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創世記24章は、アブラハムがイサクのお嫁さんを捜すという話です。先週その前半部分をお話ししましたので、今日はその後半のお話しになりますが、最初に、少し復習とをしておきたいと思います。
神様を求める旅に出てからというもの、アブラハムは波瀾に満ちた人生を送って参りました。しかし、晩年のアブラハムはいたって平和であったと言われております。それでも、ただ一つ気がかりなことがあったのです。独り息子イサクの結婚問題でありました。
アブラハムは、神様にも自分にも忠実で信頼できる僕を呼び、独り息子イサクのお嫁さん探しを依頼することにしました。しかし、誰でも良いというのではなく、アブラハムはイサクのお嫁さんが探すにあたって、二つの条件を出したのです。一つは、自分の故郷に行って、同族の者からお嫁さんを捜して欲しいということです。そして、もう一つは、イサクをそちらに連れて行くのではなく、お嫁さんをこちらに連れてきて欲しいということでした。
これは決して易しい条件ではありませんでした。しかし、アブラハムは、「この条件は神様を信じる信仰から出たことだから、神様が必ずあなたを助けてくださる」と僕を励まし、イサクのお嫁さん探しのために送り出したのです。
アブラハムの僕は、400キロも離れたアブラハムの故郷に向かって出発し、約一ヶ月ほどかかって目的地にたどり着きました。辿り着くには着いたけれども、いったいどうやってお嫁さんを見つけだすのか、彼はらくだを町はずれの井戸の傍らに休ませ、神様に祈りました。
「わたしは、この井戸で水を汲みに来た娘たちを待ちます。そして、誰か来たならば『水を飲ませてください』と頼んでみましょう。その時、『どうぞお飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と言ってくれる心の優しい娘がおりましたら、どうぞその女性こそあなたがイサクのお嫁さんにお決めになった人にさせてください」
これはなかなかの名案だと思います。何の当てもない土地で、どうやってイサクの心に適うお嫁さんを捜すのか。まったく雲をつかむような話です。彼は一ヶ月の旅路の間、そのことばかりを考えてきたのではないでしょうか。そして、彼はこの名案を思いついたのです。井戸に来る娘たちに声をかけて、旅人に親切で、しかも動物に対してまでも労りの心がある女性を見つけだそうというわけです。
けれども、この僕が偉かったのは、自分のアイデアに頼るのではなく、神に祈ったということです。どんなに素晴らしいアイデアでも、神様の祝福が得られなければ何にもならないということをちゃんとわきまえていたわけです。 |
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さて、今日の話は15節からです。
「僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水瓶を肩に載せてやってきた。彼女は、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘で、際立って美しく、男を知らない処女であった」
僕の祈りが終わるか終わらないかのうちに、一人の娘が水瓶を方に載せて井戸にやってきました。僕はたった今祈っていたことを、この娘に試しましす。水を汲んできたその娘に、「どうぞ水を飲ませてください」と声をかけたのです。すると、娘は「どうぞ、お飲みください」といい、水瓶をおろしてすぐに彼に飲ませてくれました。それから「らくだにも水をくんできて、たっぷり飲ませてあげましょう」と、すぐに井戸に水を汲みにいってくれたのです。
うまい話です。みなさんも、できすぎている話だとお思いになりませんか。けれども、祈る人ならばおわかりだと思うのですが、神様がお働きになる時にはこのように実に不思議な巡り合わせというものが起こりうるものなのです。
たとえば、ついこの前話したばかりですが、荒川教会の墓地を購入する時がそうでした。私と役員の方々は荒川教会の墓地としてたいへん良い候補地を見つけました。しかし、教会にお金はないし、募金をするにしても教会員がそもそも教会に墓地が必要だという祈りさえ起こっていなかったのでした。私は墓地を買うのは不可能だと思いました。一年ぐらいかけて墓地の必要性を訴え、少しずつ献金をすることから始めなければならないと思ったのです。
ところが、神様はその日、荒川教会に不思議なことをなさいまして、一日にして教会員が墓地を祈り求め、そのために喜んで献金しようとする者に変えられたのです。というのは、その日、荒川教会の創立者である勝野和歌子先生が天に召されたのでした。偶然にしてはできすぎの話なのです。
荒川教会でもう一つ忘れられないのは、軽井沢に一泊の修養会に行った時のことです。ちょうど出発の日、日本縦断する大型の台風がやってきて、出発を見合わせようかと思い悩んでおりました。案の定、途中で高速道路が通行止めになり、どこのインターだったか忘れましたが高速から降りる車でたいへんな渋滞になったのです。ところが、私たち荒川教会の車も高速を降りようとしたその直前で、通行止めが解除されました。そして、軽井沢に到着しますと、ちょうど台風の目に入っていたのでしょうか、日本中が台風で大騒ぎしているとは思えないような青空が私たちを迎えてくれたのでした。これも偶然にしてはできすぎた話なのです。
