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よく幸せを「無事」ということがあります。私たちは決して人生に過ぎた期待をしているわけではありません。ただ無事であってほしいと願うのです。いや、もっと慎ましい願いであるかもしれません。「何事もない人生」などと贅沢なことは願いません。しかし、人生の多くの試練があるとしても、これだけは勘弁して欲しい、これだけは無事であって欲しい、そのような願い、祈りをもって暮らしているのです。
ところが、神様がアブラハムに与えた試練というのは、まさにそのような「これだけは勘弁して欲しい」というアブラハムの最大の急所をつくものでありました。2節を読んでみましょう。
「神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』」
つまり試練は、愛児イサクに関わることだったのです。これは容赦のない試練でありました。アブラハムにとっては、「イサクのためにあなたの命を捨てよ」と言われた方がまだたやすい試練だったのではないかと思います。しかし、神様は「あなたの愛する独り子イサクを、焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と、命じられたのです。
容赦ない試練を受けた人と言えば、旧約聖書にヨブという人物がいます。彼は信仰深く、正しい生活をしており、それゆえに神様に祝福され、多くの財産を持ち、子宝にも恵まれ、七人の息子と三人の娘がおりました。ところが、神様の御手によってそのすべてが奪われてしまうのです。ヨブは、すべての財産を失い、すべての子供たちを失いました。さらにはヨブ自身も頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかかって苦しむようになります。灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしっているヨブを見て、妻は夫に「神様を呪って死んだほうがましでしょう」と言います。しかし、ヨブは「愚かなことを言うのではない。神様から幸福をもいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」と言ったというのです。
このヨブの試練、そしてそれに耐える信仰も本当に凄まじいものだったと思います。しかし、ヨブのように愛する子を、財産を、健康を、神様に奪われた人たちは、今も、そして私たちの中にも実際におります。私は、そのような大きな試練の中にも、必ず神様の愛に根ざした御心があり、また試練を経た者に対する神様の大きな祝福があることを、そう方々の証しとして聞くことをお聞きすることができますし、また自分自身それを信じようとも思うのです。
けれども、正直言って、わたしはアブラハムのような試練があるということを認めたくありません。ヨブは愛する子供たちを神の御手によって奪われたのです。それに対して、アブラハムは自分の手で愛する独り子の喉をかき切って殺し、神に捧げよと言われたのでした。私たちが信じている神様は、このようなことを命じ給う神様ではない。もし、そんなことを私に命じる神様であるならば、神様を信じて生きていくことなどできない、そう思ってしまうのです。
しかし、それでもなお、これが神様の与え給う試練であるという立場に立つならば、これは最大にして極限にある試練だと言わざるを得ないでありましょう。 |
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この「アブラハムのイサク奉献」という物語を読みまして、おそらく皆さんも感じるであろう疑問を、わたしも感じております。それはいくつもあります。一つは、「神様は、なぜこのような試練をアブラハムに与えられるのか」ということです。二つ目は、「これは、クリスチャンのすべてが受けなければならない試練なのか」、三つ目は、「なぜ、アブラハムはこのような試練に従うことができたのか」ということです。そして、最後は、「私たちもこのような試練に耐え得るのか」ということです。
本当に、「なぜ?」が尽きないこの話です。けれども、私たちの人生には、「それは神様の領域として決して知り得ない」ということが幾つもあるのではないでしょうか。そういう時、私たちに与えられている唯一の答えは「神様は知っておられる」ということだけなのかもしれません。
この話もそうです。この話は神様によって始まり、神様によって終わっています。1節に「神はアブラハムを試された」とあります。そして、神様がアブラハムを呼ばれ、神様がアブラハムにこのことを命じたというのです。3節には、アブラハムは、朝早くおき、イサクを連れて、神様が命じられた場所に向かっていったと書かれています。そして、9節では、神様が命じられた場所に着くと、そこでイサクを神に捧げようとしたとあるのです。
「神が」ということ、これが大切なことではありませんでしょうか。この最大にして、極限の試練を終始支配しておられるのは神様なのです。この試練の物語において、それだけが私たちに知り得ることなのです。
アブラハム自身、それ以上でも、それ以下でもない思いをもって、この試練を受けているのだと思います。6-8節にあるアブラハムとイサクの親子の会話には、胸にぐっとくるものがあります。イサクが「お父さん」と呼びかけます。アブラハムは「ここにいる」と答えて、わが子を顧みます。するとイサクは何の疑いもない気持ちで、「お父さん、火と薪はここにありますが、献げ物にする小羊はどこですか」と聞くのです。アブラハムはおそらくイサクの頭をなでながら、「それはきっと神が備えてくださる」と言ったのです。
このアブラハムの答えには重みがあります。きっとアブラハムの思いはこうでありましょう。「神様がこのことをしておられる。それ以上のことは何も分からない。しかし、神様がこのことをしておられるからには、私が知りたくても知り得ない事柄についても、神様にはちゃんと備えがあり、ちゃんと答えがあるに違いない」そんな思いをもって、アブラハムはイサクに「きっと神様が備えてくださる」と答えているのであります。
