|
|
|
アブラハムが九九歳になった時、神様は再度、アブラハムに約束についてお語りくださいました。「わたしはあなたに多くの子孫を得させる」「あなたは多くの国民の父となる」「あなたが宿っているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える」これらの約束は皆、アブラハムにとって目新しい約束ではありません。創世記12章で神様がアブラハムに語られたこと、創世記15章で再度語れれたことが、今もう一度繰り返して語られているのです。
しかし、アブラハムはそれをひれ伏して聞いたと言われています。みなさん、信仰生活は、目新しい教えを次々と学んでいくことではありません。大切なことを繰り返し、繰り返し学んでいくことなのです。
信仰生活が長ければ、その中でいろいろな経験をいたします。いろいろなことを勉強いたします。しかし、どんな経験も、どんな学びも、結局のところ、すべてはいつも同じ所に私たちを導き、同じ所に立ち帰らせるのです。
私たちは迷うことがありましょう。分からなくなるときもありましょう。試練に遭って苦しむこともありましょう。しかし、神様は、神の子らに、飽きることなく再三再四、約束のみ言葉をお語り下さる、憐れみに富み、恵みに満ちた御父なる神様なのです。 |
|
|
|
|
そのことがよく分かるエピソードが、17章15節以下に物語られています。そこで神様は、アブラハムの妻サラについて語られます。「わたしは彼女を祝福し、彼女によって男の子を与えよう」と仰って下さるのです。
ところが、アブラハムはその言葉を笑ったとあります。ひれ伏して、いかにも敬虔な姿勢でそれを聞きながら、内心「そんなことあるもんか!」と笑っていたというのです。恐ろしいことです。しかも、それだけではありません。わざわざ、「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように」と、神様のみ言葉を訂正するのです。信仰の父と呼ばれるアブラハムがこんなことをするとは、実に驚きであります。
けれども、もっと驚くべきことは、神様はこのようなアブラハムの不遜な言葉にまったく怒り給うことなく、約束をもう一度繰り返して下さるのです。
「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む」
さらに神様はこのようにも付け加えられました。
「その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい」
神様は、アブラハムの不遜な笑いを怒ることなく、それを逆手にとって、アブラハムの子供に「彼は笑う」という祝福に満ちた名前をつけてくださったのです。
さらになお、神様は、「イシュマエルについての願いも聞き入れよう。わたしは彼を必ず祝福し、大いに子どもを増やし、繁栄させる」と言われました。そして、最後に、もう一度約束を繰り返されます。「来年の今頃、サラがあなたとの間にイサクを生む」と。
使徒ペトロは、「主の忍耐強さを救いと考えなさい」と私たちに教えています。神様は、私たちの不信仰にも関わらず、忍耐強さという愛によって、繰り返し、繰り返し、み言葉を教えてくださるのです。それによって、私たちは繰り返し、繰り返し、不信仰から救わるのです。 |
|
|
|
|
ところで、17章で神様がアブラハムに繰り返されたみ言葉の中には、幾つかの新しいこともありました。その一つは、新しい名前が与えられるということです。
実は、この時まで、アブラハムは「アブラム」という名前で聖書に登場していました。妻サラは「サライ」という名前だったのです。しかし、神様は二人にアブラハムとサラという新しい名前をお与えになったのです。
新しい名前にはどんな意味があるのでしょうか。残念ながら、アブラムとアブラハムは、そんなに大きな意味の違いはないそうです。サライとサラも同じです。アブラムという名前は「父を愛する」という意味で、アブラハムという新しい名前はそれを強調する意味をもっています。また、サライという名前は「王女」という意味で、やはりサラという新しい名前はそれを強調しているのだそうです。
しかし、神様自らが新しい名前を与えて下さるということに大きな意味があったのではないでしょうか。たとえば、アブラムという名前は父テラがつけた名前です。それならば、「父を愛する」とは、テラを愛するということでありましょう。しかし、神様は、彼にアブラハムという新しい名前をつけられました。すると、たとえ同じ「父を愛する」であっても、それは御父なる神様を愛するという意味になるのです。
サラも同じです。彼女の両親は、彼女が大変かわいらしい娘であったので「わたしのお姫様」という意味で「サライ」と名前を付けたのでありましょう。しかし、神様は彼女に新しい名前を与えられました。やはり「王女」という意味であります。しかし、この時、サラは誰の王女となったのでしょう。他の誰でもない神様の娘となったのです。「私は父なる神を愛す」「神の王女」、どちらも素晴らしい名前ではありませんか。
ところで、ある教会では、洗礼を受けるとクリスチャン・ネームという新しい名前が与えられます。しかし、私たちプロテスタント教会では、特にクリスチャン・ネームをつける習慣はありません。それでも、私たちは新しい名前をもっているといえます。それはイエス様の御名です。
イエス様は言われました。
「わたしの名によって願うものは、何でもかなえて挙げよう」
「わたしの名によって集まるところには、わたしもいる」
「わたしの名によって小さな者を受け入れるものは、
わたしを受け入れるのである」
「わたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語るであろう」
私たちには、イエス様の御名が与えられているのです。その御名によって、イエス様のご臨在を約束されており、イエス様の知恵と力を約束されているのです。 |
