アブラハム物語 27
「汝は園の泉、活ける水の井戸」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書 4章7-15節
旧約聖書 創世記 21章14-34節
ハガルとイシュマエル
 今日は井戸にまつわる二つのお話をお読みしました。一つは、ハガルとイシュマエルが見いだした井戸の話です。もう一つは、アブラハムがペリシテ人の王アビメレクと契約をした誓いの井戸です。二つの話はそんなに関係のある話ではありませんが、どちらの話にもたいへん意味のある井戸の話となっています。

 アブラハムは妻サラとの間に子供が生まれなかったので、女奴隷ハガルとの間にイシュマエルをもうけました。ところが、サラにやっとイサクが生まれます。アブラハムは喜びました。けれども、イサク誕生によって新たな問題が生まれます。サラは奴隷の出であるハガルをさげすみ、イシュマエルは幼いイサクをいじめたのです。

 最初、アブラハムはサラとハガルも、イサクとイシュマエルも、みんなが家族として平和にやっていければ良いと思いました。しかし、そうはいきませんでした。アブラハムは苦しみ抜いた末、とうとうハガルとイシュマエルを家から追い出すにしたのです。それはサラがアブラハムに強く訴えたことでもあったからです。

 しかし、アブラハムが最終的に決断したのは、神様が「サラの願い通りにしなさい。そしてハガルとイシュマエルのことは私に任せよ」と仰ってくださったからだということも付け加えておきましょう。先週は、このようなことについてお話ししたのです。

 今日は、追い出されたハガルとイシュマエルがどうなったのかということです。親子はアブラハムから受け取った限りあるパンと水を頼りに、宛てもなく荒れ野をさまよっていました。しかし、ついにパンもなくなり、水もなくなってしまいます。

 まず力つきたのは子供でありました。母ハガルは息も絶え絶えになったイシュマエルに一切れのパンも与えることができず、一杯の水も与えてやることができません。もちろん、彼女は最後まであきらめずに望みを持とうとしたでしょう。力弱った我が子を励まし続け、必死になって荒れ野に水を求め、食べられるものを探したに違いないと思うのです。

 しかし、とうとう彼女も力尽き、望みが消えかかってしまいます。もう、愛するわが子を慰める言葉も、励ます言葉もなくなってしまうのです。ハガルはぐったりしたイシュマエルをぎゅっと抱きしめました。食べ物も、飲み物も、慰めや励ましの言葉も与えることができないということは、母親にとってどんなにか耐え難い苦痛であったでしょうか。

 こうして手をこまねいているうちに、子供の命はどんどん細くなっていきます。これ以上我が子の苦しみを見ていられないと思ったのでしょう。ハガルは、イシュマエルを一本の灌木の下にそっと寝かせます。そして、100メートルぐらい離れたところまで行き、子供の方を向いて座り込みました。そこでハガルは、ワッと声を出して泣き出したのです。

 これは聖書の中でもっとも切ない話であります。私もここを読むたびに胸が締め付けられる思いがします。奴隷であるが故にアブラハムの子を産ませられ、奴隷であるが故に邪魔になったら捨てられてしまう。そして、飢えて死のうとしている子供にパンを食べさせることも、水を飲ませることもできなくなってしまう。なんと切なく、そしてひどい話でしょうか。感情移入して読めば読むほどいたたまれない思いがし、この親子をこれほどまで苦しめているものに対して義憤さえ覚えるのです。
神は子どもの泣き声を聞かれた
 人からも、自然からも、運命からも、すべてのものから見放されたかのように見える、このハガルとイシュマエルの親子の悲しみを、ただひとりお聞きくださっているお方がいまいた。決して見捨て給うことなく、この親子をじっと見守り続けてくださっているお方がありました。17-18節を読んでみましょう。

「神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。『ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。』」
 
 「神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた」 感謝をいたしましょう。神様が聞いてくださるのは、立派な祈りの言葉だけではないのです。アブラハムのように神に選ばれた人の祈りだけではないのです。

