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久しぶりになりますが、今日はアブラハムの話をしたいと思います。悪徳の町ソドムの滅亡というところまでお話をしてありまして、そこでとぎれておりました。まず、二つのことを思い起こして起きたいと思うのです。
一つは、18章にかかれておりましたアブラハムの祈りであります。アブラハムはソドムの町が神様によって滅ぼされようとしていることを知ると、「神様、どうにかこの町をお救いになることはできないのですか」と、一生懸命に取り成しの祈りを捧げました。「神様、あなたは正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるおつもりですか。もし、ソドムに50人の正しい人がいたらどうするのですか」と、アブラハムは神様に訴えます。すると神様は「その50人のために町を滅ぼさない」とお答えになりました。そこでアブラハムは「45人だったらどうなのですか」と繰り返します。神様は「45人のために滅ぼさない」とお答えになります。それでもアブラハムはなおも必死に食い下がりまして、「40人だったらどうなのですか」「30人だったらどうなのですか」「20人だったらどうなのですか」「10人だったらどうなのすか」と執拗に食い下がって祈り続けるのです。神様は「もし10人の正しい人がいたら、その者のために滅ぼさない」と言ってくださいました。
しかし、ソドムには10人の正しい人もいなかったということでありましょう。翌日の未明、天から硫黄の火が降り、ソドムの町と周辺の町々は草木もろとも焼き尽くされ滅ぼされたというのです。
もう一つのことは、この恐ろしいソドムの滅びのただ中から、神様はアブラハムの甥ロトを救い出されたという話であります。神様から遣わされた二人の御使いが、ソドムの町に住むロトのもとに来ます。そして、「神様はこの町を滅ぼされるから、すぐに家族を連れて逃げなさい」と教えてくれるのです。ロトは「それはたいへんだ」と思いますが、なかなか逃げることができません。御使いたちはロトをせき立てて、「さあ、早くしないと巻き添えになりますよ」と言うのですが、それでもロトはもたもたし続けるのです。
私は、このロトのためらいがよく分かります。救われるためには、神様のみ言葉に従えば良いのだと、それは十分に分かっているのです。他に道はなく、迷う必要などないのだということも分かるのです。しかし、それでも恐れや不安が襲ってきます。「信じて、行動しなさい」と、神様は私の心に繰り返し訴えてきます。それでも、ためらうことばかりに時間を費やし、従うという勇気、決断が持てないということが、私たちにもあるのではないでしょうか。
御使い達は、このように迷っているうちに滅んでしまいそうなロトの手首をつかみ、そしてロトの妻、娘らの手をもつかんで、強引にソドムの町の外の連れ出したと言われています。「そして、「さあ、命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない」と、尻をたたいて逃がそうとするのです。しかし、ロトはこの期に及んでも「主よ、できません」などともうします。人間でしたら「もう勝手にしろ」と突き放したくなるところですが、御使い達はそこをぐっとこらえて、ロトを励まし、勇気づけ、逃がしてやったのです。 |
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今日は「どのようにしてロトが救われたのか」ではなく、「なぜロトが救われたのか」ということをご一緒に考えてみたいと思うのです。結論からもうしますと、それは聖書にこのように書かれています。29節
「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」
つまり、神様がロトをお救いになったのは、アブラハムの真剣な執り成しの祈りがあったからだと言うのです。少々つれない言い方ですが、神はアブラハムを御心に留められたのであって、ロトを御心に留められたのではないということでもあります。 |
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それではロトは箸にも棒にもかからない人であったかというと、決してそういうわけではありません。実は、ロトという人はそれなりに善良な人であったと思われます。御使いたちがソドムの町を訪れると、ロトはこの見知らぬ旅人を是非にと我が家に招待し、もてなそうといたしました。また、ソドムの男たちが彼らに乱暴しようとすると、命がけで守ろうともいたします。それはそれでたいへん立派な行動だと思うのです。
しかし、善良さというものは善きものに違いないのですが、だから自分を救えるのか、他人をまもれるのかというと、話は別です。ロトの場合は御使いたちを守ろうとしたのですが、御使いたちを守ることができないばかりか、自分さえもたいへん危険な目にあって、逆に御使い達によってソドムの男達の中から助け出されることになったというのです。
結局、ロトは善良さをもっていましたが、それは救いにならなかったのです。しかし、「神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」と書いてあったのでした。 |
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ところで、ある人は、確かに善良さでは救われないかもしれないが、自分には信仰があると考えるかも知れません。しかし、ロトにも信仰があったのです。ロトはアブラハムと同じ信仰をもって、これまで神様に従ってきた人間でありました。
