もし私たちが、このような小さき人のために心を用い、少しでも親切にし、愛を表すならば、小さきイエス様をお守りした飼い葉桶にように、私たちの心もどんなにみるべき姿を持たないものであっても、イエス様をお宿しする光栄と喜びを戴くことができるのです。そして、それこそが私たちの生きる喜びとなるのです。 |
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今、みなさんの手にも小さなともし火があります。このともし火を消すことはいとも簡単なことです。しかし、この小さなともし火を何があっても消さないようにするためにはどうしたらよいでしょうか。ラーゲルレーヴという人の書いた「ともしび」というお話をしましょう。このお話は、一人の男が、小さなともし火を決して消さないように一生懸命に守り続けたというお話です。
昔、イタリアのフィレンツェという町に、ラニエロという豪傑が住んでいました。ラニエロは決して腹黒い男ではなかったのですが、自分の力を心底信じ切っていて、誰もが自分の強さを尊敬し、偉い男だと認めてくれると思い上がっているところがありました。それで、彼は人の気を引こうとして力任せに色々のことをやらかすのですが、その思いとは逆に、町の人々は彼が乱暴で、思いやりがなく、傲慢な男であるとしか見ていないのでした。
ラニエロが、自分の強さを一番認めて欲しかったのは、愛する妻フランチェスカでした。しかし、フランチェスカはただただ彼の乱暴な行いを悲しみ続け、ついには愛想をつかして実家に帰ってしまったのでした。
そんなフランチェスカの気持ちを悟らないラニエロは、戦さで大手柄を立て、名を挙げれば、きっとフランチェスカの心も戻ってくるだろうと考えました。彼は、傭兵になってあちこちの戦争に参加し、多くの手柄を立てます。さらに自分の素晴らしい武勇伝がフランチェスカの耳にも必ず届くようにと思い、戦利品の中からもっとも貴重なものを、フランチェスカの住むフィレンツェの大聖堂の聖母マリアに捧げ続けたのでした。しかし、フランチェスカの心は彼のもとには帰ってきませんでした。
ラニエロは、それは自分の手柄がまだ足りないからだと考えました。そして、今度こそフランチェスカも認める大手柄を立てたいと、その頃始まった十字軍の遠征に加わったのです。聖地エルサレムをイスラム教徒の手から取り返すその戦いで、ラニエロは一番の大手柄を立てました。そして、その褒美として、エルサレムのキリストの墓に灯るともし火から、自分の蝋燭に最初に火を移すことを許されます。
その夜、仲間たちが、「今度ばかりはいくらおまえでも、そのともし火をフィレンツェの聖母マリアのもとに届けることは出来まい」と、ラニエロをからかいました。かっとなった彼は、「いや、俺はこのともし火をフィレンツェまで消さずに届けてみせる」と宣言します。そして翌朝から、エルサレムからフィレンツェまで、ともし火を消さずに持ち運んでいく奇妙な旅が始まったのです。
ともし火を消さずに旅をしていくことは思ったほど簡単ではありませんでした。馬の背に後ろ向きにまたがり、マントで風をよけながらそろそろと進まなければなりませんでした。そのうち彼は追いはぎに合います。普段なら、そんな連中をやっつけることはわけももないことですが、ともし火を守るために、彼はまったく無抵抗のまま身ぐるみを追いはぎどもに渡します。そして、残されたぼろを纏い、やせ馬に後ろ向きにまたがって、そろりそろしと一本のともし火を大事に守りながら旅を続けたのでした。町に入ると、ラニエロのおかしな格好をみた人々はみな、「きちがいだ、きちがいだ」と指をさしてあざ笑い、からかいました。しかし、ここでいつものように腹を立てて暴れれば、小さなともし火などいっぺんで消えてしまいます。ラニエロは、沈黙を守り、嘲りに耐えて、小さなともし火を守り続けたのでした。しばらくすると、十字軍に恨みのあるイスラム教徒から暴行を受けることもありました。ラニエロは反撃することなく、ただ必死でともし火を守り続けました。
時には良いこともありました。ある日、くたくたに疲れ果てたラニエロは、その時ばかりはともし火のことを顧みる間もなく、宿屋に着くや否や手足を大の字に伸ばして朝まで寝入ってしまうのです。朝、目が覚めてハッとしたラニエロは、ともし火がないことにひどくがっかりします。ところが、宿屋の主人が来て、ラニエロのともし火を持ってきます。お客さんがとても大事そうにしておりましたので、その火を消さないように大事に守っていてくれたというのです。
