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アブラハムには死んだ弟の子であるロトという旅の連れがいました。ところが、アブラハムとロト、それぞれに財産が増えてきた為に一緒に住むのが難しくなったというところから、今日のお話が始まっているのです。
「アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。」
「財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかった」というのは、たいへん考えさせられる話です。前回は、このことについてお話をさせていただきました。そして、「人と人が手を取り合って一緒に生きていくためには、豊かさよりも、むしろ貧しさが必要なのではないか」「財産を守ろうとするところに争いがあるのであって、財産というのは築くものではなく、神のために、人のために用いるものだ」というお話をしたのです。
今日は、その先のお話です。アブラハムは、なんとかロトと平和に過ごす道はないかと考えました。そして、考えに考えた末の話でありましょうけれども、それには別々に住むほかないという結論を出したのでした。
アブラハムは、ロトにその話を持ちかけました。「私たちは身内同士なのだから、お互いにいつまでも争いがあるのはよくないと思う。これからは別々に住むのが良いと思うのだが、あなたはどうか」ロトは、この話を受け入れました。
アブラハムは、周囲を見渡すことができる高いところにロトを連れていきます。そして、「さあ、見渡す土地の中から、あなたが住みたい思うところに生きなさい。私に遠慮はいらない。あなたが左に行くなら、わたしは右に行きます。あなたが右に行くなら、わたしは左に行きます」と、ロトに住む場所を選ぶように勧めたのでした。
アブラハムのこの態度はたいへん立派だと、私は思います。人間というのは、自分のことをまず先に考えたがるのであります。特に利害関係が絡むときはそうです。ある小説の中に、「人間は何事もない時は善人であるが、いざという時には悪人になるから恐ろしい」と言う台詞がありました(夏目漱石『こころ』)。本当にそうだと思いました。出世のチャンスとか、遺産相続とか、自分の将来に大きく関わりそうな時になると、どんな善人でも欲をかくのです。そして、欲が深くなれば、誰でも自分のことしか考えられない卑劣な人間になってしまうことがあるのではないでしょうか。しかし、アブラハムは、自分の利害を後回しにして、ロトに譲ったのであります。
ロトは、アブラハムのこの優しい気持ちをどれだけ理解したかは分かりませんが、その申し入れを受け、東西南北をぐるりと見渡しました。そして、ヨルダン川流域の低地に目をとめるのです。そこは聖書の言葉をそのまま読んでみましょう。10節
「ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。」
ロトは、このヨルダンの低地を選びました。そして、その町々の中にあるソドムに住んだのです。11節を読んでみましょう。
「ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東に移っていった。こうして彼らは左右に別れた」
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「こうして、彼らは左右に別れた」といわれています。これまで一緒に歩んできたアブラハムとロトの人生でありましたけれども、ここで大きく二つに別れていったのです。
少し文学的な言い方をすれば、「分水嶺」という言葉があります。山の嶺にあって、水の流れが左右に分かれていく地点のことです。それは最初、ちょっとした水の分かれ道かもしれません。しかし、その開きはやがて大きなものとなり、それぞれがまったく別の大きな河となり、一方は太平洋に注ぎ込み、他方は日本海に注ぎ込むことになるといった具合に、まったく違う結末を迎えることがあるのです。
では、この時、アブラハムと別れていったロトの行く末はどうなったのでありましょうか。結論からいいますと、ロトは神様の祝福からどんどん遠ざかって行ってしまったのでした。
13節には、ロトが主の園のようだと思ったソドムの町は、実は邪悪で、神様に多くの罪を犯す人々が住む町であったと書かれています。ロトは、その中で自分を正しく保とうと努めましたが、ソドムの不道徳な者たちの言動によって多くの悩みと苦しみを受けたということが、新約聖書の『ペトロの手紙』に書かれています。
また、14章には、ソドムが戦争に負け、ロトは財産を略奪された上、捕虜となってしまったということも書かれています。そして、19章には、ついにソドムの悪が神様に裁かれるときがきまして、ソドムの町は天から降ってくる硫黄の火によって焼き滅ぼされてしまったとあります。
ロトは、アブラハムの執り成しの祈りによって、その破滅から辛うじて救いだされました。けれども、ソドムの破滅から逃げる途中、妻を失いました。その後、ロトは二人の娘と一緒に山の中の洞穴に住んだと、聖書に書かれています。しかし、ロトの人生に恥ずべきことが起こりました。ロトの娘たちは子孫を得るために、父ロトを酒に酔わせ、父と一緒に寝て子どもをもうけたというのです。
ロトの娘たちが生んだ子どもは、一人はモアブ人の先祖になりました。もう一人はアンモン人の先祖になりました。そして、モアブ人も、アンモン人も、神を畏れぬ偶像礼拝の国となり、アブラハムの子孫であるイスラエルと絶えず敵対することとなるのです。
これらのすべての始まりが、この時のロトの人生の選択にあったのです!