もう一つ、これも何度かお話していることですが、私が神学校時代に教会に行く交通費がないほどお金にこまった時があります。金曜日の夜、私は一万五千円が必要ですと祈りました。すると、翌日の土曜日、母教会から一万円が送られてきました。そして、日曜日、やはり教会に行くと、ある方から五千円を戴いたのです。まことに不思議な話ですけれども、神様に祈る人は、誰でもそういう経験をするのです。
先日、小学三年生の息子と一緒に風呂に入っていますと、彼は人差し指を湯船の壁面に突きつけ、「お父さん、この指はこの壁を突き抜けると思うか?」と聞くのです。私はナゾナゾかと思いましたが、ちょっと分からなかったので、「そんなことはあり得ないと思うよ」と正直に答えました。すると、彼は得意げにこう言いました。「お父さん、この宇宙って言うのはね、何にもないところから偶々出来たんだってさ。何にもないところから、宇宙が出来るなんて確立はほとんどゼロに近いんだけど、ゼロじゃあないんだ。でも、本当にあり得ないことなんだけれども、確立がゼロではないから、たまたまこの宇宙ができたんだって、本に書いてあったんだよ。だから、この指も、壁を通るなんてことは普通は絶対にあり得ないんだけれども、もしかしたら、たまたまそういう事が起こることもあるかもしれない。」
ずいぶん論理的なことを言うようになったなと思いましたが、私はこう答えました。「そうか、お父さんもそういう話を聞いたことはあるけれども、この宇宙は神様がお造りになったんだから、確立はゼロじゃなくて百だと思うよ」すると、彼は「そういえば、聖書にこうかいてあったと思うよ。イエス様がマリアさんから生まれるとき、天使が『神様にはできないことはありません』と言ったって。だから、神様がするんだったら、確立はゼロじゃなくて百なんだよね」
みなさん、私はしばしば幼子の信仰に学ばされるのですが、偶然だと考えればうますぎる話、できすぎた話であるかもしれません。しかし、偶然ではなく、神様がしてくださることだとすれば、それは当然起こるべくして起こるのであります。ですから、問題はそんなことがあり得るかどうかではありません。神様がそれをしてくださるかどうか、それこそが私たちの問題なのです。
聖書には、神様の御心でないならば一羽の雀ですら地に落ちることはないと言われています。そして、神様がなさることならば、どんなことでも起こりうるのだと言われているのです。21節をごらんください。
「その間、僕は主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた」
私は、この御言葉をたいへん印象深く読むのです。私たちは身の回りに起こることを見て一喜一憂します。ちょっとうまくいけば有頂天になるし、ちょっとうまくいかないとすぐにがっかりしてしまう。しかし、この僕は、あくまでも冷静に、今経験していることの中で、主が何をなさろうとしているのかを見つめようとしていたというのです。
そこに「黙って」という言葉があるのです。自分がどう思うか、どうして欲しいのかというはやる気持ちを押さえて、神様がなさることを見ようとしていることの現れが、この「黙って」という言葉ではないでしょうか。何かがうまくいっている時にも、有頂天になるのではなく、黙って神様がなさることを見つめるということをしないと、せっかくの神様の働きを自分の愚かな言動によって台無しにしてしまうことがあるのです。
逆に、どんな大変な辛い状況にあっても、恐れや不安を鎮めて、黙って「神様が何をなさろうとしておられるのか」ということを見つめようとするならば、そこに救いの道が開けてきます。
昔、イスラエルの民が迫り来るエジプト軍と目の前の海に挟まれて絶望の叫びを挙げたとき、モーセはこう言いました。「黙って、今日、あなたがたのためになされる神の救いを見なさい」と。私たちは良くも悪くも感情に揺り動かされ、「何かをしなくては」という思いにかられますが、自分の思いや行動をあえて鎮めて、神様の御業に目を注ぐということが大切であることを、この僕の姿から学びたいと思います。 |
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さて、アブラハムの僕は、らくだにまで水を飲ませてくれたこの娘こそイサクの妻となる人だと分かり、「あたなはどなたの娘さんですか」と聞きます。すると、なんと彼女はアブラハムの弟ナホルの孫娘リベカであったのです。僕は神様の配剤を知り、思わずひざまずいて主に祈ります。
「主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、わたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどり着かせてくださいました」
本当に神様は私たちの旅路を導き、旅の目的を叶えさせてくださるお方です。
しもべはリベカの家に泊めてもらうことになりました。まずリベカが先に家に帰り、井戸であった出来事を話します。すると、リベカの兄ラバンが井戸に来まして、その人物の人となりを確かめた上で、改めて家に招待をいたしました。
リベカの家で僕はたいへんな歓迎を受けることになりますが、この僕は食事をする前に大切な用件をすませなくてはならないと考え、自分がどのような目的をもって旅をしてきたのかということを事細かに話し始めるのです。そして、最後に、リベカの父ベトエルと、兄ラバンに、リベカを主人アブラハムの一人息子イサクの嫁にもらいたいと申し出たのでした。すると、ベトエルとラバンは、「このことは主のご意志ですから、私どもが善し悪しを申すことはできません。どうぞ、リベカをお連れください」と返事をしたのでした。
