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アブラハムの住むカナンの地で、戦国時代さながらの大戦争が起こりました。そして、メソポタミアからこの地を制圧に来たケドルラオメルとその連合軍が、カナンの地のソドムやゴモラの王たちの連合軍を打ち破ったのです。
アブラハムは最初、この王たちの戦いに巻き込まれないように気をつけながら、戦いに無関係な人間として生活しておりました。それは、この戦いの本質は、この世の王たちの自己実現に過ぎないということを見て取ったからだと思います。アブラハムは、こういう無用な争いに巻き込まれ、この世の王たちの権謀術数に陥らないようにしようと判断したのです。
私たちも気を付けなくてはいけないことは、どんなに戦いにも必ず立派なお題目がついているということです。「平和のために」「みんなのために」「弱者を守るために」・・・みなさんもよく署名運動などで経験すると思いますが、こういうお題目がついていると、それに参加しないことが悪いことであるかのように思えることがあります。しかし、その中には、一部の人たちの利益のために過ぎないものもだったり、間違った考え方に基づくものもあるのです。
たとえば、今はアジア侵略戦争であったと言われる「太平洋・アジア戦争」も、当時の日本政府は、大東亜共栄圏のための戦い「大東亜戦争」、つまりアジアのための戦争だと言っていたわけです。しかし、それはお題目でありまして、実際はアジアの人たちを苦しめるばかりの戦争でした。あるいは、先週始まりました参議院選挙も、どの党首もみんなお題目は「改革、改革」ですから、お題目だけはどこか良いのかというのは分かりません。どんな戦いでも、お題目は必ず良いものを考えるわけですから、それだけでは本質はわからないのです。アブラハムは、そういう警戒心をもって、王たちの戦いを見ていたのではないでしょうか。
ところが、そのアブラハムが、ついに自ら戦いの中に飛び込んでいくことになりました。それはソドムの町が敵の手に落ち、そこに住んでいた親類のロト一家が捕虜として敵国に連れられていかれたという急報がもたらされたからであります。アブラハムは直ちに318人の手勢を集め、ケドルラオメル軍を追跡しました。318人では多勢に無勢でありましたが、ケドルラオメルの勝利に驕る心の隙をついた奇襲作戦をもって打ち破り、ロトとその家族、また財産、その他のソドムの人々や財産を、そっくりケドルラオメルの手から取り戻すことに成功したのでありました。
先週はこのことにつきまして、「愛は多くの罪を覆う」というお話をしました。幾ら愛のためとは言え、戦いには決して清い戦いなどありえないのです。しかし、自分だけは清くあろう、自分だけ救われようとするのが信仰ではありません。愛のために重荷を負うこと、愛のために自分を義さえも捨てること、ここにイエス様の十字架があります。イエス様は、「それを再び得るために、それを捨てる」と仰いました。そして、私たちにも、「自分の命を得ようとする者はそれを失い、私のために自分の命を捨てるものはそれを得る」と教えられたのでした。パウロがもうしましたように、愛というのは、「最も大いなる道」なのです。
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さて今回は、アブラハムがケドルラオメル軍を撃退して意気揚々と帰ってきたところを、二人の王が出迎えたという話です。一人はソドムの王、もう一人はサレムの王メルキゼデクでありました。
ソドムの王は、21節で「人はわたしにお返し下さい。しかし、財産はお取り下さい」と言っていますように、ケドルラオメルから取り戻した人々を自分に返してくれるようにと、頼みに来たようです。一方、メルキゼデクは、18-19節にパンとぶどう酒をもってきて、いと高き神の名によってアブラハムを祝福したとあります。
このように、二人の王はぜんぜん違った思惑でアブラハムを出迎えております。そのことからしますと、おそくら、二人は一緒にやって来たわけではなく、偶々ここで一緒になったのだろうと思います。
しかし、わたしはぜんぜん違う二人の王が一緒にアブラハムの前に現れたということに、何か一つの比喩があるように思うのです。私たちも、何か物事に成功した時に、必ず二人の王様の来訪を受けるのではないでしょうか。一人の王様は悪魔であり、もう一人の王様はイエス様です。
私たちがこの世で成功を収めたとき、悪魔は喜んで私たちを出迎えます。そして、ソドムの王と同じように「この世の富と力はぜんぶあなたに差し上げます。しかし、人の魂はわたしにください」というのです。