この話は、アブラハムのこの信仰に答えるかのように、「主の山に備えあり」という結末を迎えます。まさにアブラハムがイサクに手をかけようとしたとき、神様は「その子に手をかけてはならない。あなたが神を畏れる者であることが十分にわかった」とアブラハムを止めるのです。
そして、アブラハムが目を凝らしてみると、そこに一匹の雄羊がいました。アブラハムは、それをとって、イサクの代わりに神にささげます。そして、その場所を「ヤーゥエ・イルエ」すなわち「主の山に備えあり」と呼んだというのです。
主の山に備えあり。私たちが何も知り得ないくても、神様に従う道には必ず神様ご自身の備えがあるということなのです。だから、「なぜ」と問うことをやめ、「主の山に備えあり」ということをどこまでも信じなさい。神様のお言葉にはすべて意味があり、備えがあると信じなさい。神様が上れという山に登り、下れというなら谷に下りなさい。そして、それが私たちの神様に従う人生なのですと、これが、この最大の試練に対する私たちのすべての「なぜ」に対する答えなのではありませんでしょうか。
私たちの人生には、いくら聖書を読んでも、いくら祈っても、答えが見つからないことがあるのです。なぜ、愛の神がこのようなことをなさるのか。なぜこのような目に遭うのか。何も悪いことはしていないのに! なんて酷い神だろう。なんて途方もない神だろう。本当にこれが神のなさることなのか。このように思うことがあります。そして、だから神様なんか信じられないという人も世の中にはありましょう。
しかし、神様に愛されている子らは、そのような時にもなお「この試練の中に神様がおられる」ということに望みを持つのです。「きっと神様が備えてくださる」という信仰をもって、その試練の中を歩むのです。「主の山に備えあり」ただこれだけを信じて、「アーメン」と試練を受け入れるのです。これが、アブラハムがイサクに、そして信仰によるすべての子らに残してくれた神に従う道なのです。 |
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ところで、アブラハムの受けた試練は、ヨブの試練にも勝る極限の試練であるということをお話ししました。しかし、さらにこのアブラハムの試練にも勝る物語が、歴史の中にただ一つだけあります。それが、イエス・キリストの十字架でありました。
アブラハムのイサク奉献とイエス・キリストの十字架はおどろくほど一致しています。たとえば、アブラハムはイサクの他に二人の若者を連れて、神様が命じられた山の麓までやってきました。すると、アブラハムは二人の若者に「お前たちはここで待っていなさい。わたしと息子はあそこにいって礼拝をしてくる」と言います。イエス様も十字架におかかりになる前夜、オリーブ山の麓にあるゲッセマネの園に行かれます。そして、弟子たちに「わたしが向こうに行って祈っている間、お前たちはここで待っていなさい」と言われたのです。
また、イサクは、自ら薪を背負って祭壇に向かいました。そして、イエス様はご自分の十字架を背負って悲しみの道を歩まれたのです。そして、イサクは何の抵抗もせずに縛られ、祭壇の上に寝かされました。イエス様もまた、決して自分を救おうとはなさらず、無抵抗で十字架におかかりになります。
この二つの事件は、ただ一つの点を別にすれば、つまりアブラハムの独り子イサクは救われ、神の独り子イエス・キリストは実際に十字架にかかって殺されたという点を別にすれば、細かい点にいたるまで見事に符合しているのです。アブラハムは、ある地点まで、御子を十字架にかけらえた神様の悲しみ、苦しみを共にしたのでありました。アブラハムは神様のために独り子をも惜しまない信仰を示し、神様はアブラハムの子らのために独り子をも惜しまない愛を示してくださいました。今日お読みしましたヤコブ書には、このことにゆえに、アブラハムについて「彼は神の友と呼ばれたのです」と言っています。
試練を通して、神の友となる。素晴らしいことではありませんか。今日、みなさんに荒川教会の会報『うたごえ』をお配りしました。その中に渡辺さんの証しと、宮下さんの証しを掲載させていただきました。お二人の経験はまったく違うことでありますけれども、お二人とも「試練を通して、神の友となる」ということを証しておられます。
先日、天国に召されました冨沢万吉さんもそうです。孝子さんを天国に送るという試練を通して洗礼を受け、神の友となり、平安な二年間をお過ごしになって天国に帰られました。みなさん、私たちは、アブラハムの試練の中にイエス様の十字架の御姿を見いだすことができるように、どのような試練の中にも、そこにイエス様の御姿を見ることができます。「ああ、イエス様もこんな痛さを味わって十字架にかかられたのだ」「ああ、イエス様もこんな悩みをもって人のために祈られたのだ」と、私たちは試練を通して、イエス様の苦しみの中に現されている神様の愛に気づくのです。そして、私たちは、試練を通して神の友となるのです。
みなさん、今日はアブラハムのイサク奉献のお話から、二つのことをお話しさせていただきました。一つは、神様は、時に私たちにとんでもない試練をお与えになることであります。私たちにはとうてい理解することができないような試練であります。しかし、たとえ神の御心を知り得なくても、神様の方ではすべての答えをもっておられるのです。ですから、「きっと神が備えてくださる」「主の山に備えあり」との信仰をもって、試練を堪え忍び、神を待ち望む者になりたいと願います。
そして、もう一つは、試練を通して神の友となることです。ヘブライ書には、イエス様は「あらゆる点において、私と同様に試練に遭われた」といっています。その試練の中で「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら祈った」と言われています。私たちは、私たちが受けるどのような試練の中にも、イエス様を見いだすことができるのです。その試練によってイエス様に近づき、イエス様から溢れてくる神様の愛を知るのです。
「主の山に備えあり」という信仰と、「彼は神の友と称えられたり」との神の約束を心にしっかりと持ち、どのような試練にも神様を信じて堪え忍び、神を待ち望みましょう。神様は必ず備えていてくださるのです。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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