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アブラハムが、神様の言葉を聞いて信仰の旅路を歩み始めたのは75歳の時でありました。「わたしはあなたを祝福する。あなたによってすべての民を祝福する。あなたは、わたしが示す地に行きなさい」という神様の言葉を信じて、アブラハムは今までのすべての生活を捨てて従ったのです。私たちが洗礼を受けたときのことを思い出しても良いと思いますが、それはまことの神様を知った喜び、そして神様の祝福を信じ、希望に満ち溢れた出発であったに違いありません。
ところが、です。アブラハムは今、とても落ち込んでいるのです。信仰の喜びは消えかかり、神への希望はまったくしぼみかかっていました。原因ははっきりとしていました。あのアブラハムの希望に満ちた出発から、多くの月日が流れていきました。16章の終わりにアブラハムが86歳であったと書いてあることから、およそ10年もの歳月が過ぎていったということが分かります。しかし、10年が過ぎても、アブラハムは約束のものを何一つ受け取っていないのです。この10年にあったことと言えば、飢饉による生活苦と、エジプトでの苦い経験と、旅の仲間であったロトとの別離と、カナンの地の戦争に巻き込まれたことばかりでありました。
それで、アブラハムはがっかりしていたのです。約束の地についた時、確かに神様は「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われました。それなのに、アブラハムには未だに子どもが与えられていません。足の裏一つほどの土地も与えられていません。いったい今までの10年は何だったのでしょうか。神様の約束はどうなってしまったのでしょうか。
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信仰生活というのは、何が起こっても、何が起こらなくても、最後まで同じ心で神様を信じ続ける生活です。アブラハムもそう考えていたはずです。ですから、アブラハムは黙っていました。でも心の中では黙っていられませんでした。アブラハムの心は、神様に聞きたいことでいっぱいでした。15章では、二つの問いかけがアブラハムの口から発せられています。2節「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか」、それから8節「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか」
みなさんも、これと同じことを神様に問うたことはないでしょうか。信仰の喜びに溢れている時、神様への希望に満ちている時には、このような問いかけは生まれてきません。しかし、神様は時として私たちに厳しい試練をお与えになります。長い忍耐の時を過ごすようにお命じになります。そのような時、私たちの神様への希望は、「主よ、わたしに何をくださるというのですか」という失望に満ちた問いかけにとって代わり、信仰の喜びもまた「何によって私がそれを持つと知ることができるのでしょうか」という不安に満ちた問いかけにとって代わることがあるのです。
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しかし、みなさん、神様は、弱い者の痛みが分からない神様ではありません。15章1節をもう一度読んでみましょう。
これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。
「恐れるな、アブラムよ
わたしはあなたの盾である。
あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」
神様は、アブラハムの心の奥底を察して、このように語りかけて下さったのです。私はここを読みますときに、落ち込むアブラハムに、まず神様の方から語りかけて下さっているという事実に、神様に優しさをみます。そして深い慰めを覚えるのです。
アブラハムは、なかなか自分の心の中にある問いかけを、神様に素直に発せられないでいました。おそらく、アブラハムはこう考えていたのではないでしょうか。「自分の信仰が足りないのだ、こんなことを神様に問い、神様へ疑いを露わにしてはいけないのだ。神様を信じなくてはいけないのだ。」
しかし、神様は、アブラハムがまだ何も問いかけていない時に、すでに彼の心の戦いを知っていて下さり、神様の方から「恐れるな」と語りかけて下さったのです。その神様の優しさの中で、アブラハムは堰を切ったように、心の内を神様に注ぎだしたのでした。「いったい、わたしに何をくださるというのか?」「どのようにそれをあたえてくださるというのか?」と立て続けに神に問うたのです。
私は、旧約聖書のハンナという女性を思い起こします。ハンナには子どもがありませんでした。夫はとても優しい人で、「子どもがいなくてもお前がいるからいい」と慰めてくれたのですが、ハンナは子どもがないことを苦にして、ご飯が喉を通らないほど悲しみ、ふさぎ込んでしまいました。
ある日のこと、ハンナは神殿に行って一心不乱に祈りを捧げます。そこに神殿の祭司が通りかかって、てっきり酒に酔っているのだと勘違いをしてしまうのです。祭司は、ハンナに注意をしました。「これこれ、いつまで酒に酔っているのか。」 しかし、その時ハンナはこう答えました。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みをもった女です。お酒は飲んでいません。ただ、主の御前に心を注ぎだしていたのです。今まで祈っていたのは訴えたいこと、苦しいことが多くあるからなのです」
ハンナは祈り尽くすと、家に帰り、晴れ晴れとした顔で食事をしたとあります。そして、神様はハンナを心に留めてくださり、彼女に男の子をお与えになりました。その子こそが、立派な神様の器となったサムエルだったという話であります。
祈りというのは「神様に心を注ぎ出すことだ」ということを、このハンナから学ぶことができるのです。幾ら立派で整った言葉で祈っても、心にもないことを祈るのは祈りではありません。酔っぱらいと見間違われるほど取り乱した言葉であっても、正直な心をあますことなく注ぎ出す祈りを、神様はお聞きになりたいのであります。
