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今日もご一緒に、信仰者の父と呼ばれ、また神の友とさえ呼ばれているアブラハムの信仰の生涯について学びたいと思います。アブラハムの天幕に、三人の御使いが訪れたということをお話ししてきました。御使いらは、アブラハムの手厚いもてなしを受けた後、二つの大事な知らせをアブラハムに伝えます。一つは、アブラハムの妻サラに子どもが生まれるという事です。そして、もう一つは、今日お読みしましたところに書かれていました。御使いたちはアブラハムに見送られて立ち去っていく時のことであります。その別れ際に、「ソドムとゴモラの町がその悪行の故に神様に滅ぼされようとしている」ということを告げたのでありました。
これを聞いたアブラハムは顔面蒼白になりました。ソドムの町には、アブラハムの甥であるロトが住んでいたからです。ロトの父親は早くに亡くなっており、アブラハムはロトの父親代わりでもありました。
アブラハムは動揺し、御使いに訴えました。「ちょっと待って下さい。なんとかなりませか。もし、その町に五十人の正しい人が住んでいても、神様は正しい者たちを悪い者と一緒に滅ぼされるてしまのですか。それが神様の正義なのですか」アブラハムが訴えると、御使いの中で「主」と呼ばれているお方が、「もし、ソドムの町に五十人の正しい人がいたら、その者たちのために町全体を赦そう」と答えて下さいました。
アブラハムは、それでも心配になり、「主よ、もしかしたら五十人に五人足りないかもしれませんが、どうでしょうか」ともうします。主は、「四五人いれば滅ぼさない」と約束して下さいました。ところがアブラハムはまだ心配がおさまらず、さらに正しい者の数を値切るのです。「四十人ならばどうでしょうか」「三十人ならどうでしょうか」「二十人ならどうでしょうか」と値切っていくのです。それに対して、主は「二十人いれば町を滅ぼさない」と約束して下さいました。
アブラハムは、ためらいつつも、「最後にもう一度だけ言わせて下さい」と頼みます。そして、「もしかしすると十人しかいないかもしれません」と言うのです。主は、「十人のために滅ぼさない」と約束して下さったのです。そして、アブラハムは語り終えました。主はそこを立ち去り、アブラハムも自分の天幕に帰ったとあります。 |
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今日はこのようなお話の中で、特に22節の言葉に、私たちの心に留めたいのです。
「その人たちは、更にソドムの方に向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた」
文語訳聖書でもうしますと、「アブラハムはなお主の前に立てり」という言葉です。
これは、もしかするとアブラハムの人生そのものを物語る言葉であるかも知れません。アブラハムは主の前に立ち、立ち続けることによって、悩みの多いこの世の旅路をしっかりと歩んでいく力を得ていたのであります。今日、私たちが心に留めたいのは、そのことなのです。
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「アブラハムはなお主の前に立てり」
まず「主の前に」とあります。三人の御使いがおりましたが、その中の一人は「主」と呼ばれています。この方は明らかに他二人とは格が違うのです。他の二人は「ソドムの方に向かった」と書いてありました。そして、19章1節では、「二人の御使いが夕方ソドムに着いた」と書かれています。しかし、アブラハムの前に一人残った方がおられます。その方が「主」と呼ばれているのです。
「主」とはどういうお方でありましょうか。この方は、19節ではっきりと「わたしがアブラハムを選んだ」と言われました。これは言い換えれば、「アブラハムの人生に意味を与え、目的を与え、価値を与えているのは、私だ」と言っておられることなのです。そして、そのように言えるのは、天の父なる神様の他にはいないのです。
「アブラハムはなお主の前に立てり」
アブラハムは、自分に人生を与えておられる天の父なる神様の前に立っていたのです。 |
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ところで、荒川教会では、日曜日の教会学校の他に、水曜日の午後に「水曜こどもひろば」という子供会を開いています。先日のこどもひろばでのことですが、スタッフの村松一節さんと宇津木治美さんが、初めて来た小学三年生の男の子に名前やら、住所やらを尋ねていたのです。私は、偶々それを見ていたのですが、なにやらもたついている様子だったので、後で「何かあったのですか」と聞いてみました。すると、「実は、男の子が自分の住所も言えない、お父さんも言えなかったので、どういうことかと驚き怪しんでいたのです」というのです。
