アブラハム物語 12
「我は汝の盾なり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書14章22-33節
旧約聖書 創世記15章1節
恐れるな
 旧約聖書、新約聖書を通じて、繰り返し語られる神様のお言葉があります。そういう言葉は幾つかあるのですが、そのうちの一つが「恐れるな」という言葉です。

 今日、ご一緒にお読みしました聖書にも、神様がアブラハムに「恐れるな」とお語りになったことが書かれており、イエス様が弟子たちに「恐れることはない」という語られたことが書かれていました。実際に数えたことはありませんが、おそらく何十遍となく神様は人間に「恐れるな」と、聖書の中で語りかけておられるのではないでしょうか。

 そして、私もそうですが、きっと皆さんも、そのお言葉に幾度となく信仰を呼び起こされ、励まされて来たことであろうと思うのです。逆に言えば、人間というのは、いかに多くの悩みがあり、心配があり、恐れに満ちた人間であるかということでもあります。しかし、聖書の神様は、いつもそういう弱い人間の味方となり、「恐れるな」と優しく、また力強く語りかけてくださる神様なのです。
恐れに満ちた人間
 「恐れに満ちた人間」ということで思い起こしたのが、今日お読みしました『マタイによる福音書』14章22節以下のお話です。ここには、始めから終わりまで恐怖にとらわれている弟子たちの姿が書かれています。

 特に26節に弟子たちが、「恐怖のあまり叫び声をあげた」とあります。私たちも日々、いろいろな問題に遭遇し、その度にしっかりした心を失い、この弟子たちのように恐怖の叫びを挙げながら神様に祈っているのではないでしょうか。
見えないイエス様を信じる
 ある日のこと、イエス様は弟子たちを舟に乗せ、自分たちだけで向こう岸に渡るようにとお命じになりました。「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ」と書いてありましたから、最初、弟子たちはそれを嫌がったのではないでしょうか。弟子たちの何人かはこの湖で漁師をしていた人間です。舟に乗って渡ること自体が恐いということはあり得ません。では、どうして嫌がったのでしょうか。きっとイエス様か離れることをいやがったのです。「イエス様が一緒にいない」という状況が嫌だったのです。

 これは信仰者として至極当然のことだろうと思います。わたしたちもイエス様が一緒にいない舟に乗って旅をするなんてことは嫌だし、恐ろしいのです。だから、この時の弟子たちの気持ちというのはよく分かるのです。が、逆にイエス様のお気持ちがちょっと分からない気がしますす。イエス様はどうして、一緒にいたがる弟子たちを強いて行かせたのでしょうか。

 そこに信仰の訓練があったと思うのです。その訓練とは、「イエス様がいなくて自分たちでやりなさい」ということではありません。そうではなくて、「どんな時も、イエス様が必ず一緒にいてくださるのだ」ということを知る信仰を、弟子たちに教えようとしておられたのではないかと思うのです。

 実は、私たちの信仰生活も、この弟子たちの舟と一緒なのです。イエス様が心に見えなくなって、「なぜ、自分の船にイエス様は一緒にいてくださらないのか」と思うときがあるかもしれません。しかし、イエス様がおられないのではなありません。むしろ、たとえ目に見えなくてもイエス様を必ず一緒にいてくださるのだということを信じることが求められているのです。そういう信仰の訓練の時なのです。

 この時、弟子たちはイエス様の真意をどれだけ理解したのでしょうか。それはか分かりません。しかし、弟子たちは、「なぜ一緒に来てくださらないのか」と思いながらも、船に乗り込みました。御言葉に従ったのです。

 これが大事なことでした。み言葉に逆らってイエス様のそばに残っても、それではイエス様と一緒にいることになりません。しかし、み言葉に従うならば、たとえ嵐のなかであろうと、ひとりぼっちであろうと、そこに必ずイエス様は一緒にいてくださるのです。

 み言葉に従うことこそイエス様と共にある歩みであり、最も平安の道なのだということを、イエス様は弟子たちに教えようとしておられるのす。
逆風
 次の問題は、舟が沖に出た時に起こりました。強い逆風が吹いてきて、舟がちっとも進まなくなってしまうのです。

