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先週は、「神われを笑はしめ給う」というお話でありまして、年老いたアブラハムとサラとの間に奇跡の子が生まれたということをお話ししました。人間的には何の望みのないところに、神様は奇跡をもって喜びを与え、笑いを与えてくださる。そのことを知った二人は、生まれた子に「笑い」という意味をもったイサクという名前をつけます。
やがて、イサクは健やかに成長し、乳離れの時を迎え、日本で言えば七五三のようなお祝いでしょうか。アブラハムはイサクの成長を祝って盛大な祝宴を開きます。この時のアブラハムとサラは本当に幸せでありました。
けれども、人生は複雑です。本当に祈って、祈って、待ち望んできた幸せをようやく手に入れた幸せにもかかわらず、それがもとでアブラハムの家に今度はたいへん辛い苦しみが訪れるのです。9-11節にそのことが書いてあります。
「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。』このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。」
私にも、大きな喜びであったはずのことが、いつしか自分をふさぎ込ませるものになっていることがあります。そして、はじめにあった感謝の気持ちを忘れ、何もかもが自分にとって不幸であるかのように思ってしまうことがあるのです。
みなさんはいかがでしょうか。私たちが今悩んでいる仕事、結婚、子育て、マイホーム、そして信仰生活といったことは、神様の祝福によって私たちに与えられ、感謝と喜びをもって始まったことでありました。しかし、いつしかその感謝と喜びを忘れ、ただ頭の痛い、悩ましい問題としか捕らえられなくなっているようなことがありませんでしょうか。
聖書にもそのことが書かれているのであります。「アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた」という喜ばしい物語が、「このことはアブラハムを非常に苦しめた」と物語に変わっていくのです。 |
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このような時に、私たちが陥りやすい一つの考えがあります。「もしも、あの時・・・」という考え方です。あの時、仕事を選ぶのを間違えたのではないか。結婚を早まったのではないか。子供を産むべきではなかったのではないか。洗礼を受けるほど信仰がなかったのではないか。もしも、あの時こうしていたら、ああしていたら・・・そのような過去を悔んで思い巡らしてしまうということが、みなさんにはありませんでしょうか。
こんな話があります。妻を交通事故で失った一人の男が、なぜ妻が家の近くのオモチャ屋に怪獣のプラモデルを買いに行って、トラックにはねられてしまったのだろうかということから、次々と思い巡らすのです。もしもあの時、子供がテレビの怪獣映画を見てプラモデルをほしがらなかったら、妻は出かけなかっただろう。もしもあの時、自分が約束通り、子供を遊園地に連れて行っていたら、子供はテレビを見なかっただろう。もしもあの時、友達の麻雀の誘いを断っていれば、子供を遊園地に連れていったはずだ。そこまで考えて、結局、その朝、会社をさぼって友達に電話をしたことがそもそも間違いだった、それが妻を交通事故に追いやったのだと自分を責めてしまう話です。
実は、アブラハムにもやはり「もしも、あのとき・・・」ということがあったのです。アブラハムとサラは、「子供を与えられる」という神様の約束を戴いておりながら、ずっと子供が生まれませんでした。その時、サラが女奴隷のハガルを連れてきて、「主は私たちに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷ハガルにあなたの子供を産ませてください。その子を私たちの子供にしましょう」と提案したのでした。もしも、あの時、信仰を持って「神を待ち望もう」と言うことができたならば、少なくとも神様に祈り、導きを求めならば、この苦しみはなかったのにと、アブラハムは思った違いありません。
しかし、アブラハムはサラの願いを聞き入れて、ハガルによってイシュマエルをもうけました。そのことが、今、アブラハムの大きな苦しみ、重荷となってのしかかっているのです。これはハガルが悪いことでも、イシュマエルが悪いことでも、サラが悪いことでも、イサクが悪いことでもありません。「もしも、あのとき・・・」と、アブラハムはきっと後悔して自分を責め、苦しんでいたと思います。 |