これには、私も驚きました。住む家がないのではありません。お父さんがいないのではありません。それならそれで良いとも言えるのですが、しかし、小学校三年生にもなって、自分のお父さんの名前を知らない、住所を知らないというのは、ちょっと心許ない気がするのです。もっとも、この程度のことは心配するまでもなく、その男の子もきっと当たり前のようにそれが言えるようになるに違いありません。
ただ、わたしは後になってこのことを思い返してみて、はっとさせられたことがあるのです。私たちの人生にも、天のお父様なる神様がいらっしゃいます。私たちは、そのお方を本当に知っているだろうかということを思わされたのです。
人生の心許なさというのは、「お金がない」「仕事がない」「家がない」「子どもがいない」「両親がいない」「健康でない」ということにあるのではなく、「何のために生きているか」、「本当に自分の人生はこれでいいのか」、「人生が終わったらどうなるのか」、自分の足で歩いている人生でありながら、肝心なことを何も知らないまま生きているということにあるのではないでしょうか。
「何のために生きているのか」などということは、生きていく上で一番大切なことであります。ところが、それを知らないままに生きているのです。これほど心許ないことはないのではないでしょうか。イエス様がこのような人々をご覧になったとき、飼い主のいない羊のように思われて深く憐れまれたと、福音書に記されています。私たちを緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわに導かれ、たとえ死の陰の谷を歩むとも禍から私たちを守って下さる、私たちの天のお父様を知ること、「主はわが牧者なり、我乏しきことあらじ」との信仰をもって生きることができることこそ、私たちの生きる力となることはないのです。
「アブラハムはなお主の前に立てり」 これは、アブラハムが自分を愛して下さる御方、救って下さる御方、支えて下さる御方を知り、その御方の前に立ち、立ち続けていたということなのです。
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次に「なお」という小さな言葉についても注目したいと思います。アブラハムは、これから起こる恐ろしい禍い、そして大きな不幸について聞かされました。ソドムとゴモラの二つの町が、そこに住む人々諸とも滅ぼされようとしているというのです。しかも、ソドムには、自分が父親代わりなって育てた甥のロトが、その妻と二人の娘と一緒に住んでいるのです。アブラハムにとって、これは決して対岸の火事ではないのです。
「アブラハムはなお主の前に立てり」
アブラハムはそういう時にも「なお」、主の前に立っていたのです。
私たちは今、毎日のようにアメリカとアフガニスタンの戦争のニュースを聞いています。私も、ニューヨークで起こった恐ろしいテロ事件の映像を釘付けになって見ていました。そして、今は、毎日、アメリカの報復攻撃によって怯えて暮らすアフガニスタンの人々、また炭疸菌テロに怯えて暮らすアメリカ国民のニュースを見ています。
一週間ほど前でしょうか、この戦争について、新聞に女子高校生の投書が掲載されていました。アメリカはキリスト教の国なのだから、「あなたの敵を愛しなさい」という聖書の教えに立って、報復戦争などすべきではないという内容が書かれたものでした。文面からこの女の子がクリスチャンの信仰をもって、平和を願う切なる祈りをもって投書していることが伝わってきました。
私も、そしてみなさんもきっとこの女の子と同じ事を考えていると思うのです。しかし、私はこの女の子の投書の前に恥じ入りました。それは、信仰者として自分の考え、平和への祈りを新聞に投書して訴えようなどとは思いもしなかったことだったからです。なぜ高校生の女の子に出来て、牧師である自分にそれができなかったのか。そこには、言っても仕方がない、自分の小さな力が何になるわけでもないというような、大人として分別とか知恵があったと思うのです。しかし、それは世間を知る人間の知恵であって、決して神を知る人間の知恵ではなかったのではないかと反省させられたのです。
神を知る人間の知恵とは何でしょうか。イエス様は「一羽の雀でさえも、御心でなければ地に落ちることはない」と言われました。この地上で起こる一切のことは、神様の御手の中で起こっていることなのです。良いことだけではありません。悲惨な戦争も、不運な事故も、恐ろしい天変地異も、死に至る病も、私たちにとって禍々しいこれらのことも、神様の命令や許しなくしては何一つ起こらないし、また終わることもないのです。
ですから、そのような時に救われたいと願うならば、やはり主の前に立つ他にないのです。戦争を許し給うのが神様であるならば、戦争を終わらせるのも神様なのです。この地上に起こるあらゆる出来事、また私たちの人生に起こるあらゆる出来事の中に、見えない神様の介在を知り、そこから救って下さるのは神様だけなのだという信仰に堅く立つということこそが、神様を知る者の知恵なのであります。
