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今日お読みしましたところには、アブラハムの晩年と死について語られておりました。今まで創世記をひもときながらアブラハムのお話ししてまいりましたけれども、今日がその最後のお話ということになります。これまでのお話の総括も含めまして、今日与えられた御言葉からいくつかのことをお話しさせていただきたいと思います。
最初に、1-5節でありますけれども、ここにはアブラハムの子供たちが書かれています。アブラハムはサラが死んだ後、ケトラと再婚しまして六人の子供たちを生んだというのです。年齢から考えるとちょっと信じがたい話ですが、当時は一夫多妻ということが平気で行われていましたから、きっとサラが生きているうちにあった結婚の話がここに書いてあるのだろうと説明しています。あるいはそういうことだったのかもしれません。そうだとしても、それはイサクが生まれた後であろうということは確かだと思います。いずれにせよ、アブラハムの子供はイサクだけではなかったということになります。
12-18節には、アブラハムの子であるイシュマエルの子孫について書かれています。これまでご一緒に読んできた方々はおわかりですが、アブラハムは妻サラとの間に子供が生まれないので、ハガルと結婚しイシュマエルを設けたのです。その後で、サラにイサクが生まれました。しかし、サラとハガルも、その子らであるイサクとイシュマエルも、関係がうまくいかないので、アブラハムは悩んだ末、ハガルとイシュマエルに家を出ていってもらうことになるのです。そのイシュマエルの子孫たちが12の部族の長たちとなったということが書かれているのです。
本当のアブラハムの子、アブラハムの子孫とは誰かということが、イエス様の時代、新約聖書でも問題にされておりますけれども、ここを読みますと、実はアブラハムに合計八人の子供たちがいたということが分かるのです。
しかし、その中のイサクだけがアブラハムのもとに残されました。聖書にはこのように書かれています。
「アブラハムは、全財産をイサクに譲った」
イサクだけがアブラハムの子として正当な権利を与えられたというのです。
では、他の子供たちはどうなったのでしょうか。ハガルが生んだイシュマエルは今お話ししたようにイサクが生まれたときに家を追い出されました。そして、ケトラが生んだ六人の子供たちも、争いがあったということは書かれておりませんが、やはり幾らかの贈り物を与えられ、東の方、ケデム地方にに移住させられたと言われているのです。
同じアブラハムから生まれているのにイサクだけが全財産を受け継ぐという話を、みなさんはどう思われるでしょうか。神様がなさることにしては不公平な話、不当な話だと思われませんでしょうか。しかし、ここに、アブラハムの子孫とは誰かということに一つの暗示があると思うのであります。つまり、アブラハムの血筋をひいた者が必ずしもアブラハムの子孫ではなく、アブラハムの遺産を受け継いた者こそ真のアブラハムの子孫であるということであります。 |
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アブラハムの遺産とは何のことでしょうか。アブラハムは何か地位を得た人ではありませんから、地位を残すということはできません。生涯旅人で土地も立派な家も持ちませんでしたから、そのようなものを残すというわけにも行きません。羊や山羊などはたくさんもっていたようでありますけれども、そういうものはきっと贈り物として、他の子供たちにもある程度平等に分け与えられたことでありましょう。そういう誰にでも分け与えられる財産ではなくて、アブラハムがイサクに譲った特別な宝物があったのであります。
それはまことに大きな宝物であります。すなわち、イエス・キリストの来臨をも含んだ神様の約束、これがアブラハムの特別な宝物なのです。アブラハムの物語というのは、この約束を神様から戴くところから始まっています。私たちもその始まりを思い起こして、もう一度創世記12章1節からを読んでみましょう。
「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る』アブラムは、主の言葉に従って旅だった。」
この神様の約束には、祝福という言葉が繰り返されています。祝福とは、神様が賜る幸せのことであります。神様は、アブラハムにこの祝福を賜るだけではなく、あなたの子孫を大いなる神の民とし、その神の民によって全世界にも祝福を賜るという、まことに偉大なる約束を与えてくださったのでした。
そして、「アブラムは主の言葉に従って旅立った」とあります。この約束が、アブラハムの心に新しい光を与え、アブラハムの新しい人生の出発を与えたのです。イエス様は「あなたの心があるところに、あなたの宝もある」と言われましたが、以来、アブラハムは、この約束に希望を持ち、この約束がどんな艱難にも耐えさせる力となり、常にこの約束に真実であろうとすることが彼の生き方の基本になったのであります。
アブラハムだけではありません。この約束がイサクに受け継がれ、イサクからヤコブに受け継がれ、ヤコブからヨセフに受け継がれ、代々いたって14代目にダビデが生まれます。そのダビデから28代目にイエス・キリストがアブラハムの約束の子孫としてお生まれになるのです。
そして、もう一度、このことが明らかにされます。つまり、血筋によるアブラハムの子がアブラハムの子孫ではなく、神様の約束に希望を持ち、この約束に真実であろうとする者こそが、約束の成就であるイエス・キリストの恵みを受けて、まことのアブラハムの子孫、大いなる神の民となるのだということであります。
もう一つ、聖書の興味深いお話をしましょう。この神様の約束の成就について預言しているイザヤ書60章にこういうことが書かれているのです。イザヤ60章6-7節
「らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだがあなたのもとに押し寄せてくる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えてくる。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。ケダルの羊の群はすべて集められ、ネバヨトの雄羊もあなたに用いられ、わたしの祭壇にささげられ、受け入れられる。わたしはわが家の輝きに、輝きを加えられる。」
注目していただきたいのは、ミディアンとエファというのは、創世記25章4節に出てくるケトラによるアブラハムの子孫であります。またケダル、ネバヨトというのは、13節に出てまいりますハガルの子イシュマエルの子孫であります。アブラハムは、一端はこれらの子供らを約束を受け継ぐイサクから引き離し遠ざけたのでありますが、その約束が成就した暁には、彼らは再び一つにされるということが、ここで言われているのです。
それはパレスチナ問題の解決の日が来るという神様の約束でもありましょう。今日の泥沼と化したパレスチナの状況を見ますと、私たちは落胆を禁じ得ません。しかし、神様はその日を約束してくださっています。神様の御心は、私たちがアブラハムのように望み得ないのに望みつつ信じ、神様の約束は真実であるという信仰を拠り所にしてエルサレムの平和のために祈ることなのではないでしょうか。
また、私たちを取り囲む困難な状況というのは、遠いパレスチナにある問題だけではありません。この問題はクリスチャンがぜひとも関心を持って祈って行かなくてはならない問題だと思いますが、私たちの日々の生活の中にも、身の回りの世の中にも、様々な問題が渦巻いているのです。しかし、アブラハムが神様の約束を信じましたように、私たちはイエス様を信じて希望を持ち、義と愛と平和の満ちる神の国を待ち望みたたいと願うのであります。 |
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さて、次にアブラハムの死について語られています。
「アブラハムの生涯は175年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」
ここでは、長寿も神の恵みの一つとして数えられていますが、それは「満ち足りた死」というものがあってこそ言える話でありましょう。生き地獄などという言葉もあるわけで、長く生きているということだけでは恵みだとは言えないのです。
かといってアブラハムの長い人生を顧みてみますと、楽しい、安楽な人生であったかというと決してそんなことはありません。暗中模索のさすらいの人生、試行錯誤の悩みに満ちた人生、望みは消えゆくようなことを幾つも経験しながら、10年、20年、25年と待ち望む人生であったのです。
このようなアブラハムの人生を支えたのが、神様の御言葉とそれを信じる信仰でありました。アブラハムは祈りによってすべての悩みを神様に語りかけ、祈りによって神様の御言葉、導きを受け取り、神様を信じる信仰を支えとしてさすらいの人生を歩んできたのであります。
しかし、「アブラハムは満ち足りて死に」という言葉は、信仰は単なる苦しい時の精神的な支えではなく、その苦しみに豊かな実りをもたらすものであったということを物語っているのではありませんでしょうか。「私の父は農夫である」と、イエス様は言われました。そして、それゆえに天の父は、私たちをこの地にお植えになるだけではなく、また私たちの上に恵みの雨を降らせ、暖かい太陽を昇らせてくださるだけではなく、豊かに実を結ばせるために余分な枝を剪定なさるというのです。このような神様の剪定ばさみを、私たちが信仰をもって受け入れ、耐えていくということによって、私たちは実を豊かに結ぶ木とされるのであります。 |
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最後に、「アブラハムは死んでその先祖の列に加えられた」ということについてお話ししましょう。「死んで先祖の列に加えられる」という表現は、聖書の一つの希望を語っていると思うのです。いくらこの地上で満ち足りても、死んだ先でひとりぼっちであるならば、私はやはり死ぬの恐いし、嫌なのです。けれども、死んで先祖の列に加えられたというのでありましたら、死んだ先に大勢の人々が自分を待っている、その民の中に自分を加えられるのだとしたら、死というのは少しも暗く寂しい感じはしないのです。
ところで「先祖」とはなんでしょうか。日本では「ご先祖様」などと守り神のように言ったりしますが、先祖というのは広い意味で自分を生み出してくれた人々だと思うのです。血のつながりはもちろんのことでありましょうが、そればかりではなくいろいろな意味で自分を教え導いてくれた先生や、霊的に私を生み出してくれた信仰の先達たち、兄弟姉妹たちがおります。そのような自分を生みだし、見守ってくれた人々の愛の中に帰っていくことが、先祖の列に加えられるということではないでしょうか。
また、それが天国に行くということだと思うのです。その天国の中でも、別格なお方として輝いているのは私たちに霊的な命の与えてくださるイエス様でありましょう。そういう人たちが天国で私たちを愛し、迎えてくださる。それが天国に対する信仰なのです。
今朝は、アブラハムの子供たちの話から、神様がアブラハムに与えられた約束を受け継ぎ、そこに望みをかけて生きる者こそまことのアブラハムの子孫であるというお話をしました。そして、またアブラハムが先祖の列に加えられたという話から、アブラハムが私たちの信仰の父、霊的な父であることを覚えたいと思うのであります。イザヤ書51章1-2節にこのような御言葉があります。
「あなたたちが切り出されて来た元の岩、
掘り出されてきた岩穴に目を注げ。
あなたたちの父アブラハム、
あなたたちを産んだ母サラに目をそそげ。」
どうぞ、私たちもまた小さなものでありながらも、アブラハムの信仰から掘り出された者、サラの信仰から生み出されたものとして、アブラハムの神を信じ、天国を望みつつ、この地上の生涯を神の友として歩みたいと願います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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