アブラハム物語 10
「愛は多くの罪を覆う」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書10章25-37節
旧約聖書 創世記14章1-16節
王たちの戦い
 今回は戦いの話です。14章1節から舌を噛みそうな王様の名前がたくさん出てきて、いっぺんに読むのが嫌になってしまうという人もいると思うのですが、できるだけ分かりやすくどういうお話なのか説明させていただきたいと思います。

 アブラハムの時代(紀元前2000年頃)、ケドルラオメルという王様がたいへん大きな勢力をもっていました。今日の学者たちの中には、このケドルラオメルはメソポタミアのバビロン王国の王様ではないか、そしてハンムラビ王と同一人物ではないかとも言っている人もいますが、本当のところはよく分かっていません。ともかくケドルラオメルの勢力は、メソポタミアからアブラハムが住んでいたカナン地方(パレスチナ)にまで及ぶたいへん大きなものでありまして、ソドムやゴモラも、ケドルラオメルの支配下にあったというのです。

 ところが、4節をみますと、「彼らは12年間ケドルラオメルに支配されていたが、13年目に背いた」と書いてあります。彼らというのは、アブラハムの住むパレスチナ地方の王様たちでありまして、ソドムの王やゴモラの王など、五人の王様たちがケドルラオメルに反旗を翻したというのです。

 そこでケドルラオメルは味方の王様たちを集めて、自分に背いた王様たちを懲らしめようと、パレスチナまで遠征してきました。パレスチナの五人の王様たちも同盟を結んで、ケドルラオメルの軍隊を迎え撃ちます。9節の終わりに「四人の王に対して、これら五人の王が戦いを挑んだのである」とありますが、「四人の王」というのが、ケドルラオメルとその味方の王様たちです。「五人の王」というのが、ソドム、ゴモラの王様たちのことです。こうして九人の王様たちが、アブラハムの住むカナン地方(パレスチナ)を舞台に血みどろの戦いを繰り広げたというお話しなのです。

 ここで私は思うのですが、王様というのは、やはりイエス様ひとりでなくてはいけないのではないでしょうか。王様がたくさんいるから、この世に争いが絶えないのだと思うのです。もし、この世のすべての王様たちが、王の王、主の主なるイエス様を認めて、謙遜にお仕えする者になれば、その時こそイエス様の平和のご支配が訪れ、みんなが共に生きる世の中が実現するのです。
地上の王について
 聖書は地上の王様を認めないわけではありません。コロサイの信徒への手紙1章16節には、「王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られた」とあります。つまり、地上の王様たちは、本来、神の御子なるイエス様によって、イエス様のご支配を地上に行うために、その王座が与えられ、支配や権威が与えられているのです。

 日本にも天皇という王様がおります。平成になりましてから皇室のイメージもずいぶん変わったように思うのですが、昭和の時代には、天皇を現人神として崇めたり、天皇の名によってアジア侵略戦争が行われたり、信教の自由が制限されたり、部落差別などももとを辿れば天皇制と深い関係があることなどから、多くの知識人が天皇制を厳しい批判をしました。教会もそうでありまして、特に、昭和天皇が崩御されて大嘗祭が行われ頃には、それは天皇制に反対するのがクリスチャンとしての当然の良心だと言わんばかりの風潮があったのです。

 しかし、私は、何でもかんでも天皇を悪者にして済ませようというのは、ちょっと違うのではないかと思っております。いろいろなご意見があるでしょうから、ここからは私の個人的な見解だと思って聞いて下さればいいのですが、天皇制が必ずしも悪だとは思わないのです。もちろん、天皇が神様であるなどと言うのは間違いです。「天皇陛下」などと呼ぶのも口幅ったいし、天皇のことなら何でもかんでも有り難がるというもの性に合いません。今問題になっている扶桑社の歴史・公民の教科書もひどいと思います。しかし、『ローマの信徒へ手紙』には「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(13:1)とあります。それならば、日本の天皇制においても、この世を愛して下さる天の神様の御心というものが何かあるはずなのです。

 皇后の美智子さんが敬虔なクリスチャンホームでお育ちになったということも、その一つではないかと思います。美智子さんはキリスト教系の学校で学ばれ、書斎にはちゃんと聖書やキリスト教の本が何冊もあるのです。もし、美智子さんが心で祈る時があるとするならば、それはきっと日本古来の神々ではなく、聖書の神様、そしてイエス様なのではないかと思ったりもします。また、不思議なことに宮内庁の中、侍従たちの中にも、クリスチャンは大勢いるんですね。

