アブラハム物語 24
「神もし我らの味方ならば」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章31-39節
旧約聖書 創世記 20章1-18節
マムレの樫の木
 今朝は、「マムレの樫の木」の話から始めましょう。アブラハムの人生を語る時に、たいへん象徴的な意味をもった場所、それがマムレの樫の木でした。

 アブラハムは、弟ハランが死に、父テラが死に、しかも自分には跡継ぎとなる子供がないという状況の中で人生の途方に暮れていた時に、生ける真の神様と出会いました。そして、「わたしが示す地に生きなさい。わたしはあなたを祝福し、あなたを大きな国民とする。あなたの子孫によって地上のすべての民を祝福する」という神様の声を聞いたのでした。

 アブラハムは、この神様のお言葉を信じ、父の家を捨て、生まれ故郷を後にして、神様の示す地に向けて旅立ちます。そして、たどり着いた場所が広く言えば今のパレスチナでありますが、そのヘブロン地方にあるマムレという土地であり、大きな樫の木の立つ場所であったのです。聖書には「アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。」(創世記13章18節)と書いてあります。

 それ以来、アブラハムはこのマムレの樫の木のもとで、神様との深い交わりをもって暮らしてきました。孤独に打ちひしがれている時、アブラハムはこのマムレの樫の木のはるか頭上に広がる満天の星空を眺めました。そして、「あなたの子孫はこの星の数のようになる」という神様の声を聞き、心に慰めを受けたのであります。

 また、真昼の暑さ厳しいおり、アブラハムはこの大きな樫の木の木陰に宴を設け、三人の御使いたちをもてなす光栄も経験しました。

 それから、まだこれから先のお話ですが、アブラハムはマムレの樫の木の近くの土地を購入し、そこに妻サラを葬ることになります。マムレは、これまでずっと寄留者であり続けたアブラハムが、はじめて自分のものとして手に入れた土地でもあったということになります。

 そして、アブラハム自身も妻と同じ場所に葬られたのでありました。マムレの樫の木は、アブラハムの永遠の安息の地ともなったのであります。

 「マムレ」には、力強いという意味があるそうです。「樫の木」もまた頑丈さを象徴する木であります。その頑丈さから樫の木は避雷針としてもっとふさわしいと考えられ、人々は雷をさけるために好んで樫の木の近くに住んだそうです。また、頑丈さだけではなく、樫の木のもたらす木陰はアブラハムに安息を与えましたし、ドングリは人や家畜の食料や薬となり、命の糧として重宝にされたのでありました。マムレの樫の木のもとで暮らすアブラハムの生活は、神様のもとで生きるアブラハムの人生というものを象徴していたように思うのであります。

 みなさんの人生には、このように力強く、優しく、みなさんの生活を支え、災いを遠からしめ、癒しをもたらし、安息を賜るマムレの樫の木がございましょうか? もし、そのように恵みをもたらす木がありましたら、そのもとを易々と離れていっても良いものでしょうか。そんな必要はどこにないはずですし、どんなことがあっても、そこを決して離れないで暮らすことこそ、生きるに大切な事なのであります。
ゲラルへの移住
 ところが、アブラハムは、突然このマムレの樫の木のもとを離れ去り、ペリシテ人の国であるゲラルに移り住んだということが、今日、お読みしました20章に書いてあったのであります。

 なぜ、アブラハムはマムレの樫の木を離れて、わざわざゲラルの地に行かなければならなかったのありましょうか。ある人は、ソドムとゴモラの滅亡を見て、その近くに住むことを恐れたのではないかと説明しています。また、もしかしたら飢饉があって牧草や食糧のある地を求めてゲラルに行ったのではないかとも言っています。けれども、聖書に何も書いてない限り、本当の理由というのは分かりません。

 考えてみますと、私たちが罪を犯したり、失敗をしたりする時にも、なぜそんなことをしたか、ちゃんと説明できない場合がよくあるのです。実際、たいへんなことをしておきながら、「魔が差した」などと魔物のせいにする人がおります。無責任きわまりないことですが、実際問題としては理屈や理由がなくても、人間はなんとなく行動してしまうということがあるわけです。

 だとすれば、アブラハムの場合でも、なぜマムレの樫の木のもとでの生活を離れてしまったかという理由は、あまり問題ではないかもしれません。大切なことは、マムレの樫の木のもとにある生活を離れた結果、アブラハムは神の給う安息を失い、試みの中に落とされてしまったということなのです。
神の安息を失ったアブラハム
 ゲラルに移り住んだアブラハムは、妻サラを「自分の妹だ」と偽ります。その理由は11節にありますが、ゲラルの人々は神様を恐れない野蛮な人々だろうから、もしサラを妻だと言えば自分を殺してでもサラを奪おうとするかもしれないからだというのです。案の定、ゲラルの王アビメレクは、サラに目をつけます。そして、サラがアブラハムの妹だと聞き、自分の妻として召し入れたのです。