一方、イエス様も私たちを出迎えて、メルキゼデクと同じように「神様が誉め称えられますように。あなたにこの勝利を与えて下さったのは天地を造られた神様です。神様を賛美し、勝利の栄光を神様にお返ししなさい。そうすれば、神様があなたを祝福して下さるでしょう」と仰います。
悪魔を喜んで迎え、自分の勝利に酔いしれ、この世の富める人間になるか、イエス様を喜んで迎え、ますます心貧しき者にになって神様をより頼む人間になるか。私たちが成功を収めたときというのは、必ずこの二者択一を迫られるのです。
アブラハムはどうしたのでしょうか。アブラハムは、メルキゼデクの祝福を受け入れ、すべてのものの10分の1をお捧げしたとあります。しかし、ソドムの王に対しては、「あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決して戴きません。『アブラハムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません」と、軽蔑的な言葉をもって、胸が空くようなきっぱりとした態度で否んだのでした。
みなさん、私たちも神様から成功や喜びを戴いたとき、かえって信仰を失わせようとして、悪魔がこのような誘惑をもって近づいてくるのだということを忘れないようにしたいと思います。
神様が私たちに喜びを与えて下さるのは、私たちがますます神様を愛するようになるためです。今日、お読みした新約聖書には、十人の重い皮膚病を患っている人たちが、イエス様に癒して戴いたという話がありました。しかし癒していただいた喜びをもって、イエス様に感謝するために戻ってきたのはたった一人だったというのです。
イエス様は「清くされたのは十人ではなかったのか。ほかの九人はどこにいるのか」と嘆かれました。そして、大声で神様を賛美しながら戻ってきた人を祝福され、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われたのでした。大切なことは、癒された人は十人ですが、「救われた」と言われたのは、神様を賛美して帰ってきた一人だったということです。
神様が、私たちに本当にお与えになりたいのは、この「救い」なのです。救いとは、私たちが神様の子どもになり、父なる神様の家で幸せに生きることです。神様は私たちに時に敗北を与えになり、時に勝利をお与えになります。そのどちらにおいても、神様がねがっておられることは、父の愛をもって御自身を私たちにお与えになりたいということに尽きるのです。
敗北をしても、もしそのことによって神様を得ることができるならば、私たちは本当の意味では勝利者です。勝利をしても、もしそのことによって神様を離れるならば、私たちは本当の意味では敗北者になってしまいます。特に、私たちは、成功した時、勝利した時にこそ、悪魔の強い誘惑を受けるのではないでしょうか。そのようなとき、ますます神様の前に遜る者となって、悪魔に対しては「あなたからは何一つ受け取りません」ときっぱりとした態度をとる者になりたいと願うので。 |
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もう一つのことを考えたいと思います。それはメルキゼデクという謎に満ちた人物についてです。この王様は、カナンの地で戦いを繰り広げた9人の王様の中に含まれておらず、何の前触れもなく、ここで突然、アブラハムを祝福する神様の器として登場してくるのです。18節を見てみましょう。
「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。」
メルキゼデクとは「義の王」という意味です。彼の治めていた国はサレムと記されています。これはおそらくエルサレムのことです。このサレムには「平和」という意味があるのです。「義の王」「平和の王」「エルサレムの王」・・・これだけでも彼がただならぬ人物であることを予想させるのですが、それに加えて、彼はいと高き神の祭司であったと言われています。メルキゼデクは、聖書の中で最初に祭司と呼ばれた人物なのです。
祭司とは何をする人なのでしょうか。祭りを司ると書きますが、祭りというのは礼拝のことであり、また祈りのことです。つまり、祭司は人々のために、世のために、神に祈り、祈りによって神の祝福を天から呼び下すことを仕事とする人なのです。