私たちの人生にも、しばしば人生の分かれ道というものがあります。そして、その時、どんな選択をするかによって、後の人生が全然違ったものになってしまうのです。だから、人生というのは、いつも迷いがあるのではないでしょうか。
しかし、みなさん、信仰を持つということは、実はこの迷いの多い人生から救われて、もう迷わないということです。イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。そのイエス様を信じるということは、イエス様の内に私たちの道を見いだし、命を見いだし、もう迷わないということであるはずなのです。
それにも関わらず、もし私たちが迷うとするならば、それはどういうことなのでしょうか。聖書は、それは悪魔が私たちを再び真理から引き離し、混沌とした人生の中に迷い出させようと誘惑しているのだと教えています。
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ロトが、主の園のように潤う土地を見て、悪徳の町ソドムを選び、そこに住んだという話から、私は、イエス様が荒れ野で受けられた誘惑の話を思い出しました。
イエス様は、荒れ野で悪魔から三つの誘惑を受けたのですが、その最後に、悪魔は、イエス様を非常に高い山に連れていきます。そして、この世の繁栄ぶりをつぶさに見せてから、悪魔はこうささやくのです。「もし、私をひれ伏して拝むなら、これをみんな与えよう」
イエス様は、迷いませんでした。そして、悪魔をこう一喝するのです。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と。
このイエス様の受けられた誘惑と、ロトの話と、私たちが信仰を持ちながらもしばしば迷ってしまうという経験とを重ね合わせてみると、私たちを迷わせるのは何かということが浮かび上がってくるように思うのです。それは、「この世の繁栄ぶり」であります。
聖書で使われているこの「繁栄」という言葉は、実は「栄光」という言葉と同じです。この世にも、この世の栄光があるのです。聖書は、それを否定しません。たとえ神様を信じない世の中でありましても、そこにはこの世の力、この世の富、この世の楽しみが、ちゃんとあるのです。
サタンは、毎日、毎日、私たちにそれを見せつけています。私たちはそれを見ないで生きるということはできませんし、それを見ること自体は何でもないことのように思うのです。しかし、見れば欲が出るのではないでしょうか。そして、欲が出れば、それしか見えなくなってしまうのではないでしょうか。
どうぞ、エバがサタンに誘惑された時のことを思い出してみて下さい。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」とあります。エデンの園には、神様が与えて下さった美味しい木の実が、他にたくさんあったのです。しかし、エバは目の欲に陥り、そういうものは一切見えなくなってしまっていたのでした。
ロトも同じなのです。ロトが、ヨルダン川流域の低地を見たとき、それは主の園のようであったと書かれています。みなさんは、ここを読んだとき、どうして、悪徳に満ちたソドムの町と、主の園という似ても似つかない二つのものを見まがうのかと、不思議に思われなかったでしょうか。しかし、人間の目というのは欲をかくと、その程度の区別もできないほど不確かなものになってしまうものなのです。悪徳の町ソドムが主の園のように見えてしまうのです。サタンはそれを利用するのです。
私たちは大丈夫でしょうか。私たちは、神様の栄光を見たはずです。神様の力、神様の富が、現実のものであるということ味わったはずです。この世の力、この世の富、この世の誉れというのは、実は虚しいものであると気づき、迷いから醒めたはずです。しかし、それにも関わらず、毎日、毎日、この世の栄光をサタンに見せつけられて暮らしていますと、再びこの世の栄光に心が奪われ始めているということがあるのです。
みなさんは、神様の約束よりもお金の方がずっと現実的だと思ってしまうことがないでしょうか。神様に祈りながら、奇跡などはこの世の現実ではないと思っていることがないでしょうか。信仰を持つこと何にも勝ると知っていながら、信仰生活を犠牲にしてまで学歴や、地位や、名誉を求めていることがないでしょうか。そういう時、私たちは、神様、神様と言いながらも、この世界に輝く神様の栄光は何一つ見えなくなって、再びこの世の栄光だけを見る混沌とした生き方に戻りかけてしまっているのです。
だから、迷うのです。
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それではいけないという忠告が、実は今日の説教題にいたしました「播かれて茨の中にあり」というイエス様のお言葉なのです。
このお言葉は、イエス様の「種を蒔く人」の譬えに中で語られています。種を蒔く人が種まきをしていると、ある種は道端に落ちて鳥が食べてしまいました。最初に説明しておきますと、ここで「種」と言われているのは神様の言葉だというのです。そして、種が落ちる場所は、私たちの心です。そうしますと、道ばたに落ちて、鳥が食べてしまったということは、せっかくみ言葉を聞いたのにそれを悟らないために、その人のものにならなかったということになります。
次に、種は石だらけのところに落ちました。その種は一応根を張るのですが、土が浅いために枯れてしまいます。これは、み言葉を一応は受け入れるのですが、根がないために困難や艱難があるとすぐに躓いてしまい、長くは続かない人だと言われています。
その次に、ある種は茨の中に落ちたと言われました。そして、イエス様は「茨の中に蒔かれたものとは、世の思い煩いや富の誘惑がみ言葉を多い塞いで、実らない人である」と説明なさるのです。「播かれて茨の中にあり」とは、この世の栄光に目がふさがれてしまって、神の栄光が見えなくなってしまった人のことなのです。
イエス様は、「だから、あなたは駄目なんだ」と仰っているのではないと思うのです。実は、イエス様はこのたとえ話の後で、「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」と、私たちの目や耳を祝福してくださっています。イエス様は、「播かれて茨の中にあり」という、私たちの迷いや欲にふさがれて見えなくなってしまっている信仰を、神様の力、神様の豊かさ、神様の御栄えこそ私たちを支配する現実であるということ見る信仰に変えて下さることができるのです。
だから、目を覚まして、私を信じ、私だけを見なさいという、イエス様の忠告であります。どうぞ、神様の栄光を見せて下さいと、イエス様に祈る者になりたいと思います。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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