 「神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた」 イシュマエルにはまだ泣くだけの力があったのでしょうか。もしからしたら泣き声にもならないような声で泣いていたのかもしれません。けれども、そのか弱い声を、声にならない呻き声を、神様はしっかりと聞き取ってくださっていたのです。そして、親子が何故泣いているのか、そのことまでも聞き取ってくださっていたのです。

 「神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた」 ですから、私たちは世から見向きもされない無きに等しい者になったとしても、たとえこの世の戦いに敗れ、どん底に転落したような敗北者になったとしても、私たちを神の子らとして愛してくださるお方がいるということを忘れないようにしましょう。そして、私たちの祈りに、叫びに、呻きに、真剣に耳を傾け、私たちを憐れみ、助けてくださるお方がいるのです。この世にいなくても、天にいらっしゃるのです。
抱きしめてやりなさい
 みなさん、ちょっと自分が神様になったと想像していただきたいと思うのです。みなさんが神様であって、この親子を見、子供の泣き声を聞かれたら、まず何をするでしょうか。岩から水をわき上がらせ、石をパンにかえて、蛇を魚にかえて、この親子に与えるでしょうか。それが神様のなさるべき救いだと、私たちは思っているかも知れません。

 しかし、真の神様は違います。神様は、子供の泣き声を聞かれたとき、まっさきに母であるハガルにこう言いました。「あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい」人はパンだけで生きるのではないのです。

 そもそもイシュマエルは何を泣いていたのでしょうか。「水が飲みたい」「パンが食べたい」と泣いていたのでしょうか。母親にはそのように聞こえたかもしれません。しかし、神様はこの子がなぜ泣いているのか、その本当の意味を知っていました。彼は「お母さん、そばにいて僕を抱きしめてくれ」と泣いていたのです。神はその泣き声をお聞きになりました。ですから、ハガルに、あの子のそばに行って、あの子をあなたの腕でしっかり抱きしめてやりなさいと言われたのです。

 みなさん、神様は私たちの真の必要を知ってくださるお方です。「あれがほしい」「これがほしい」と私たちは願うことでありましょう。しかし、神様はそのような言葉ではなく祈りを、つまり魂の奥底にある私たちの真の願いをお聞きくださるのです。そして、それをお与えてくださいます。
希望を与える井戸
 さて、井戸の話であります。19節にこうあります。

 「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸をみつけた。彼女は行って革袋に水をみたし、子供に飲ませた」

 「神がハガルの目を開かれた」とはどういうことでしょうか。井戸があったのに、ハガルの目が閉ざされていて見えなかったということではないでしょうか。みなさん、なんとハガルは荒れ野を彷徨い、井戸のすぐそばに来ていたのであります。しかし、それを見いだす寸前で、彼女は絶望してしまいました。あと一度だけ、希望を持って井戸を探せばそれを見いだせたのです。しかし、彼女は一歩手前まで来ていながら、探すのをやめてしまったのです。

 イシュマエルには愛が必要だったともうしました。ハガルには希望が必要だったのです。みなさん、私たちも、もししたら、必要なものはあれやこれやではなく、希望なのかもしれません。よく「真っ暗闇だ」ともうしますが、絶望は私たちの目を閉ざし、何もかも見えなくしてしまうのです。そこに神の愛や救いがないから絶望するのではありません。絶望をしてしまうから、たとえ自分の目の前に神の恵み、神の愛、神の救いがあっても、それを見ることができくなってしまうのです。

「神がハガルの目を開かれた」 それは、そのような絶望する者の暗闇に、神様が一筋の光を、希望を与えてくださったということなのです。神様は、どのように希望を与えられるのでしょうか。それは御言葉によってです。神の言葉を聞くことによって、ハガルの信仰が目覚めました。そして、神の恵みと救いを見る目が開けたのです。

 信仰とはなんでしょうか。聖書にこのように書かれています。信仰とは「望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と。つまり、信仰とは希望を持つことなのです。しかし、神様に望みをかけることなのです。この世に望みをかけていればいずれ失望します。自分の力に望みをかけていても、いずれ失望します。しかし、神に望みをかける信仰は、決して失望に終わることはないのです。