 聖書には、クリスチャンは、地上の王たちのために二つのことをするべきだと書かれています。一つは、義務を果たすということです。イエス様は、「カエザルのものはカエザルに、神のものは神に返しなさい」と言われました。また、パウロは「すべての人に自分の義務を果たしなさい。貢ぎを納めるべき人には貢ぎを納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は畏れ、敬うべき人は敬いなさい」と教えています。

 それからもう一つは、地上の王たちのために祈るということです。聖書にはこう書いてあります。「第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のために捧げなさい。王たちやすべての高官たちのために捧げなさい」何を祈るかと言ったら、地上の王たちが、王の王、主の主であるイエス様を畏れ敬い、その僕として地上をよく治めることができるように祈るということでありましょう。
地境を動かしてはいけない
 さて、だいぶ話がそれたのですが、五人の王様と四人の王様が、カナン地方を舞台に争ったという話であります。みんなが、唯一の天の王様がいらっしゃることを認めず、我こそが一番の王様であると思うから、こういう争いが起こるのだという話をしたのです。

 争いの問題というのは、王様たちだけの問題ではありません。人間の生活は、何かしら争いというものがあります。その多く原因は、一人一人が、神様の与えて下さったもので満足していないということにあるのではないでしょうか。

 旧約聖書には、「地境を動かしてはいけない」という律法が繰り返し出てきます。これは土地の問題ですが、土地だけのことではなく、人にはそれぞれ神が与えて下さった分というものがあります。それをもっと大きくしたい、他人の分まで手に入れたいというところに争いが起こるのです。私たちは神様に与えられた分を感謝して、大切にして、それを守ると同時に、神様が他人に与えられている分について羨んだり、妬んだりするのではなく、それを尊ぶ心を持ちたいと思うのです。
ロトの危機を救うアブラハム
 さて、王たちの戦いは、結局メソポタミアの大王であったケドルラオメルの連合軍が圧勝して終わりました。敗れたカナン地方のソドム、ゴモラなど五人の王様たちは命辛々谷や山に逃れました。一方、ケドルラオメルは、多くの人を奴隷にし、財産をぶんどり品として、意気揚々と自分に国に向かって引き上げていったのです。

 ところが、そのケドルラオメルの手から逃れた一人の敗残兵が、アブラハムのもとにやってきました。そして、アブラハムの甥であるロトまでが、ケドルラオメルの奴隷となって連れ去られてしまったと知らせたのです。

 アブラハムは最初、これらの戦いを傍観者として見守っていました。しかし、甥のロトがケドルラオメルに捕まったと聞いてまで黙っているような男ではありませんでした。彼は立ち上がり、訓練した僕たち318人を連れて、ロトを救いださんとして、ケドルラオメルを追跡します。多勢に無勢でしたが、彼には勇気と知恵がありました。夜、兵を二手に分けて、ケドルラオメルの寝込みを襲います。勝利に酔いしれていたケドルラオメルに隙があったのでありましょう。彼は318人のアブラハムの僕たちに完全に敗北し、ケドルラオメルが奪ったものをすべて取り返し、ロトとその家族や財産も取り戻したのでした。
アブラハムの愛
 さて、このようなお話から、私はアブラハムの愛ということを学びたいと思うのです。最初、アブラハムは、地上の王たちの争いには一切関わらないという考えをもっていました。それは、アブラハムは神様に聖別された人間でありますから、この世の争いごとよりも、天国の平和を思うことに深い関心があったからだと思うのです。

 こうした考え方は今日もあると思います。近所の争いごとから政治や社会運動にいたるまで、下手に争いに首を突っ込むと、そこにあるどろどろとした人間関係や、利権争い、権力闘争に利用されかねません。大義名分が何であれ、どこまでも清く正しい争いなどというのは、人間の争いである限り存在しないのです。争いの中には、必ず、罪深い人間の欲望が渦巻いています。

 ですから、聖書にも、できる限り争いを避けて、できる限りすべての人とと平和に暮らすようにしなさいということが、繰り返し勧められています。そして、そのためには、怒りを鎮めなくてはいけない、悪い者たちのゆえにイライラするな、争いに発展するような議論も避けなさいということまで書いてあるわけです。