またある日には、とうとうともし火を移しかえる為の新しい蝋燭が一本もなくなってしまいました。これでこの旅もついに終わりだと思いながら、小枝や枯れ草を集めてそれに火を移すのですが、それもほとんど燃え尽きようとしていました。そのともし火の最後を見届けようとしていると、近くに巡礼者が讃美を歌いながら通りかかりました。みると年をとって足下もおぼつかいない巡礼者が急な山を登ろうとしています。ラニエロはその巡礼者の手をとって山の上まで歩いてやりました。巡礼者がお礼を言うと、ラニエルは蝋燭を分けてくれるように頼んでみました。すると、快く何本かの蝋燭を分けてくれたので、ラニエロは急いで山の下に降りていきます。そして最後の残り火をなんとか、その蝋燭に灯すことができ、旅が再び始まったのでした。
他にもいろいろなことがあるのですが、要するにラニエロはこの旅で、今まで経験したことのないような色々なことを経験したのでした。奪い取るものに無抵抗でそれで与えるとか、殴られても、嘲られても静かにしているとか、足の弱い老婆を助けるとか・・・、また意外な人の親切とか、不思議なお守りということも経験しました。
そして、そういう経験を通して、ラニエロは今まではまったく違う人間に変えられてしまったのです。戦いよりも平和を愛し、荒々しいことよりも穏やかなことを好み、憎しみを抑えて忍耐することができる者になっていました。また、自分の力だけではどうすることもできないことがあっても、人の親切や、天の恵みがあることも知ったのでした。自分の腕っ節だけを信じ、人を思いやることない、荒々しい男だったラニエロはまったく新しい人間として生まれ変わっていました。
ようやく彼はフィレンツェに到着しました。そして、なんとか大聖堂のマリア像の前にたどり着きます。ところが、こんなに苦労してともし火を運んできたのに、「そのともし火が本当にキリストのみ墓の前のともし火であるかどうか、一度も消えることがなかったかどうか、証明してみろ」と言われてしまいます。ラニエロが途方に暮れました。
すると一羽の鳥が聖堂に迷い込み、ラニエロのともし火にぶつかって、なんとともし火を消してしまいました。火は鳥に燃え移り、鳥は体を燃やしながら、マリア像の前に落ちて息絶えます。ラニエロは、その小鳥の火をとって、聖母マリア像の祭壇に火をともしました。
この不思議な出来事の一部始終をみていた人は、「神様が証を立ててくださったのだ」と、ともし火が本物であることを認め、ラニエロを成し遂げたことを誉めたたえたというのです。 |
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ラニエロにとって消えやすい、小さなともし火を消さないで守り続けるということは、戦で手柄を立てるよりもはるかにたいへんなことであったのです。
私たちも同じです。弱い人を守るためには、私たちも弱さを身に付けなければなりません。時間のかかる者と一緒に旅をするためには、自分も忍耐強く歩まなければなりません。傷ついた人を癒すためには、自分も傷つかなければなりません。それが優しさであり、愛なのです。小さき者を愛するということは、この世で手柄を立てるよりもずっとずっとたいへんなことなのです。
けれども、それは本当に尊い苦労であります。お金にはならないかもしれません。自慢にもならないかもしれません。ラニエロのようにボロをまとい、痩せた馬に後ろ向きにまたがって進むような惨めさを味わうのが落ちかも知れません。しかし、「小さき者を愛することは、私を愛することである」とイエス様は仰ってくださいました。
イエス様の救いは、私たちに「いい人生」を与えてくださることにあります。「いい人生」とは、自分の人生が大切に思える生き方をすることです。私たちは飼い葉桶のように貧しいかもしれません。しかし、その飼い葉桶も、小さきイエス様のベッドとなったときは、自分が大切に思えたことでしょう。そして、一生懸命にイエス様のよい寝床になることを念じたことでありましょう。貧しい飼い葉桶が小さきイエス様をお宿ししたように、私もまた小さきイエス様にお仕えしたのだという満ち足りた喜びを持つことができるのです。
その喜びを私たちに与えてくださるために、イエス様は敢えて貧しい飼い葉桶を寝床に選ばれたのではありませんでしょうか。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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