「アブラハムはなお主の前に立てり」
どんな時にも、何が起ころうとも、主の前に立ち、立ち続けることだけが、救いへ道なのです。 |
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ところで、人生の災い以上に、私たちを神様の前に立たせるのを難しくするものがあります。それは私たちの罪です。主は「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい」と言われました。アブラハムの前におられる主は、罪を裁く審判者なる神様だったのです。
「アブラハムはなお主の前に立てり」
これは、アブラハムがそのような審判者の前に立ち続けていたということでもあります。
エデンの園で禁断の木の実を食べてしまったアダムとエバは、神様が近づいてこられた時、木の間に身を隠したと、聖書に書かれています。
弟アベルを殺したカインは、神様に「あなたの弟はどこにいるのか」と問われた時、「わたしは弟の番人でしょうか」と心を背けました。
姦淫の罪を犯した女性を得意顔でイエス様の前に引き連れてきた人々に、イエス様は「あなたがたの中で罪のない者が、この女に石を投げなさい」と言われると、人々は誰もいなくなってしまいました。
御受難の夜、大祭司の家で、「あんな男など知らない」としらを切ってしまったペトロは、イエス様の眼差しに触れたとき、思わず外に飛び出して泣き崩れました。
私たちもそうなのです。自分が罪人であることを自覚すればするほど、自分を罪人だと責めれば責めるほど、神様の前に立つことが出来なくなってしまうのです。
しかし、イエス様は放蕩息子の譬え話をされました。放蕩息子は自分の罪を認めて、「わたしはあなたの息子と呼ばれる資格はありません」と告白しつつも、お父さんの家に帰ってきて、お父さんの前に立ち、お父さんの腕に抱かれたのでした。
神様が私たちに望んでおられることは、自分の罪を責めて神様から隠れたり、離れていったりすることではありません。自分の罪を認めて、神様のもとに立ち帰ることなのです。そして、罪を告白しつつも、神様の愛と恵みの前に立ち、罪の審判者なる神様が無罪の宣言をしてくださることを聞くことなのです。 |
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最後に、もう一つだけ手短にお話をしたいと思います。27節で、アブラハムは、「塵あくたに過ぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます」と言っております。アブラハムは、自分が塵あくたに過ぎない者であることを百も承知でした。しかし、それでも、アブラハムは主の前を離れませんでした。
「アブラハムはなお主に前に立てり」
そして、主の前に進み出て、「あなたは正しい者と悪い者を一緒に滅ぼされるのですか。もし五十人の正しい人がいたらどうするのですか」と、大胆に神様と交渉を始めるのです。アブラハムは塵あくたに過ぎない者でありながら、それでもなお神に祈り願う者として、主の前に立っていたのです。
しかも、アブラハムはねばり強く祈ります。「四十五人だったらどうですか」、「四十人だったらどうですか」「三十人だったらどうですか」「二十人だったらどうですか」「十人だったらどうですか」と、祈り続けるのです。自分は塵あくたに過ぎないと知りながら、神様を相手にこれだけねばり強く祈るというのは、非常に大胆なことであります。しかし、それでもアブラハムは主の前に留まり続けました。
「アブラハムはなお主の前に立てり」
主はこのようなアブラハムを「身の程知らず」としてはね除けたりすることはしません。塵あくたに過ぎないアブラハムの祈りを忍耐強く聞き、寛容をもってお聞き下さるのです。
みなさん、今日は「アブラハムはなお主の前に立てり」というみ言葉を学びました。私たちの心許ない人生にしっかりとした土台を持つために必要なことは、私たちを支えて下さる主の前に立ち続けることなのです。人生の様々な出来事にも動かされないで生きる力を得るために必要なこともまた、主の前に立ち、立ち続けることなのです。私たちは罪人です。神の前に取る足らぬ無きに等しい人間です。しかし、そのような私たちに必要なこともまた、主の前に立ち、立ち続けることです。そして、主の前に進み出て祈ることなのです。
私たちの主は、私たちを愛してくださるお方です。感謝しましょう。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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