私は、このような返事を引き出したのは、この僕が終始、神様がこのことを為しておられる、これは神様のお働きなのだという信仰を、ベトエルとラバンに大胆に証をしたからだと思うのです。決して、自分の信仰を押しつけているわけではありませんが、それはこちらの信仰の問題だから、この人たちに言っても分からないだろうなど言う曖昧な態度は取らなかったのです。
自分の信じることに誇りをもって、この旅は神様がお導きくださったことであり、この旅の目的は神様が叶えてくださることだということをありまままに話すのです。だから、ベトエルとラバンも、神様の御霊の働きを受けて、「これは主のご意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません」と言わざるを得なかったのではないでしょうか。
先ほどのお話ししました荒川教会の創立者である勝野和歌子先生が、この教会の土地を買うときのエピソードがあります。お金がない先生は、地主に「一部を買い取り、残りは一年後に買い取る」と話しました。すると、地主は道路に面していない奥の土地なら良いでしょうと答えました。もし、道路に面した土地を売って、残りを買ってもらえなかったら、残った土地の価値は下がってしまいますから、これは当然のことでした。ところが、勝野先生は、「ここは神様にお捧げする土地です。最初に一番良い土地をささげなければ祝福されません」と、地主に言ったそうです。地主はクリスチャンでも何でもありませんけれども、勝野先生の心意気に打たれたともうしましょうか、勝野先生の求めるようにしてくださったというのです。これも勝野先生が大胆に自分の信仰を証した結果だったのです。
さて、話が決まると、この僕は一晩は泊めてもらうつもりでしたが、翌朝にはすぐに主人アブラハムのもとに帰りたいと思っていました。しかし、リベカの兄や母は、そんな急な話では心の準備ができないから、十日ほど余裕をくださいと言うのでした。これはもっともな話です。そこで、リベカ本人に決めてもらいましょうということになりました。果たして、リベカを「この僕についてイサクのもとに参ります」と答えます。主が事をなさろうとし、僕がそれに従おうとするならば、誰もそれに逆らうことはできないのです。こうして、しもべはリベカを連れて、アブラハムとイサクのもとに帰ったのでした。 |
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今日は少し話が長くなりましたが、勘弁してください。もう一つだけお話をしたいと思います。62節を見ますと、イサクが夕暮れの野原を散策をしていたとあります。すると、向こうからしもべがリベカを連れて帰ってくるのを見つけました。リベカの方も、野原を散策しているイサクを見つけます。リベカは、「私たちを迎えにやってくるあの人はだれですか」と僕に聞きました。すると、「あの方がわたしたちの主人です」という返事が返ってきました。リベカはあわててベールをかぶり、イサクを迎えます。こうして、イサクはリベカを迎え、妻とし、愛し、亡くなった母に代わる慰めを得たと言われているのです。
ここで私が気づかされることは、イサクはリベカによって母を亡くした悲しみから慰められたとありますが、それはリベカに愛されたからとは書いてありません。「イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」というのです。もちろん、リベカはイサクを愛したでありましょう。しかし、イサクが慰めを得たのは、自分を愛してくれる人を見つけたからではなく、自分が本当に愛する人を見つけたからだと言われているのです。そして、それは神様がイサクに与えてくださった人だったというのが、この長い物語の結末なのです。
ヘッセの短編に「アウグストゥス」という話があります。アウグストゥスが生まれたとき、母親は不思議な老人に出会い、一つだけ願いを聞き入れてあげようと言われます。お母さんは、この子のために何が一番必要かを考え、「この子が誰からも愛されますように」と願いをかけたのでした。
果たして、アウグストゥスは誰からも愛される人間になりました。誰からも愛されるということに飽きてしまい、人を愛することができない人間になってしまうのです。彼は深い孤独に陥ります。そして、ついには人を避けて、自殺をしようとするのです。
ところが、そこにまた不思議な老人が現れまして、今度はアウグストゥスを助けようとして、一つだけ願いを叶えてあげようというのです。彼は、「自分の魔法を解いて、人を愛させる人間にしてください」と願います。ところが、その願いが適うと彼は誰に顧みられない乞食になりはててしまうのでした。
しかし、道ばたで自分を無視して通り過ぎていく人々をみながら、その人々をひとりひとり愛する心で満たされて、満足していたという話です。
愛されることと、愛すること、そのどちらも人間にとって大事なことでありましょう。しかし、愛されることは求めても、愛することを求めない人が多いのではないでしょうか。それゆえに自己憐憫に浸ったり、人に対する不平不満ばかりが募ったりして、愛を求めていながら孤独の中に陥ってしまう人が覆いように思うのです。神様がイサクに愛する心を与え慰めてくださったように、私たちの主から人を愛する心を戴きたいと思います。 |
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(c)共同訳聖書実行委員会
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Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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