アブラハム物語 22
「ロトのソドムを出し日」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書17章28-30節
旧約聖書 創世記19章1-29節
現代への警告
 今朝はソドムの滅亡の話をお読みしました。

 「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。」

 ソドムの町は罪のゆえに神様の裁きを受け、草木もろとも滅び去りました。しかし、ソドムの町の名は、今日もなお悪徳や不品行を象徴する言葉として、私たちの世界に歴然として生き続けています。ソドムの町は滅んでも、ソドムの罪は滅び去っていないのです。

 イエス様は御自分の住んでおられた町カファルナウムの悪をみて、「裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済む」(マタイ11:23)と仰いました。イエス様の時代ですら「ソドムの方がましである」といわれるのならば、今日の世界はいったいなんと言ったら良いのでしょうか。神を恐れぬどころか、神の存在そのものを認めない時代です。その結果、人々は人生観も世界観も持ち得ない人間になってしまいました。ソドムの罪は世界中に蔓延し、巨大になり、いよいよ悪魔化しています。

 二年ほど前になるでしょうか。十代の若者たちの残虐な犯罪が続いたことがあります。その時、誰もが驚いたは「年齢の低さ」ではなく、非常に残虐な犯罪を犯しながらさしたる「動機がない」ということなのです。その頃の新聞に、ある高校教師が書いていたのですが、「なぜ、人を殺してはいけないのか」と生徒に問いつめられて、まとも答えられなかったと告白していました。「何のために生きるのか」「何のために働くのか」「なぜ人を殺してはいけないのか」「なぜ自殺をしてはいけないのか」「なぜ盗んではいけないのか」「なぜ浮気をしてはいけないのか」「なぜ同性愛がいけないのか」・・・神様を認めない人間は、このような問いにさえまともに答えられない人間になってしまうのです。そのような人間がナイフを持ち、銃を持ち、はたまた戦車や核兵器を持つ時代であります。なんと罪深い、恐ろしい時代でありましょうか。

 ソドムの町の滅亡は、このような私たちに対する神様の憐れみ深い警告なのです。やがて神様はこの世界を一新なさる時が来ます。そのとき、イエス様が再びいらっしゃって、生ける者と死ねる者とを永遠に定められます。イエス様はこう言われました。「人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも同じことが起こる」(ルカ17:29) また使徒パウロはこう言っています。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」(ガラテヤ6:7) 

 ソドムの滅亡は、そうなる前に神様を恐れ、悔い改めなさいという、警告なのです。
正しい人ロト
 ソドムの滅亡の話には、もう一つの大切なメッセージがあります。この滅びのただ中から、辛うじて救い出された人がいるのです。その人たちは、なぜ、どのようにして滅びから救われたのでしょうか。

 救われた人たちは、「ロトとその家族」でした。ロトはアブラハムの甥であり、父親を早くに亡くしていたため、アブラハムを父親代わりに育ちました。アブラハムが神様の召出しを受けたとき、ロトも一緒にアブラハムと旅立ち、共にカナンの地にやってきたのでした。しかし、やがてロトはアブラハムと袂を分かち、低地のソドムの町に住むようになりました。

 ロトはソドムの町でどのように過ごしていたのでしょうか。ロトもまた、ソドムの罪に染まって生活していたのでしょうか。

 それはちょっと違うようであります。19章1節に、ロトは「ソドムの門の所に座っていた」とあります。門のある場所は広場になっており、町の人々が集まる場所でした。そこで市場が開かれたり、もめ事や事件があれば裁判が開かれたり、また政治が行われたりしたのです。つまりロトが門のある広場に座っていたとは、悪徳の町ソドムにおいて、唯一良識を持ち合わせた人間として、人々の裁判官になっていたということであると言われているのです。

 たとえば、イエス様の使徒であるペトロは、ロトについてこのように説教をしています。

 「神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。なぜなら、この正しい人は、彼らの中で生活していたとき、毎日よこしまな行為を見聞きして正しい心を痛めていたからです」(Uペトロ2:7-8)

 ロトは、ソドムの町で毎日よこしまな行為を見聞きして正しい心を痛め、また悩ませていたのだというのです。

 さらにまた、創世記19章にも、ソドムのならず者たちがロトに向かって「こいつはよそ者のくせに、指図ばかりしている」と食ってかかる場面があります。これまた、ロトが良識のある人間として、人々を裁く立場にいたことを裏付けていると言わるのです。

 このように、ロトは罪ある人々の中に共に住みながら、決して罪に染まらぬように自制心を働かせ、出来る限りの正しいことを行おうと生活していたのです。

 そのロトが町の門に座っていると、二人の御使いがソドムにやってきました。この二人の御使いは、18章に書かれていましたように、まずアブラハムのところに立ち寄り、それから神様のところに届いたソドムの罪の叫びを、実際に見聞きして確かめるためにやってきた御使いです。ロトは、二人の御使いを見るや否や立ち上がり、「どうぞ僕の家にお泊まり下さい」と強いて頼みます。そして、自分の家で御使いたち(ロトはそれを知らない)をもてなすのです。ロトには、アブラハムと同じように旅人をもてなす親切心が立派に保たれていたということが、ここで分かります。

 みなさんもお分かりだと思いますが、誰もが親切にしようとしない人に、自分一人が親切にするということはたいへん難しいことです。みんなが悪いことをしているときに、自分だけ真面目で正しい人間であろうとすることは本当に難しいのです。強い心が必要なのです。ロトは、ソドムの町の長らく住みながら、そのことを立派にやり遂げてきたのでした。