アブラハムは、最初、自分の不安や迷いを押し殺していました。しかし、神様はきっと、それを他人行儀だと仰るに違いありません。神様は心の広い方です。イエス様は、神様の恵みの働きをする聖霊を汚す言葉以外は、たとえ神様を汚す言葉でさえも赦されると言って下さいました。「恐れるな、アブラハムよ、わたしはあなたの盾である」
この言葉を聞いた時、神様の優しさの中にあるがままの自分を委ねようというアブラハムの信仰が回復しました。そして、矛盾するようですが、信仰があるからこそ不信仰なあるがままの自分の心を神様に注ぎ出す祈りができたのです。
そして、それが出来たからこそ、アブラハムはさらになお神様の恵みの言葉を聞くことができました。そして、アブラハムはさらに深く確かな信仰をもって、神様を信じたのであります。そのことについては、また次回にお話をしたいと思います。
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今日は、「汝の賜は、はなはだ大なるべし」という説教題をつけました。1節の最後に語られている「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」という神様のお言葉であります。先週は、「恐れるな」という言葉も、「わたしはあなたの盾である」という言葉も、聖書に何度も繰り返し語られている言葉であるとお話ししました。そして、最初に語られている言葉が創世記15章だというお話しをしたのです。実は、それだけではなく「あなたの受ける報いは大きい」という言葉も同じなのです。イエス様も弟子たちに度々「あなたたちの受ける報いは大きい」「天には大きな報いがある」と約束して下さいました。そして、その繰り返し繰り返し語られる御言葉が、最初に語られているのがここなのです。
汝の賜は、はなはだ大いなるべし! みなさん、神様を信じる生活には大きな報いがあるのです。「報い」という言葉を少し誤解を招くかもしれません。「だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」という聖書の言葉があります。「報い」と言っても、私たちが神様に何をして、そのご褒美をもらうということではないのです。ですから、文語訳では「汝の賜は甚大なるべし」とあります。報いがあるというのは、神様を信じた生活には、神様が必ず素晴らしい賜物を送って下さるということなのです。
しかし、「報いがある」という言葉もあながち間違いとは言いきれません。信仰生活というのは、代価を払わなくては成り立たないものでもあるからです。神様に従う時、アブラハムは父の家を離れ、生まれ故郷を捨てました。10年の歳月を忍耐し、これからもまだその忍耐は続きます。
イエス様に従ったペトロもそうです。父の家を捨て、生業を捨て、イエス様に従いました。ちょっと図々しいペトロは、大胆にも、ある時イエス様にこんな質問をしています。「このとおり、わたしは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか」イエス様はペトロにお答えになりました。「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」
私たちの心の中にも、身の回りにも、神様に従うことを迷わせるような願いや、守りたいものがあるのです。それを捨てて、神様に従うということは大変なことに違いありません。しかし、実は、それこそ本当にすべてを得るための道なのだよ、ということを神様を教えて下さっているのです。
それを信じて、私たちもまた代価を払って神様に従うということは、私たちの信仰生活にとって極めて大切なことです。アブラハムは、10年が過ぎても何の報いもないために心を迷わせてしまいました。しかし、創世記25章にはこう書かれています。「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」アブラハムは満ち足りて死んだのです。「汝の賜は、はなはだ大なるべし」という神様の言葉には少しも嘘がなかったのでした。
みなさん、私たちもそのことを信じようではありませんか。人生にはいろいろな時があります。好い時もあれば、悪い時もあります。けれども、本当に「好い時」は良い時なのでしょうか。「悪い時」は悪い時なのでしょうか。そのことをちゃんと考る必要があると思うのです。昔から「禍福はあざなえる縄のごとし」と言います。良い時、悪い時というのはそう簡単に決められることではない。禍が転じて福となるかもしれない。逆に、好いと思う事が禍の種になるかもしれない。それならば、今が本当に良い時か悪い時かは、終わりまで生きてみなくては分からない、そういう意味の人生の知恵の言葉です。
しかし、神様を信じる生活においては、ちょっと違ってきます。確かに禍福はあざなえる縄のごとくやって来るのですが、私たちの人生は、良いときも、悪い時も、神様がそれを織りなして下さっているのです。そして、終わりの日は、すべてが良かったと神様を賛美して、満ち足りて御国に昇っていくのです。
よく知られた話ですが、三浦綾子さんは青春時代に、肺結核と脊椎カリエスを併発して患いまして7年もギブスベッドに寝かされて身動きができないで過ごしました。しかし、その中で何人もの大切な人に出会い、その人たちによって最も大切な人イエス様に導かれていったのでした。その頃の振り返って、三浦綾子さんは「神様は無駄なことは何一つなさらない」と言っておられます。すべてのことは、良いと思われることも、悪いと思われることも、終わりの日の祝福のために、神様が織りなして下さっていることなのです。
「汝の賜は、はなはだ大なるべし」私たちの人生に与えられたこの神様の約束を、どんな時にも信じて参りましょう。そして、信仰の喜びと神様への希望に溢れて、その日を待ち望みたいと願うのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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