アブラハム物語 09
「御国を賜うことは父の御心なり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書12章22-34節
旧約聖書 創世記13章14-18節
別れの後のアブラハム
(1) 今までの復習

 創世記13章は、アブラハムが、今までの一緒に旅をしてきた甥っ子のロトとの別れを経験するという話が書かれています。これまで二回、このお話をしてきました。

 一回目は「どうして二人が別れなくてはならなくなってしまったのか」という話です。二人が別れなければならなかったのは、信仰上の問題ではなく世俗的な問題のためでした。お互いの財産が増え、一緒の住んでいると、管理上の問題でいろいろトラブルが起こってきてしまったのです。

 二回目は「ロトはなぜソドムの町に住むことにしたのか」ということをお話ししました。ロトがソドムの町を選んだのは、目の欲に惑わされたからです。ソドムというのは悪名高い不道徳の町でしたが、ロトの価値観をもってみるとあたかも主の園のように豊かで栄えた町に見えてしまったということだったのです。

(2) アブラハムの心情

 今回は、ロトと別れた後のアブラハムの話をしようと思います。先ず、14節から読んでみましょう。

 「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。」

 「ロトが別れて行った後」とあります。私は、ロトが立ち去ったあとのアブラハムの姿というものを想像してみました。夕暮れの荒れ野にたたずみ、いつまでもいつまでも動くことができずにロトを見送っている、そんなアブラハムの寂しげな姿が、私には思い浮ぶのです。

 何だかんだ言っても、アブラハムにとってロトは一緒に苦労し、一緒に生きてきた旅の仲間でした。そのロトとの別れというのは、仕方がなかったこととはいえ、アブラハムの心に大きな喪失感をもたらしたに違いありません。

 それだけではなく無力感や挫折感も味わっていたかもしれません。アブラハムはロトを憎んでいたわけではないのです。次回から学びます14章には、ロトが戦争に巻き込まれて捕虜になってしまったという話があるのですが、その時、アブラハムは命をかけて彼を救い出そうとします。また、ソドムの町が神様の天罰によって滅ぼされようとしている時にも、アブラハムはロトのために、神様に必死の嘆願をするのです。アブラハムは、ロトを深く愛していました。愛しているにも関わらず、一緒に住んでいるとどうしても問題が起こってしまった。これはそういう悲劇の物語なのです。

 そして、挫折の物語でもあります。アブラハムがどんなに一緒に住むことを願い、そのために努力をしても、それはどうにもならないことだったのです。言い換えれば、アブラハムの理想が、この世の現実に負けたということではないでしょうか。アブラハムは自分の人生に妥協してしまったのではないでしょうか。

 ロトがソドムを目指して立ち去った後、アブラハムは、大切な旅の友を失ったという大きな喪失感と共に、人生に対する無力感や敗北感を感じながら、荒れ野で呆然と立ちつくしていたのではないかと思うのです。
希望を与える神
(1) 目をあげて!

 しかし、神様はアブラハムを助けてくださいます。アブラハムに語りかけ、励ますことによって、アブラハムの心を再び高く引き上げようとしてくださるのです。

 「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。『さあ、目を上げて、あなたのいる場所から東西南北を見渡しなさい』」

 アブラハムは現実の厳しさに打ち砕かれ、信仰は弱々しく、しょんぼりとしていました。そのアブラハムに、神様は「さあ、もう一度、目を上げて!」と励まされたのです。神様は、希望を与えて下さる神様なのです。

 実は、「目を上げて見る」という言葉は、この13章の中に二回使われています。一つは10節で、ロトについて言われている言葉です。

 「ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡す限りよく潤っていた。」

 ロトも目を上げて、自分の将来を望み見て、ソドムを町に住むことを決心したのでした。これも希望でありましょう。しかし、欲が孕んだ人間の希望です。ロトには、主の園のように見えたその地は、実は悪徳に満ちた地であり、やがて神様に滅ぼされる地であったというのであります。そのようなものに、ロトは希望をもって眺めたという話なのであります。希望といいましても、神様に望みを置かない人の希望というのは皆、このロトの希望のようではないでしょうか。どんなに明るく輝いているように見えても、必ず、その希望の正体がよく分かる時が来ます。それは偽りに満ちた希望であって、私たちを騙すものに過ぎないのです。

 メーテルリンクの『青い鳥』という有名なお話があります。チルチルとミチルが幸せの青い鳥を探していろいろな所に行くのです。その中に「幸福の花園」という場所があります。そこにはこの世で一番ふとりかえった幸福たちが住んでいました。彼らは、ビロードや錦の服を着て、宝石をちりばめ、おいしいものや珍しいものをたらくふくたべ、恐ろしいほどふとりかえっていました。その楽しそうな、幸せに満ち足りた様子を見て、チルチルとミチルは心からうらやましいと思います。しかし、彼らの導き手である「光」が、彼らを照らすと、豪勢な食卓も、ビロードの服も全部消えてしまい、彼らの姿も裸で、醜く、惨めったらしい姿に変わり果ててしまうのでした。そして、彼らは自分の姿を恥じ、不幸の国に逃げて行き、二度と帰ってこなかったという話です。ロトの希望というのは、このようなものではなかったでしょうか。

(2) あなたのいる場所から

 一方、アブラハムは失望のただ中にいました。これまで信仰に生きてきたアブラハムでありましたが、財産争いという非常に世俗的な問題に屈してしまったのです。その結果、大切な旅の仲間であるロトを失ってしまったのです。

 そのアブラハムに、神様は「目を上げて、あなたのいる場所から東西南北を見渡しなさい」と語りかけられたのでした。どうぞ「あなたのいる場所から」という神様の言葉に心を留めて下さい。それはアブラハムが足で立っている場所という意味だけではなく、アブラハムの心がある場所、つまり失望のどん底から、という意味でもあるのです。
 その場所から、アブラハムに見えるものは何であったでしょうか。実に味気ない、しかし頑として立ちはだかるこの世の現実であります。荒涼とした荒れ野です。しかし、神様は、そのあなたのいる失望のただ中から、目を上げて、見えるものではなく見えないものに目を注いで、希望を持ち、あなたの心を高くあげなさいと言われるのです。

 聖書にはこういう言葉があります。

 「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマの信徒への手紙8章24-25節)

 アブラハムは、まさしく「見えるものに対する希望は希望ではありません」という経験をしていました。しかし、そこから目をあげて、目に見えないものを望む、それこそ本当の希望だと、神様はアブラハムを励まされるのです。

 同じように、こういう言葉もあります。

 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Uコリント4:18)

 「見えるものは過ぎ去る」これもまた、アブラハムの経験でありました。しかし失望してはならないと、神様は言われるのです。そこから目を上げて、見えないものに目を注ぎなさいと仰ってくださるのです。

 見えないものを見るというのは、無いものを見るというのではありません。まだ見ていないけれども在るもの、これから存在してくるものを見るということです。神様の約束を信じ、信仰によってそれを望み見るということなのです。

 まことに、神様は希望を与えてくださる神様です。みなさん、みなさんが今、この世のどんな現実の中にあろうとも、そこから目を上げて、希望を持ちなさいと、神様は励ましてくださっています。どんな現実が立ちはだかろうとも、「私の約束を信じなさい」と神様は言ってくださるのです。

(3) 東西南北

 ひとつ、みなさんになぞなぞを出してみたいと思います。「世界中に四つしかないのに、どの家にも四つあるものは何でしょうか?」・・・答えは、東西南北であります。「神様の約束」も同じです。「神様の約束」はすべての人に一つであり、また、すべての人の人生に一つずつ与えられているのです。神様は、「イエス様を信じる者は、神様の子どもとなり、天国の子どもたちとなる」と約束してくださいました。この神様の約束が、すべての人に与えられ、すべての人の人生を祝福する生き生きとした希望となるのです。

 東西南北についてはもう一つ思うことがあります。私たちが東西南北に囲まれているように、私たちはキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さに囲まれているということです。神様は、私たちに「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを見渡してみなさい」と語りかけておられるのではないでしょうか。
御国を賜うことは父の御心なり
 そして、「見える限りの土地をすべて、あなたに与える」と、神様は仰るのです。神様の約束に希望をおくとき、神様は決して私たちを失望させません。あなたが信仰をもって見たものは、信じたとおりにそれを与える。これが神様の約束なのです。

 だから、「さあ、この土地を縦横に歩き回るが良い。わたしはそれをあなたに与えるから」と言われます。それは、信仰によって、将来にわたる神の守りと祝福を信じて、大胆な人生を送りなさいということであります。

 信じない人にとっては、目に見えないことはすべてが心配の種です。その人の心は心配で縮こまり、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、そういう心配にばかり生きる人間になってしまうのです。そういう縮こまった人生から解放されて、希望に満ち、確信に満ちた生活、力強い人生を生きるためには、神様の約束を信じる信仰が必要です。その約束を信じ、まだ見ていないこと(明日のこと、将来のこと)の中に、神様の備え給う祝福があるのだということを確信することが必要なのです。それが、私たちの希望となり、力強いく生きる今日となるのです。

 みなさん、今日の説教題にしたみ言葉でありますが、イエス様は、「懼(おそる)るな小さき群よ、御国を賜うことは父の御心なり」と教えて下さいました。御国というのは、神様の愛と力と恵みに満ち満ちた国であります。その御国の祝福を、神様はあますことなくあなたたちに与えたいと願っておられるのだと、イエス様は教えて下さったのです。だから、たとえ自分が小さな者であっても、どんな難しい状況であっても、人生が荒涼とした希望のないものに見えても、決して気を落とさないで、信じなさいと言うのであります。

 信仰をもって、私たちの目を上げ、心を上げ、「御国を賜うことは父の御心なり」このみ言葉に希望をもって、この世の旅路を力強く歩んで参りましょう。
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聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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