しかし、その信仰がいざというときに働きません。御使い達が「命がけで逃れよ」と繰り返し神様の警告を告げているのに、いつまでもぐずぐずしていたというのは、ロトの信仰が救いのためにまったく役立っていないということなのです。ロトはいいます。
「主よ、できません。あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。おそらく、災害に巻き込まれて死んでしまうでしょう」
要するに、ロトは「神が私をお救いになろうとしてくださっているのはよくわかり、有り難いと存じます。しかし、私は救われないでしょう。いくら神様でも、このように弱く、力のない私を、このような危険からお救いに成ることはできません」と言ったということなのです。
これでは救われません。信仰というのは救いを信じて受け入れることです。それなのにロトはせっかくの神様の救いを自分で否んでしまっているわけですから。ところが、聖書は言うのです。
「神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」
こうまでして神様がロトをお救いになったのは、ただひとえにアブラハムの祈りの故であると言うのであります。 |
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さらなお、考えてみたいと思います。神様がロトを救われたのは、神様にも何か益するところがあったという考えは成り立たないのでしょうか。つまり、ロトのためというよりも神様ご自身のためにロトを救われたという考えはどうかということです。
ところが、今日お読みしましたところに、ロトが救われてからの後日譚があります。ロトと二人の娘はソドムから小さな町に逃れ、山の中の洞窟に住むことになりました。その孤独に耐えかねた二人の娘は父親を葡萄酒で酔わせ、彼によって子孫を得ようとしたというのです。
ぞっとするような忌まわしい話です。もちろん聖書ではこのような近親相姦を人の道に反することとして厳しく禁じております。そのような倫理観がまったく欠落していたのは、おそらく二人の娘が神の道も、人の道もない悪徳の町ソドムで育ったからではないでしょうか。しかし、そこから神様は救い出してくださったのです。それにもかかわらず、救われた直後にこのような忌まわしいことが平然と行われているのです。これでは、神様はいったい何のために彼らを破滅の中から救い出したのかということになってしまうでありましょう。
それからこの近親相姦によって生まれたロトの子供らが後のモアブ人とアンモン人になったと言われています。それに対して、アブラハムの子孫がイスラエル人であります。イスラエル人とモアブ人、アンモン人は、本来は血縁関係にある民族だったのです。しかし、旧約聖書をよくお読みの方はおわかりだと思いますが、モアブ人も、アンモン人も、常にイスラエル人を悩ます存在、互いに争い、敵対する関係になっていくのです。
こういうことからしますと、ロトを救われたということは、神様の利益になっていないどころか、損失であったかもしれないとさえ思うわけです。しかし、「神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」とあるわけです。
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みなさん、私たちはロトと少しも変わりません。善良な人間かもしれませんが、自分を救ったり、他人を救う力を持たない人間です。信仰を持っているかもしれませんが、いざというときにその信仰がまったく働かなくなってしまうような人間です。そして、やっと神様に救われても、その感謝に生きること少なく、神様を悲しませることばかり多い人間なのです。
しかし、神様は、アブラハムを御心に留めてロトを破滅のただ中からお救いくださったように、私たちをも御子なるイエス様の愛と祈りのゆえに、破滅のただ中からお救いくださる、それが私たちの信じる神の福音なのです。
そのことを思いますときに、私たちはもう一度、あの原則を思い起こさせられます。福音とは、イエス様がしてくださったことと、してくださること、この二つによって救われるということだ、という事です。私たちに何ができるか、私たちが何をしてきたかではありません。イエス様のしてくださったこと、してくださることによって救われるのです。
そのイエス様がお生まれになった夜、天使達が羊飼いたちに現れ、救い主のご降誕を告げ知らせました。そして、「神に栄光、地には平和」と神を賛美したとうのです。
このクリスマスの賛美が意味するところも同じです。「神に栄光」、それは神様は素晴らしいということです。そして「地には平和」、それは神様が私たちが諸々の戦いが終わらせ、平和を与えてくださったということです。しかし、今なお世界には戦争があり、私たちの人生には多くの戦いがあります。その戦いがどのように終わるというのでしょうか。救いは私たちが戦って勝ち得ることではなく、イエス様がしてくださったこと、してくださることによって、私たちに与えられるのだという福音を受け入れる時、私たちの戦いは終わるのです。その時、私たちは天使達と一緒に「神様は素晴らしい、神様は私たちの戦いを終わらせてくださった」とクリスマスの賛美を歌い、イエス様が来たり給うことを心から喜ぶ者になるのです。
どうぞ、私たちの諸々の戦いを主の救いにゆだねて、賛美に満ちたクリスマスを迎えたいと願います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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