 しかし、その夜、神様がアビメレクの夢の中で語りかけます。「あなたが召し入れた女の故に死ぬ。なぜなら、その女は夫のある身だ。」アビメレクは驚いて、神様に弁明します。「主よ、わたしは知らなかったのです。わたしは何のやましい考えも、手段も用いませんでした」すると、神様は「わたしも、あなたが潔白なことは知っている。だから、こうしてあらかじめ忠告したのだ。ただちに、あの女をアブラハムに返しなさい。そうしなければ、本当に死ぬことになるだろう」と、アビメレクにお答えになったのでした。

 次の朝、さっそくアビメレクはアブラハムを呼び、「あなたはなぜ、嘘をついたのか。なぜ、わたしに罪を犯させ、神様の怒りに触れさせようとしたのか」と責め、サラをアブラハムに返します。そして、アブラハムの神を畏れたアビメレクは、アブラハムにどこでも好きなところに住みなさいと、アブラハムのゲラルでの生活に便を図ったというのです。

 ここで問題なのは、アブラハムが、異教徒であるアビメレクよりもずっと弱々しく、卑怯で、恥ずべき人間に成り下がってしまっているということです。アブラハムはゲラルの人々を神様を恐れない野蛮な人々だと思って恐れたというのですが、ゲラルの王アビメレクは、手段を選ばず他人の妻を自分のものにしてしまうような人間ではありませんでした。神様の前に、わたしは何もやましいことはありませんと言える、実に高い倫理観をもって生きている人だったのです。

 恐れなくてもよいものを、むやみに恐れ、心配するようになる。これは神の安息を失った人が受ける試みではないでしょうか。そして、アブラハムは自分の身を守るために愚かな嘘をつきます。その嘘がばれた時にも、「これは嘘ではない。父親は違うが、確かにサラは自分の妹でもあるのだ」などと、惨めったらしい言い訳をします。これでは、いったい、アブラハムとアビメレクのどちらが神を畏れる人であるかと疑いたくなってしまうのです。
 
 今日、私がこの聖書を読んで思いましたことは、すべての原因はアブラハムがマムレの樫の木を離れてしまったということにあったのではないかということなのです。マムレの樫の木を離れるということ自体は、アブラハムの罪でも、失敗でもありません。アブラハムがマムレの樫の木を離れるには、きっと何かがあったのでありましょう。しかし、それが本当にマムレの木を離れなくてはならない事だったのかどうか、アブラハムはもっとよく祈り、神様の導きを求めるべきであったのです。

 それをしないで、アブラハムはマムレの樫の木のもとを易々と離れてしまった。樫の木ならどこにでもあると思ったのかもしれません。しかし、アブラハムが守らなければならなかったのは、どこにである樫の木の給う安息ではなく、そこにしかない神の給う安息であったのです。

 みなさん、神様の給う安息は、どこにでもあると考えてはなりません。神様の給う安息というのは、神様共にある生活を守るところにのみあるのです。

 たとえば紋切り型な言い方をすれば、神様と共にある生活の基本は、毎週の礼拝を守り、毎日聖書を読み、祈ることにあります。しかし、一度や二度、礼拝を休んだところで、あるいは聖書を読まず、祈らない日があったとしても、それを失敗とか、罪ということはできないのです。

 けれども、よくお考えいただきたいことは、それが私たちの生活や心を無防備にし、罪に機会を与えることになりはなしないかということです。その結果、もし罪に捕らえられ、神様の祝福を離れる苦々しさを味わうことになったとしら、私たちはそこを離れたことによって、大きな失敗をしたということになるのではないか、ということなのです。
もし神が味方であるならば
 ところで、この話の結末には、少々釈然としないことがあります。17-18節にこうあります。

「アブラハムが神に祈ると、神はアビメレクとその妻、および侍女たちをいやされたので、再び子供を産むことができるようになった。主がアブラハムの妻サラのゆえに、アビメレクの宮廷のすべての女たちの胎を堅く閉ざしておられたからである。」

 神様はアブラハムに罰を与えるのではなく、アビメレクやその妻、および侍女たちに罰を与えたというのです。9-10節をみますと、アビメレクはアブラハムを責めています。「なんということをしてくれたのか。いったい、わたしがあなたに何をしたというのか。とんでもないことをしてくれた。どういうつもりでこんなことをしたのか」と、アブラハムを訴えるのです。アビメレクの言うことはまったく当然の話です。