 しかし、みなさん、自分の親族であるロトがケドルラオメルの捕虜となったと聞くや否や、アブラハムは、彼を救い出すために行動を起こしたのでした。そして、アブラハムが避けたいと思っていたこの世の争いの中に飛び込んでいったのであります。

 これは戦争でありますから、アブラハムも人を殺したかもしれません。自分の僕たちを戦争にかりだしたために、何人かの僕たちが犠牲になったかもしれません。それは決して良いこととは言えません。アブラハムにはそれが分かっていました。だからこそ、ずっとこの戦争に関わらないでいたのです。しかし、愛するロトが敵の捕虜となっているのに心を痛めない、傍観者で居続けるということは、もっと悪いことだと考えたのです。無関心でいられない。これが愛ではないでしょうか。

 このアブラハムの行動を読むとき、良きサマリア人の話を思い出します。祭司とレビ人は、強盗に襲われて倒れていた旅人を見て見ぬ振りをして通り過ぎて行きました。それには彼らなりの理由があるのです。祭司にしても、レビ人にしても、神様の聖なる務めを果たす人たちでありました。そのためには、いつも自分の身を清く保つ必要があったのです。ところが、聖書には「死体に触れるものは汚れる」と書いてあります。ですから、彼らはもしかしたら死んでいるかもしれない旅人に触れることによって、万が一、自分を汚して、神様の仕事ができないようになってはいけないと考えたのでした。

 しかし、そこにサマリア人が通りかかります。ユダヤ人とサマリア人は宗教の違いから、お互いにつき合ってはならないと考えていました。しかし、そのサマリア人は、そういう信仰上の問題よりも、「この人を助けなくてはいけない」という愛に突き動かされて、倒れているユダヤ人を介抱し、助けたのでした。

 イエス様が、このたとえ話で仰ったのは、愛がなければ、信仰も、清さも、死んだものであるということではないでしょうか。コリント書にも、「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」と書いてあります。神の言葉を語ろうとも、神秘的な体験をしようとも、どんなに知識があろうとも、奇跡を行う信仰の賜物があろうとも、愛がなければ虚しいというのです。虚しいというのは、それは本当の信仰ではないということです。

 聖書を丁寧に読めば分かりますが、愛と信仰は共に働くのです。パウロは「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5:6)と教えています。また、「信仰によって、あなたがたが愛に根ざした人間になるように」(エフェソ3:17)とも言っています。もし、アブラハムが自分の清さを保つために、捕らえられ、連れ去れていくロトを見て、心を痛めず、平気で見捨てるような人間であったら、決してアブラハムは信仰の父とは呼ばれなかったに違いありません。
地境を動かしてはいけない
 今日は、「愛は多くの罪を覆う」という説教題をつけました。旧約聖書にも、新約聖書にも出てくるみ言葉です。ロトは、自分の欲望に従ってソドムに住み、そしてその結果として捕虜となったのですから、自業自得といえばそれまでです。しかし、アブラハムの愛が、ロトを救いました。アブラハムは、できればこの世の争いに巻き込まれて、神と共にある生活を乱されたくないと願いました。しかし、ロトを見捨てておけない愛によって、彼はこの世の戦いに身を投じたのです。その結果として、彼は、来週学ぶことですが、メルキゼデクの祝福を受けることになりました。私たちは信仰的な正しさや清さも大事ですが、何よりも愛によって生きるべきなのです。

 私は預言者エレミヤの話を思い起こします。エレミヤはたいへん不思議な行動をとりました。「人々にエジプトに行ってはいけない。それが神の御心だ」と預言しながら、それが聞いた人々が「わたしたちはエジプトに行きます。あなたも一緒にエジプトに行って下さい」と言われたとき、一緒にエジプトに行ってしまうのです。エジプトに行く人たちが神の御心に背いていると知りながら、エレミヤは彼らと一緒に行ったのです。これは、エレミヤの愛ではなかったかと思います。もし、自分が彼らと一緒に行かなければ、エジプトで誰が神の言葉を語るのかと考えたからこそ、彼らと一緒に罪の道を歩んだのではないでしょうか。

 「愛は多くの罪を覆う」のです。私たちは、どんなに正しくあろうとしても間違いを犯します。どんなに清くあろうとしても清くなりきれるものではありません。正しくあろう、清くあろうとして、愛すること消極的になるよりも、愛によって神様に喜ばれる生き方を大胆に生きる者になりたいと願うのです。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp