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今朝のみ言葉を読んでみますと、アブラハムという人は神様に対する信仰がしっかりしていただけではなく、人に対しても並外れて親切な人であったということがわかります。
「熱い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた」
この辺りの真昼の暑さというのは、外に出られないような暑さで、横たわって昼寝をするのが日常の習慣だったようです。アブラハムも、天幕の陰で身体を休めていたのでありましょう。
すると、そのような炎暑の中を三人の旅人が、アブラハムの天幕に向かって歩いて来ました。それはアブラハムのまったく見知らぬ人たちでありましたが、アブラハムは、彼らを見るや否や走り寄って迎えまして、「お客様、よろしければ、どうか、僕の家に立ち寄って一休みなさってください。今、少々水を持ってこさせます。召し上がるものの調えますから、どうぞ僕の家で疲れを癒してから、またお出かけ下さい」と、是が非でも私の家に立ち寄って欲しいと言ったのでした。
旅人たちは「では、お言葉どおりにしましょう」と、勧められるままアブラハムの天幕に立ち寄りました。アブラハムはさっそく旅人たちを大きな樫の木の木陰に案内し、召使いに水をもって来させ、旅人たちの足を洗わせます。また妻のサラに三セア(1セアは約4升ですから1斗2升)の小麦粉でパンを焼かせました。それから自分は牛の群のところに行き、自ら柔らかくて美味しそうな子牛を選び、召使いに料理させました。
こうして、樫の木の木陰に宴が設けられ、次々と出来立て料理が運ばれ、食べきれないほどのご馳走が並べられたのです。アブラハム自ら給仕をして、彼らを大切なお客様としてもてなしたのです。
お料理はもちろんそうですが、もう一つ読み落としてならないのは、炎暑の中を旅してきた旅人たちに疲れを癒していただくために、アブラハムが駆けずり回っているということです。
「アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え」(2節)
「アブラハムは急いで天幕に戻り」(6節)
「アブラハムは牛の群のところへ走って行き」(7節)
私たちは、自分のためには毎日忙しく駆けずり回っています。けれども、アブラハムのように人のために駆けずり回っているでしょうか。今日の聖書を読みますときに、愛とは、人のために身を粉にして駆けずり回ることだということを教えられるのです。
それにしましても、アブラハムがどうして見知らぬ旅人にこのように親切であったかと、不思議に思います。アブラハムの言葉によりますと、「せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから」という、たったそれだけの理由で、このようなもてなしを用意したというのです。
昔、日本でも「袖すり合うも他生の縁」と言われて、見知らぬ人であっても前世からの因縁(貸し借りのようなもの)があるのだから、親切にしなさいと教えられました。もちろん、前世とか他生の縁というのは聖書的な話ではありません。しかし、アブラハムも「せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから」と、袖がすり合うほどの些細な出会いに、その人との繋がりを感じ、そのために旅人への親切を惜しまなかったというのです。
それが出来たのは、どのような人との出会いであっても、その中に神様のお働きや御心があると信じていたからであろうと思うのです。
マザー・テレサに向かって、ある人がたいへん正直に「私は一億円をもらっても、ハンセン病者にはさわりたくない」と言ったそうです。するとマザー・テレサは、彼の愛のない言葉に苛立ちもせず、「わたしも同じです。お金のためにだったら、二億円やると言われても、今の仕事はしません。しかし、神への愛のためなら喜んでします。」と答えました。自分のためならば、わざわざ苦労はしたくはないでありましょう。他人のためならば、苦労する理由を感じないでありましょう。けれども、私たちを愛して下さる神様のためならば、それをしないわけにはいかないのです。
このような愛は、義務感ですることではなく感謝から溢れてくることです。きっとアブラハムは、自分自身が故郷を捨てて出てきた寄る辺なき旅人であるということを忘れていなかったのです。旅人はいつでも神様のお守りを必要としており、親切を必要としています。アブラハムは、そのすべてを神様の恵みとして受け取ってきたという深い感謝の思いがあったのではないでしょうか。
やはり、マザー・テレサの言葉ですが、「人は、持ち物が少なければ少ないほど、多く与えることができます。矛盾としか思えないでしょう。でも、これが愛の論理なのです。」と言っています。物質的に、精神的に貧しく、この世に寄る辺なき者であればあるほど、神様を拠り所とし、そのご恩に生きているという自覚が深いのではないでしょうか。
「神様のために」ともうしましたが、それは神様のために何かができるという大それた思いではなく、私たちを愛して下さる神様の御恩を感じるからこそ、それをしないわけにはいかないという愛の気持ちなのであります。
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さて、アブラハムが見知らぬ旅人をこのように親切にもてなしたということも驚きでありますが、さらに驚くべきことには、この三人の旅人は実は主の御使いであったということなのです。
しかも、今日はお読みしませんでしたが、9節以降の話を読んでみますと、三人の御使いのうち一人は、主ご自身であったと推察されます。アブラハムは、見知らぬ旅人をもてなしているつもりで、なんと主なる神御自身とその御使いたちをもてなしていたのでありました。
皆さんは、トルストイの童話、「靴屋のマルチン」というお話をご存じでしょうか。教会学校のクリスマス劇などで演じられる有名なお話です。
ある冬の夜、マルチンが祈っていると、「マルチン、明日、お前の家を訪ねていきます」というイエス様のお声を聞きました。明くる朝、マルチンは靴をトントンと叩きながら、しきりに窓の外を見て、イエス様がいらっしゃるのを待っていました。すると窓の外に雪かきをしている男が見えました。マルチンは「寒さの中、たいへんだなあ」と思い、男を呼び、お茶を出して温まらせてやりました。
男が帰ってしばらくすると、今度は赤ん坊を抱えて佇んでいる女の人が見えました。この寒い日にどうしたのだろうと、マルチンは外に出て、その婦人に声をかけました。すると、この婦人はたいへん貧しく、赤ん坊に飲ませるミルクのないということでありました。気の毒に思ったマルチンは、この婦人と赤ん坊のためにスープを温め、古着を与えました。
婦人がお礼を言って立ち去って、またしばらくしますと、今度はたいへん騒がしい声が聞こえてきました。少年がリンゴを盗んで、リンゴ売りに追いかけられているのです。見れば、少年もたいそう貧しい様子でした。マルチンは、少年とリンゴ売りを呼び止め、少年の盗んだリンゴを買い取ってリンゴ売りを宥めたのでした。
そんな風にいつもと変わりない一日が過ぎていき、イエス様はとうとうマルチンのもとにいらっしゃいませんでした。その夜、マルチンは祈りました。「イエス様、お待ちしておりましたがとうとういらっしゃいませんでしたね」。すると、イエス様がお答えくださいました。「いや、私は今日、あなたの家に言って暖かいもてなしを受けました。あなたが親切にした雪かきの男、赤ん坊を抱いた婦人、リンゴを盗んだ少年、あれは私だったのだよ」
マルチンは不思議な思いをして聖書を開くと、このようなイエス様の言葉が書かれていました。
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである」(『マタイによる福音書』25章40節)
このマルチンの話は、自分ではそれと気づかないで主をお迎えしていたという点で、アブラハムの話と同じなのです。
私たちも毎日、いろいろな人と接していることでありましょう。その多くは一時の間、私たちとの関係を持ち、やがて過ぎ去っていく人であるかもしれません。しかし、後になって過去を振り返ってみると、その人が自分の人生にたいへん良いものをもたらしてくれたということに気づくことがあるのです。
もしかしたら、その人は天使であったかもしれません。いや、きっとそうであったと気づいて、その幸せを改めて噛みしめることもあるのではないでしょうか。
しかし、逆に、もっと親切にしておけば良かった、もっと心を開いていれば良かったと悔いることもあります。新約聖書「ヘブライ人への手紙」には、こう書かれています。
「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかぬに天使たちをもてなしました」
旅人をもてなすということは、隣人愛ということもそうですけれども、私たちの家に、人生に、主を、天使をお客様として迎えるすばらしいチャンスの時でもあるのです。 |
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最後に、罪人の家を訪問して下さったイエス様のお話をしたいと思います。
エリコの町にザアカイという徴税人がいました。ザアカイは貧しい人からも、だまし取るように税金を取り立てて私腹を肥やす悪人であり、人々の嫌われ者でした。
ある日、ザアカイは、イエスという評判の男がエリコにやってきたというので、どんな人か一目見てみたいと思います。ところが、背が低いために、人垣にさえぎられてイエス様を見ることができないのです。もちろん、ザアカイのために道を空けてくれる人など誰もいませんでした。そこでザアカイは、イエス様がお通りになる道を先回りして、いちじく桑の木に登ります。するといい塩梅に、イエス様が近づいてこられる様子が見えるのでした。
イエス様がザアカイのいるいちじく桑の下を通り過ぎようとされた、その時です。イエス様は立ち止まり、木の上にいるザアカイに向かって、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけられました。
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエス様を家に案内します。そして、おそらくアブラハムが御使いたちをもてなした以上の贅沢なもてなしをしたです。イエス様も、ザアカイのもてなしを喜んでお受けくださいました。
聖書には、これを見ていた人たちは、イエス様にがっかりしたと書いてあります。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と口々につぶやいたのです。イエス様は、貧しい人々の味方ではなかったのか。イエス様は、我々からだまし取ったザアカイの不浄な富のもてなしを喜んでお受けになるのか。このような人々の気持ちはよく分かります。
彼は罪人の家に入りて客となれり! 今日の説教題は、このような人々のつぶやきの声から取ったものです。しかし、この人々はやがて新しい人として生まれ変わったザアカイを見て知るのです。ザアカイの家の客となるイエス様、人々をあっと言わせたこのイエス様の御姿こそ、実はまことに救い主の御姿だったのであります。
彼は罪人の家に入りて客となれり! イエス様がお訪ねになっったのはザアカイの家ばかりではありません。また、イエス様は、重い皮膚病を患い、人々が汚れた人として近づくことを嫌ったシモンの家にも客となり、そのもてなしを受けました。エマオに続く道では、復活が信じられない二人の弟子の道連れとなり、と乞われるままに共に宿にお泊まりになりました。そして、主は、私たちの貧しい心にも訪れて下さいます。
彼は罪人の家に入りて客となれり! イエス様は、罪深い私たちの客となり、友となるために、世に来て下さった神様なのです。神様がお客様となって、私たちの心に宿ってくださるとはなんと素晴らしいことでしょうか。また、主をお迎えした家々では、必ずやイエス様のこのようなお言葉を、喜びをもって聞くことでありましょう。
「今日、救いがこの家に来た」
ですから、みなさん、旅人をもてなしましょう。困っている人に手を差し伸べましょう。孤独な人の友となりましょう。貧しい人々と分かち合いましょう。そして、私たちの家に、心にイエス様をお迎えしましょう。
イエス様はこう言われます。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである」 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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