 しかし、神様は、あくまでもアブラハムの味方になろうとされたというのです。それは、神様の目からみると、やはりアブラハムの方がアビメレクよりも正しいかったからでしょうか。そうではありません。神様の目から見ても、アブラハムは失敗を犯し、罪を犯したのです。しかし、ローマの信徒への手紙にはこう書いてあります。

 「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。だれが私たちを罪に定め、訴えることができますか。人を義としてくださるのは神なのです」

 神様は、アブラハムの失敗、愚かさ、罪、それにも関わらず、だれにもアブラハムを訴えさせないのです。そして、アブラハムの味方となり、アブラハムの友として弁護してくださったということなのです。

 「アブラハムが神に祈ると、神はアビメレクとその妻、および侍女たちを癒された」

 確かに釈然としないのです。しかし、これによって、アビメレクは神様がいかにアブラハムを大切にし、重んじておられるかというを知ったのではないでしょうか。神の友であるということは、行いの立派さが証明するのではなく、その人が神様から受ける恵みの大きさによって証明されることなのです。

 聖書の中で、神の人、神の僕と呼ばれる人は幾人もおりますが、名指しで神の友と呼ばれているのはアブラハムだけです(ヤコブ書2:23)。しかし、アブラハム以外に、神の友と呼ばれている人々がいます。それは、イエス様の弟子たちでありました(ヨハネ福音書15:15)。イエス様は、「これからはあなたがたは僕とは呼ばない。あなたがたは私の友のである」と言われています。

 イエス様を信じて、イエス様の弟子になるということは、立派な人間になる決心をすることでもなければ、それを目指すことでもありません。イエス様の友になることなのです。そして、イエス様の友となったならば、イエス様はいつでも私たちの味方をしてくださるのです。
十字架の恵み
 今日は、樫の木は頑丈だという話をしましたが、こういう物語があります。

 神様が、森の木に向かって、イエス様がおかかりになる十字架のための木材を提供してほしいと頼んだのであります。すると、どの木もそれを拒んだのですが、樫の木がイエス様と一緒に喜んで死のと申し出ました。それでイエス様は、復活の後、樫の木を選び、そのもとで弟子たちにお会いになったという話です。

 これは聖書の話ではなく、単なるお話ですが、私たちの人生にもマムレの樫の木があるとしたら、それはイエス様の十字架という樫の木に違いないでありましょう。この十字架こそ、私たちの人生をしっかりと支え、恵みをもたらし、安息を賜る丈夫な、頑丈な人生の樫の木なのです。

 十字架の頑丈さと言えば、こんな事がありました。よく私どもは十字架によって救われるということを言いますが、先日の水曜日の午後、この荒川教会の上に十字架の立つ櫓がありますが、あの十字架にしがみついて、まさに命拾いをした人がいるのです。

 実は、その日は割合と暖かい日で、私と細野兄弟は、教会の屋根を飾っていたクリスマスの電飾を片づけようということになりました。まず、私が屋根に上りまして電飾をはずし、下にいる細野兄弟に手渡しておりました。ところが、どうしても櫓の上の十字架には手が届きません。櫓に上ろうとしましても、一見何でもなさそうに見えますが、足をかけると簡単にはずれてしまうほど櫓を組んでいる木は脆くなっているんで、それもできません。すると、細野兄弟が「先生、僕がやります」と言うので、交代してもらいました。

 細野兄弟は屋根にあがると、はしごを屋根の上に引き上げ、それをやぐらにかけて登り始めたのです。私はハラハラしながらみておりました。しかし、何とか十字架の電飾も外し終えたその瞬間です。ハシゴがぐらりと揺れ、回転し、細野兄弟の足がハシゴがぱっと離れたのです。一瞬の出来事でしたが、細野兄弟は片手でハシゴをつかみ、片手で十字架をつかんで、もちこたえ、なんとか体勢を立て直して、怪我一つなく無事に降りてきたのでした。一つ間違えば大変なことで、それだけで済みましたからこうしてお話もできるのですが、屋根から降りてきた細野兄弟はうれしそうにこう言いました。

 「やあ、十字架にしがみついて救われました。この教会の十字架は丈夫ですね。四十数年、雨風にさらされて、もし腐ってでもいて十字架がおれたら、僕は一巻の終わりでしたよ。でも、この教会の十字架はまだまだ大丈夫ですよ。なにしろ、教会で一番体重がある僕を支えることができたんですから」

 荒川教会の十字架は樫の木じゃありませんけれども、しかし、頑丈でありました。私はこのことに、イエス様の十字架は、私たちのどんな失敗の大きさ、罪の重みに耐える頑丈さを持っているのだということを改めて思わされたのです。十字架の恵みに留まり続けましょう。
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