 信仰生活は、いつも順風満帆とは限りません。み言葉に従って舟を漕ぎ出したのに、激しい逆風に合い、思わぬ苦労や悩みの日々が続くということがあるのです。そして、そういう時に、わたしたちはまた恐れにとりつかれてしまいます。「本当に、この道で良かったのだろうか? み言葉に従ってここまでやってきたつもりだけれども、それでよかったのだろうか?」

 水曜日の聖書の学びと祈り会で、ヒゼキヤの話を勉強しました。ヒゼキヤの時代、アッシリア帝国が世界を征服としようと勢力を誇っておりました。そういう中でヒゼキヤは国を守るためには、神様への信仰を回復することが第一だと考えるのです。彼は、一生懸命に国中の偶像を取り除きました。そして、お金をかけて主の神殿を手入れし、ユダ王国に神礼拝を回復させました。さらに、アッシリア帝国に貢ぎ物を送るのを止めました。「神様が私たちを守って下さる」という信仰に立って、敵におもねるような屈辱的な仕方で自分を守ろうとすることはやめようと判断したのです。

 ところが、そのためにヒゼキヤはアッシリアの大軍に攻め入られることになってしまいました。アッシリアの大軍はユダの町々を制圧し、ついにエルサレムをも包囲してしまったのです。ヒゼキヤは苦悩にもだえながら、「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、それを生み出す力がない」と言ったと言われています。ヒゼキヤが生み出そうとした胎児とは、宗教改革によってもたらされるはずの神の平和です。そのために産みの苦しみをしてきたのに、肝心の神の平和が生まれてこないのです。逆に、それが仇になってアッシリア帝国に囲まれ、国が滅びようとしているのです。

 スケールは少し違いますが、これはイエス様の弟子たちがみ言葉に従って舟を漕ぎ出したのに、逆風に悩まされるということと同じです。しかし、ヒゼキヤは、そのような時に苦しみながらも、なおも神を頼みとしました。そして、国は救われ、神による平和を見ることができました。一方、イエス様の弟子たちがそのような神の平和に満ちるまでには、まだいろいろな問題を経なければなりませんでした。
幽霊!
 次に、弟子たちの心を襲った恐怖は幽霊でありました。弟子たちは沖で少しも前に進むことができず、逆風と悪戦苦闘しているうちに日は落ち、夜になり、夜明けが近づいてきました。すると、その時、荒波の上を滑るように歩いて近づいてくる幽霊を見たのです。弟子たちは恐怖のあまり叫び声を挙げました。しかし、その幽霊と見えたのは、実はイエス様であったという話なのです。

 イエス様が幽霊や敵に見えてしまうなどということが本当にある得るのでしょうか。それがあるのです。今日の週報のショートメッセージに、サウルの疑心暗鬼という話を書きました。疑心暗鬼になったサウルは、自分の味方となろうとしている人たちをみんな敵だと思いこんでしまうのです。そして、最も忠実で、最も力強くサウルを助けることができるダビデをこそ、サウルは目の敵にして憎み、また恐れたという話であります。

 私たちもまた、イエス様のお心が計り知れないために、イエス様のお心に疑心を抱くということがあるかもしれません。そうしますと、私たちを救おうとなさっているイエス様の御業が、私たちを苦しめるばかりの酷いものに見えてしまうことがあるのです。

 たとえばみなさんも、「聖書を読みなさい。お祈りをしなさい。礼拝を守りなさい。み言葉に従いなさい。奉仕をしなさい。献金をしなさい」ということが、本当はイエス様の恵みの招きであるにも関わらず、それが耐え難い苦痛になってしまうということがないでしょうか。

 そういうことを考えますと、イエス様が助けようとして近づいて下さったにも関わらず、それを幽霊だと見間違った弟子たちのことも理解できるのです。
溺れるペトロ
 このような弟子たちを見て、イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけられました。

 ここでペトロが面白いことを言い出します。

 「イエス様、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせて下さい」

 イエス様が来るのを待っているのではなく、自分からイエス様の方に行こうとするのです。失敗の多いペトロでしたが、それでもイエス様に愛されたのはこのようなペトロの一途さがあったからではないかと思います。