 今日は、「汝は園の泉、活ける水の井戸」という説教題をつけました。これは、旧約聖書『雅歌』4章5節の御言葉です。神様の声を聞いて、ハガルの目が開けたとき、彼女が見いだしたのは「汝は園の泉、活ける水の井戸」ということではなかったでしょうか。神様ご自身が、私の泉であり、活ける水の井戸であるということではなかったでしょうか。

 井戸を見いだした彼女は、空の革袋で井戸から水をくみ取り、イシュマエルのところに行ってそれを飲ませ、愛するわが子を抱きしめました。空の革袋は、信仰の象徴です。ハガルは信仰をもって、神様ご自身から命の水を汲みとったのです。

 信仰と希望と愛、この三つのものが、このハガルとイシュマエルの物語で語れられているのは偶然ではありません。信仰が希望を生み、希望が愛を生むのです。その最初にあるのが、「汝は園の泉、活ける水の井戸」ということを知ることにあるのです。
もう一つの井戸の話
 さて、もう一つの井戸の話があります。シチュエーションはまったく違うのですが、やはり井戸の話なのです。

 アブラハムはペリシテ人の国に寄留者として滞在していたのですが、そこにペリシテ人の王と軍隊長の長ピコルが訪ねてきました。そして、友好条約を結ぼうと持ちかけたのです。アブラハムはこれを承知し、友好条約のしるしとして、羊と牛の群を贈りました。

 その時に、アブラハムは、かつてアビメレクの部下たちに井戸を奪われたことがあることをうち明けました。そして、その贈り物の家畜の中から特別に七匹の雌の小羊を選り分け、それを「この井戸がアブラハムのものである」という証拠として受け取ってほしいと言ったのです。このことから、この井戸は、ベエル・シェバ(ベエルは井戸、シェバは七の意味)と呼ばれるようになったという話です。

 今日お話ししたいのは、このお話しの最後の部分です。32-34節を読んでみましょう。

 「二人はベエル・シェバで契約を結び、アビメレクと、その軍隊の長ピコルはペリシテの国に帰って行った。アブラハムは、ベエル・シェバに一本のぎょりゅうの木を植え、永遠の神、主の御名を呼んだ。アブラハムは、長い間、ペリシテの国に寄留した。」

 難しいことはここでお話をしません。ただ一つ、「アブラハムは主の御名を誉め称えつつ、井戸のそばに住んだ」ということに注目しましょう。ハガルとイシュマエルは、「汝は園の泉、活ける水の井戸」と、神こそ信仰と希望と愛の源なる命の井戸であることを見いだしました。そして、アブラハムは「汝は園の泉、活ける水の井戸」と主の御名を呼びつつ、井戸のそばに住んだというのであります。みなさん、私たちも命の水のわき上がる井戸のそばに住もうではありませんか。

 井戸といえば、イエス様が旅の途中、お疲れになって井戸のそばに腰をおろしておられたという話があります。ちょうどそこにサマリア人の女性が水を汲みにやってきましたので、汲むものをもっていなかったイエス様は「水を飲ませてください」と頼みます。

 ところが、この女性はそれを断ります。そこでイエス様は「もし、あなたが、わたしが誰かであるかを知っていたならば、むしろあなたから『私に水を飲ませてください』と頼んだであろう」「この井戸の水を飲むものは、誰でもまた渇き、ここに汲みに来なくてはならない。しかし、わたしが与える水を飲むものは、決して渇くことがない。なぜなら、わたしが与える水はその人のうちで泉となり、そこから命の水がこんこんとわきあがるからだ」と言われるのです。それを聞いたサマリア人の女性は、「そんな水があるなら、その水をわたしにください」と言うのです。

 みなさん、私たちは、命の井戸を見失ってはどん底に落ち、それでも神様が恵み深くあって私たちを命の井戸へと導いてくださったという素晴らしい経験をしてきたかもしれません。しかし、もっと素晴らしい信仰生活の祝福は、私たちはいつも命の井戸のそばに住むことができるということにあるのです。

 「主よ、渇くことがないように、その水をください」という祈りをもって、また「汝は園の泉、活ける水の井戸」という信仰を持って、井戸のそばに住みましょう。イエス様こそ、私たちの命の井戸なのです。
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