|
|
|
|
また、17章で新しいことと言えば、アブラハムに与えられる子どもについて、今まで以上に具体的な約束がなされているということです。
神様は、その子はアブラハムとサラとの間に生まれると言われました。その子にイサクと名付けなさいと言われました。そして、来年の今頃、つまり一年後にイサクは誕生すると言われたのです。
信仰は、み言葉を繰り返し聞くことであるともうしましたが、繰り返し聞くたびに、その約束は私たちにとって現実味を帯びてくるようになります。私たちも、最初は神の力、神の愛、神の救いと言っても、とても手が届かないものに感じたり、漠然としてよくわからないということもあるのです。しかし、それを繰り返し、繰り返し聞くうちに、そしてつたないながらも信仰生活を送り続けることによって、私たちは必ず神の力、神の愛、神の救いを現実のものとして間近に感じるときが来ます。
しかし、焦ってはいけません。この時、アブラハムは最初に約束を聞いた時から24年が経っていました。そのことを私たちも謙虚に受け止めなくてはいけません。神様もまた私たちに忍耐をもって導いて下さるのですから、私たちもまた忍耐をもって従って参りたいと思うのです。
さらになお言葉を付け加えるならば、たとえ私たちが現実的にものと感じられなくても、私たちが感じる、感じないに関わらず、神様の愛も力も救いも、私たちに与えられているのです。感覚や感情ではなく、信じる心を大切にしたいと思います。 |
|
|
|
|
最後に、割礼についてお話をしたいと思います。神様は、約束の言葉だけではなく、約束のしるしとして割礼をお与えになりました。
割礼は、男子の性器を覆う皮の一部を切り取る儀式であります。ユダヤ人たちはアブラハムの子孫として、今日に至るまで厳しく、大切なこととして割礼の儀式を守り続けています。近頃では病院で割礼を受けることも多いそうですが、昔は鋭利な刃物があるわけでもなく、鋭い石器で割礼の手術を施しました。もちろん血がでますし、他の部分を傷つけることもあったでしょうし、たいへんな苦痛が伴うものだったと思われます。
率直に言って、このような割礼は、今日の私たちから見れば実に奇妙で、野蛮な儀式に見えます。エレミヤは、「皮という表面的なところにではなく、心の中にこそ割礼を受けなさい」と言いました。バプテスマのヨハネは、「自分たちをアブラハムの子だと安心してはいけない。割礼を受けていても悔い改めなければ無意味な徴になってしまう」と宣べ伝えました。パウロも、「割礼は救われるための条件ではない。アブラハムは、割礼によって義とされたのではなく、信仰によって義とされたのだ。その徴が割礼だったのだ」と言っています。さらにパウロは、割礼の意義は、イエス様の十字架によって大きな変化を遂げたとも言っています。「割礼の有無は問題ではなく、十字架にかかられたイエス様を信じて受け入れ、聖霊によって心に救いの証しを受けることこそ大切である」と言ったのでした。
確かに、形よりも中身、儀式より精神が大切です。しかし、それではなぜ、神様はアブラハムに奇妙な儀式をするようにお命じになったのでしょうか。
たとえば、私たちは救いの徴として洗礼を受け、聖餐に与ります。これとて割礼と同様に信仰なくしては理解できない、一種の奇妙な儀式に違いありません。私たちの罪が水で洗い流されるわけがありません。また、パンを食べ、ぶどう液を飲むことが、どうしてキリストの命に与ることなのか、それも奇妙な話なのです。けれども、私たちは信仰と共にこのような儀式をも大切にします。信仰があれば儀式はいらないというのは間違いだと考えるのです。
しかし、それはどういう理由なのでしょうか。今日は、洗礼の意味とか、聖餐の意味のお話をするつもりはありません。救いのお話として考えたいと思います。救いは、神様の贈り物を受け取ることによって与えられます。その時に大切なことは、贈り物が何であれ、神様を救い主として信じることです。神様が信じるからこそ、神様の贈り物を受け取って、その中にある恵みに与ることができるのです。ですから、まず信仰が必要です。
しかし、逆に言えば、信仰とは神様の贈り物を受け取ることなのです。アブラハムは、信仰によって、割礼を神様の恵みとし受け取りました。私たちは信仰によって洗礼を受け、信仰によって聖餐式を感謝して受けています。信仰があれば、当然、神様の贈り物はすべて受け取るのです。だからこそ、神様の贈り物の恵みを味わい知ることができるのです。
信仰があれば儀式はいらないというのは、きっと信仰をはき違えているのでありましょう。その人にとって信仰とは、神様の贈り物を受け取ることではなく、神様に贈り物をすることだと思っているのではないでしょうか。そうではありません。信仰とは神様のために何かをすることではなく、私たちのためにしてくださる神様の御業、贈り物を受け取ることなのです。
それでは伝道しなくても良いのか。奉仕をしなくても良いのか。献金をしなくても良いのか。愛の業をしなくても良いのか。このように言う人があるかもしれません。どうぞ、間違わないで欲しいと思います。私たちは信仰によってそれをするのではありません。信仰によって受け取った神様の恵みの力によってそれをするのです。パウロもこう言っています。「わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みです」
アブラハムは、信仰によって割礼を受けました。割礼には痛みが伴いました。しかし、アブラハムの信仰はその痛みも、神の恵みとして受け取ったのではないでしょうか。だから、割礼は信仰による義の徴なのです。私たちもまた、このアブラハムの信仰にならって、信仰によるアブラハムの子らになりたいと願います。 |
|
|
|
|
聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
|
|
|