 そのペトロに、イエス様は「来なさい」と招かれました。すると、ペトロは舟を降り、水の上をイエス様の歩きはじめたのでした。これはペトロが一心不乱であったからこそできたことです。ところが、強い風を気にしたとたん、ペトロの心は恐怖にかき乱され、おぼれかけてしまいます。イエス様は、そのペトロをすくい上げ、一緒に舟に乗り込まれると、さっきまで激しく吹いていた風はピタリと止んだのでした。

 このペトロの話も、また恐怖ということが関係しています。この話は初めから終わりまで弟子たちの不安や恐れで満ちているのです。イエス様のみ言葉とはいえ、自分たちだけで舟を漕ぎ出す時の不安、逆風の戸惑い、イエス様を幽霊と見間違えた恐怖心、そしてペトロが強風に恐れ、溺れて恐れた話であります。このような弟子たちに、イエス様は「恐れるな」と近づいて下さり、彼らを救って下さったという話なのです。

 イエス様は救い主です。第一に、イエス様は、どんな荒海の中をも、私たちを救うために近づいてきて下さいます。第二に、イエス様は、不信仰のただ中にある弟子に、「わたしを信じなさい」と語りかけて下さいます。第三に、イエス様は、弟子たちの舟に乗り込み、嵐を鎮めて下さいます。

 さらに言うならば、イエス様は素早い救い主です。27節に、「イエスはすぐに彼らに話しかけられた」とあります。31節には、「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ」とあります。私たちの恐怖に捕らわれた気持ちからしますと、イエス様はなかなか救って下さらないと思うときもあるかもしれませんが、イエス様は、決してもたもたしているのではないのです。
我は汝の盾なり
 さて、イエス様の時代から2000年も前のことですが、神様はアブラハムに「恐れるな、アブラハム、わたしはあなたの盾である」と語られたとあります。

 「恐れるな」という神様の語りかけは、聖書に何遍も出てくるとお話ししましたが、実は、一番最初に、神様が「恐れるな」という言葉をもって近づき語りかけて下さったのは、「恐れるな、アブラハム」と語りかけられたこの時なのです。「わたしはあなたの盾である」この言葉も、実は聖書に繰り返し出てくる言葉ですが、ここで最初に語られたのでした。

 考えてみますと、アブラハムも、イエス様の弟子たちとまったく同じ状況に置かれていたと思うのです。アブラハムは、神様のみ言葉に従って旅立ったのでした。

 しかし、約束の地に天幕をはって住み、おそらく10年以上が過ぎているのに、アブラハムはまだ神様から何も受け取っていないのです。ほんの少しの土地もアブラハムに与えられていません。サラには子どもが生まれません。

 その一方、辛いことはいっぱいありました。大飢饉に見舞われたこと。エジプトに避難して苦い経験をしたこと。ロトとの争い、ついに分かれたこと。ロトが戦争の捕虜なり、アブラハムが戦争に巻き込まれたこと。これではいったい何のために故郷を捨てて旅立ってきたのか分からない、こんな風に考え、心を弱くしても少しもおかしくないのです。

 神様はこのようなアブラハムの気持ちを察して、「恐れるな。わたしはあなたを守る盾である」という言葉をもって近づいて下さったのではないでしょうか。そして、もう一度、約束の言葉を与え、アブラハムを励ましてくださったのではないでしょうか。

 恐れというのは、神様が分からなくなる、イエス様が分からなくなる、そういうことではないかと思います。アブラハムにも、イエス様の弟子たちにも、そのように「神様が遠い」と感じる時があったのでした。しかし、今日の聖書が物語っているのは、神様は私たちが御許に来るのを待っているだけではないということなのです。神様の方から、私たちに近づいて下さるのです。そして、「恐れるな、わたしはあなたの盾である」と語りかけ、私たちに信仰を思い出させて下さるのです。

 それは、私たちが神様から離れていると思うときにも、神様は私たちの近くにおられ、私たちが「神様が分からない」と思うときにも、神様は私たちのことを分かっていて下さるということなのです。そういう神様の恵みによって、私たちの信仰生活が守られているということを今日、ご一緒に感謝をしたいと思います。
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