 確かに、ロトはペトロが言うように正しい人間だったに違いないのです。
ロトの脆さ
 しかし、ロトは完全無欠の人間だったわけではないのです。ロトの家で御使いたちが床につこうとすると、ソドムのならず者たちが押し掛けてきます。そして、乱暴に戸を叩きながら、「今夜、お前のところに来た連中をよこせ。なぶりものにしてやる」とわめき散らしたのでした。口にするのも恥ずかしいことですが、ソドムの男たちは身なりの美しい御使いたちを欲望のままに陵辱しようとしているのです。

 ロトは客人たちを護ろうとします。そして戸口の外に出ていき、後ろの戸をしっかりしめて、彼らを宥めようとします。これは命がけのことでありました。立派なことです。しかし、ロトは耳を疑うようなことを言い出します。客人の代わりに、自分の二人の娘の貞操を差し出すといい出したのです。聖書は、これもまたロトの立派な行為であったと言っているのでしょうか。私は、決してそうとは思えません。むしろロトの正しさの限界、脆さというものをここにみる気がするのです。ソドムの人々の罪から自分や客人を護るために、自分も罪を犯そうとするという人間の限界です。

 みなさん、私たちもクリスチャンとして、たとえソドムに負けじ劣らずの現代社会に住んでいても、善良で、正直で、真面目に生きる人間でありたいと願っていることと思います。そして、私たちもまたロトのように、この世の罪深さに心を痛め、悩ませているのです。

 しかし、町の門に座って世の中を憂いたり、人の訴えを聞き、それにああしなさい、こうしなさいと良識をもって答えることは簡単なのです。問題は、自分の身に悪しき力が迫ってきた時です。たとえば、アメリカとアフガンの戦争が愚かであると論じることは簡単なのです。しかし、誰かが自分を傷つけ、あるいは家族を傷つけた時、果たして「敵を愛しなさい」「復讐は人間のすることではない」と、心静かに言うことができるでしょうか。その時には、私の良識などいっぺんに吹き飛んでしまうに違いないのです。夏目漱石は『こころ』という小説の中で、「人間は何事もない時には善人であるが、いざとなると悪人になるから恐ろしい」と言っていますが、それが現実なのです。

 結局、ロトは罪に心を痛め、悩ませるだけの善人であって、罪に対して何の善き力も持っていない人であったとも言えるのではないでしょうか。
立場の逆転
 ならず者たちは、そのようなロトに「よそ者のくせに、指図ばかりして生意気だ」「なんならお前から先に痛めつけてやろか」と詰め寄りました。ロトは彼らの暴力を受け、後ろの戸口に体を押しつけられ、戸口が破られようとします。

 その時です。中にいた御使いが手を伸ばし、ロトを家の中に引き込みました。そしてロトを護るために、御使いが外に出て、彼らに目つぶしを食らわせたというのです。護る者と護られる者の立場が逆転したのです。

 先ほど、私は、いざ自分の問題となると良識も、信仰もどこかに言ってしまうことがあるともうしました。そして、自分には善を行う力も、神様のために働く力も、人々を悔い改めに導く力も、何もないのだと失望するのです。そのような時です。私もロトと同じ経験をします。わたしが神様のために何かをするのではない。自分の力で罪を犯さない立派な人間になるのではない。すべては神様が、この脆い人間である私のためにしてくださる事なのだということに気づくのです。

 福音とは、神様からの救い主イエス様がしてくださったこと、してくださることによって、私たちが救われるということなのです。その福音の真理が、この後、更にはっきりとした形でロトの身にしめされます。
神の救いの力強さ
 御使いたちは、救い出したロトに「この町は神様によって滅ぼされるから、逃げなさい」と打ち明けました。ところがどうしてでしょうか、ロトはもたもたしてしまいます。御使いは「さあ、早くしないと、この町にくだる罰の巻き添えになってしまいます」と、ロトをせき立て、繰り返し逃げるように警告します。ところが、なおロトはためらい続けるのです。

 私は、このロトのためらいもよく分かります。救われるためには、神様のみ言葉に従えば良いのだと、それは十分に分かっているのです。他に道はなく、迷う必要などないのだということも分かるのです。しかし、それでも恐れや不安が襲ってきます。「信じて、行動しなさい」と、神様は私の心に繰り返し訴えてきます。それでも、ためらうことばかりに時間を費やし、従うという勇気、決断が持てないのです。

 このように、更にロトが弱く脆い人間であることが暴露された時、またしても注目すべきことが起こります。16節をそのまま読んでみましょう。

「ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされたと」

 つまり、こんなに弱々しいロトを、神様は深く憐れみ、御使いたちに命じ、ロトの手首を掴んで町の外に連れ出させたというのです。みなさん、ロトはなんと大きな憐れみを受けたのでしょうか。み言葉に従えないでもたもたしているロトを、神様は力尽くで救い出されたというのです。
なぜロトは救われたのか
 御使いは、ロトに「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはならない。どこにも留まるな。山へ逃げなさい」と言います。しかし、ロトはまだ弱々しいままです。「主よ、できません。あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません」と答えました。そして、「もっとも近いところで勘弁して下さい」というのです。

 みなさん、ロトはなぜ滅びを免れたのでしょうか。正しい人であったからでしょうか。信仰があったからでしょうか。御使いたちに親切にしたからでしょうか。み言葉を信じ、決断し、勇気をもって行動したからでしょうか。そのいずれでもなかったのです。29節を読んでみましょう。

 「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」

 つまり、アブラハムの祈りの結果であったというのです。今日は、少し時間が足りません。少し尻切れトンボのような気がしますが、このことについてもう少し丁寧にお話ししたいこともありますので、次の機会にさせていただきたいと思います。いずれせよ、ソドムの滅亡のただ中から、このように神様の大きな、大きな憐れみを受けて救われた人がいるということこそが、私たちの救いの希望でもあるのです。
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