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考えてみますと、私たちの人生には二つの面があります。一つは自分で決められないことと、もう一つは自分で決めなくてはならないことです。
生まれつきの能力、幼いときに生まれ育った環境、あるいは運命的に、宿命的に、自分に襲ってくる病とか災害、そういうことは自分の人生でありながら、自分では選んだり、決めたりできないことです。ただ神様の御心として、私たちが信仰をもって受け取らなくてはならないことなのです。
それと同時に、私たちの人生には、「もしもあの時に・・・」と振り返ることができるような大小様々な分かれ道があります。その時その時に何を選ぶかということは、私たち自身の意志と決断に任せられているのです。そして、小さな判断のミスが、後の重大な局面につながってくるということもあるのです。
「もしも、あの時に」と後で悔やまない人生を送るためには、どんな小さなことにおいても、その一つ一つにおいて神様に祈り、御言葉の導きを求め、神様のお心と常に一致して歩めるように、良い方を選ぶということが大切になってくるのです。
良い方を選ぶということで思い起こしますのは、イエス様とたいへん親しくしておられたマリタとマリアという二人の姉妹の話です。
あるとき、イエス様はこの姉妹の家を尋ねます。姉妹は喜び、マルタはおもてなしのために甲斐甲斐しく働き、マリアはイエス様の足下に座って楽しくお話に聞き入っていました。しかし、しばらくすると、マルタは、マリアが何も手伝ってくれないことにいらいらしてきます。そして、ついに「イエス様、マリアが何もしないで私だけにさせているのを見て何ともお思いになりませんか。少しは手伝うように仰ってください」と怒りを爆発させてしまったのでした。
すると、イエス様は、「マルタ、あなたは今多くのことで思い煩っているようだが、大切なことはそんなにたくさんあるわけではありません。ただ一つなのですよ。マリアを良い方を選びました。それを取り上げてはいけません」と、諭したというのです。
「マリアは良い方を選びました」とイエス様は言われているのですが、いったいそれはどういうことだったのでしょうか。
私がこの話で興味深く思うのは、なぜマルタは、手伝わないマリアに不平をぶつけるのではなく、イエス様に対して怒りをぶつけたのかということなのです。最初、マルタはイエス様を愛し、イエス様に喜んでもらいたい一心で忙しく働いていたに違いありません。それが悪いわけがありません。ところが、マルタは喜んでいただきたいはずのイエス様に、逆に不平をぶつけてしまうのです。それはマルタが「イエス様のために」という心を離れ、次第に自分の喜びのことを考えるようになってしまった証拠ではないでしょうか。
イエス様は、このマルタに「あなたは思い煩っている」と言われました。思い煩いというのは、心配することではありません。心配するということは悪いことではないのです。心配とは「心を配る」ことですから、むしろ良いことだと言えます。自分のためであれ、人のためであれ、真剣に心配する人は、よく祈り、人のために一生懸命になれる人になるのです。しかし、私たちは祈るのでもなく、働くのでもなく、ただただ心が当てもなく彷徨ってしまうことがあります。それが悪いのです。それが思い煩いなのです。
マルタも、イエス様のことに一生懸命心を配っているうちはよかったのです。しかし、心がイエス様を離れ、自分のことや、マルタのことや、いろいろなことを当てもなく考え出してしまった。そして、ついにイエス様に「あなたは何ともお思いにならないのですか」と不平をぶつけてしまったのです。
それに対してマリアは、ただイエス様のそばにそばに座っていただけではなく、心がイエス様に向かい、イエス様だけを見ていたのです。「良いものを選んだ」というイエス様の祝福のお言葉は、マリアの心がしっかりとイエス様を選んでいて、決して離れなかったということを言っておられるのではないでしょうか。
いろいろな選択がありえると思うのです。マルタは働くことを選び、マリアは座っていることを選びました。しかし、問題はそのことにあるのではありません。何をするにせよ、何をしないにせよ、いつも心がイエス様と一緒にいること、そしてイエス様のためにあることを選んでいるということが大切なのです。そのことを忘れてしまうときに、私たちの心は当てもなく、ああでもない、こうでもないと彷徨いだしてしまいます。そして、どんどん道を外れて、最初とは違ったところにたどり着いてしまうのです。