キリシタン迫害の町、そして原爆の町、長崎の市長をした本島等さんという方がいます。10年以上前ですが、「天皇に戦争責任がある」と発言して、右翼から発砲された市長として有名になりました。この方は、キリシタンの末裔であり、熱心なカトリック信者でありますけれども、長崎の平和運動についてこんな風に語っておられます。そのままの引用ではなく、私なりにまとめた言葉でご紹介します。
「長崎が原爆が落ちたとき、カトリックの信者たちはこれを神の摂理だと受け取った。永井隆博士もそうだ。彼らは天国に宝を積むと考える。そして、神の御心のままにと祈った。カトリック以外の人たちは、そうは受け取らない。なぜ怒らないのか。なぜ立ち上がって叫ばないのか。なぜ火の玉となって行動しないのか。しかし、カトリックの被爆者の深い悲しみと苦しみの祈りによって支えられる長崎の平和運動は、広島とは違った力で世界を説得すると信じている」
長崎は祈る町なのだというのです。そして、その祈りによって、世界に平和をもたらそうとする町なのだというのです。
みなさん、行動することも大事だと思います。しかし、世界は行動する人だけによって動いているのではありません。祈る人々によって、行動する人が支えられているのではないでしょうか。
アブラハムは、ロトを救うために行動しました。わずか318人の手勢で、ケドルラオメル軍を撃退しました。その勇気、その知恵、その行動力によって、アブラハムは愛するロトを救いだしました。しかし実は、それはアブラハムだけの力ではなかったのです。アブラハムの知らないところで、アブラハムのために祈る人がいました。それがメルキゼデクだったのです。
いと高き神の祭司メルキゼデクは、パンとぶどう酒をもってアブラハムを出迎えてれくました。パンとぶどう酒というのは、イエス様の命を得させる癒しの恵みを暗示させる品であります。メルキゼデクのパンとぶどう酒も、戦いに疲れたアブラハムの身と魂を癒し、命を回復させるために振る舞われたのです。そこまでアブラハムの身を案じ、祈ってくれていたのが、メルキゼデクであったのです。
メルキゼデクはアブラハムのためにこう祈りました。「天地の造り主、いと高き神に、アブラハムは祝福されますように」アブラハムは、自分が命をかけて戦っている間、メルキゼデクがこのように祈りに続けていたことをまったく知らなかったかもしれません。しかし今、それを知ったのです。メルキゼデクが「あなたに勝利を与えて下さった神様が讃えられますように」と祈った時、アブラハムは心から「アーメン」と唱えて、メルキゼデクにすべての戦利品の10分の1を、神への献げ物として贈ったのでした。
みなさん、祭司は人を教えたり、導いたりはいたしません。人に金や銀を与えることもいたしません。ただ黙って人々のために祈るのです。しかし、私たちの世界には、このメルキゼデクのように祈る人がどうしても必要です。祈りによってしか出来ないことがあるのです。それは人間の絶望を希望に変えることです。それは神の奇跡を信じることによってのみ可能です。祈りは、神は奇跡を、天の祝福を、この地に呼び下す唯一の方法なのです。祈りは、神様の恵みのご支配の中を世に来たらせることができるのです。
今日、私たちが学びたいことの一つは、私たちも祈る人になりましょうということです。天の祝福を地に呼び下すような力強い祈りをお捧することができる者になりたいと願うのです。
そして、もう一つのことは、私たちのために祈ってくれる人を忘れないようにしましょうということであります。私たちは、自分一人で生きているようでありますが、実は、私たちのために祈ってくれている人がいるのです。そのような祈りによって、私たちは支えられているのです。
そして、最後に学びたいことは、イエス様が、私たちの大祭司として、私たちを祝福するためにいつも祈っていて下さるということなのです。新約聖書の『ヘブライ人への手紙』の中には、このいと高き神の祭司メルキゼデクは、永遠の大祭司イエス・キリストを指し示していると、新約聖書では教えられています。イエス様が、私たちのメルキゼデクなのです。私たちは、その大きな祈りの中に支えられているのです。感謝をいたしましょう。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
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Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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