どんな時にも良い方を選ぶというのは、どんな時にも私たちの喜びの源であるイエス様を選ぶということなのです。どうしたらイエス様と一緒にいることになるか、どうしたらイエス様の喜ぶことになるのか、そのことを考えて、たとえ何かを犠牲にするとしても、そのことを選び取るということなのです。 |
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みなさん、私たちはどんな小さなことにも、神様に祈りつつ、イエス様を選び取りながら歩むということが大切であります。しかし、それにも関わらず、思い煩い、過ちを犯し、神様の御心とは違った方に歩んでしまうことがさけられないのが、私たちの現実だということも認めなくてはならないでありましょう。
そういう時、私たちは神様の祝福をすっかり失ってしまうのかと言えば、決してそうではないということが、今日のアブラハムの話の中にあることではないかと思うのです。12-13節を読んでみますと、もとはといえば自分の信仰的な落ち度から引き起こされた不幸に苦しむアブラハムに、神様がこのように語りかけておられます。
「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」
神様は、アブラハムの失敗を責めるのではなく、その失敗を私が代わりに負ってあげようと言ってくださっているのです。だから、「あなたはそのことで苦しまなくても良い。わたしに任せよ。わたしがぜんぶ良いようにする」と言ってくださっているのです。神様の恵みは、限りないのです。
今朝は、「彼の落度、世の富となれり」という説教題をつけました。これはローマの信徒への手紙11章12節の御言葉を、文語訳聖書からとったものです。「彼の落度、世の富となれり」、本当に驚くべき神様の約束ではありませんでしょうか。神様は、私たちの落度でさえも、祝福に変えてくださることができるのです。だからもう、「もしもあのとき・・・」と、自分の落ち度のことで苦しまなくても良い、あなたの落ち度は私に任せよと仰ってくださるのです。
このような本当に限りない恵みが与えられているからこそ、まことに落ち度の多い私たちがなおも、後ろのことを忘れ、前に向かって体を伸ばしつつ、神様の祝福を信じ、また求めていくことができるのです。 |
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しかし、いかに神様の恵みは限りなくても、私たちが「もう苦しむな、わたしに任せよ」との神様の言葉を信じて、新しい歩みを始めなければ、せっかくの神様の御心も実を結ぶことはありません。その点において、私たちはアブラハムを見習いたいと思います。14節
「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。」
アブラハムはどんなに切ない思いで、ハガルとイシュマエルを追い出したことでありましょうか。二人にパンと水の革袋を手渡す時のアブラハムの気持ちはいかばかりであったでありましょうか。ハガルも自分の妻であり、イシュマエルも自分の子なのです。アブラハムが一番願っていたことは、サラもイサクも、ハガルもイシュマエルも、みんながアブラハムの家で平和に暮らすことであったに違いないと思います。
しかし、アブラハムは神様のお言葉に従うのです。もし、アブラハムが「何も追い出さなくても、別の方法があるかもしれない。自分が我慢すれば何とかなるのではないか」と考え出したら、彼は心は思い煩いの中に取り込まれ、きっとあのマルタのようになっていたでありましょう。しかし、アブラハムは自分の思いがどこにあるにしろ、神を選んでいました。それゆえに、神の恵みのうちを、限りない赦しのうちを、歩み続けることができたのであります。
神様がハガルとイシュマエルをどのように扱ってくださったかは、来週も少し触れるつもりですが、どうぞそれぞれに聖書を読んで味わってください。神様は、アブラハムの落ち度を、本当に恵み深く扱ってくださり、何かも祝福のうちにおいてくださったのです。
「彼の落ち度、世の富となれり」どうぞ、この御言葉の約束を信じましょう。神様は、私たちの落ち度にも関わらず、なお祝福に招いてくださるお方です。私たちの落ち度を神様が代わりに背負ってまで、私たちを祝福に招いてくださるお方です。ですから、後ろを振り返るのではなく、神様が招いておられる祝福に向かって、全身を伸ばしつつ歩んで参りましょう。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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