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宇宙の始まりについて、現代の科学者たちはビッグ・バン理論を提唱します。百億年ないし二百億年の昔に、大きさのない一点に集中していた宇宙の全物質が、大爆発を起こして、今の宇宙が誕生したという説です。キリスト教神学者たちは、このビッグ・バン理論を歓迎しました。これで、宇宙に始まりがあったということが、科学的にも証明されると思ったからです。
他方、科学者たちは、20世紀初頭でも、宇宙には始まりも終わりもなく、いつの時代も今と同じであったと考えられていました(定常宇宙説)。ですから、このビッグバン理論を受け入れることに、相当の抵抗があったようです。もし宇宙に誕生があるならば、「誕生の前はどうなっていたのか」という疑問がおこってきます。爆発を起こした物質はどこから来たのか? 宇宙を生み出すほどの巨大な爆発を起こす力はどこから注入されたのか? なぜ、それが起こったのか? しかし、このような始まりの始まりを問う問題に、科学者たちは、「宇宙は、われわれが知っている物理法則が通用しない状態で始まり、われわれが発見できない力によって始まった」としか答えようがありません。「初めに神は天地を創造し給へり」という聖書のみ言葉を信じている人々には、まことに受け入れやすいビッグ・バン理論も、科学者たちにとっては、科学の限界というものを突きつけられる突飛な理論だったのです。
このようなことをもって、聖書の方が科学より正しいとか、聖書が科学以上に科学的な真理を語っていると主張するつもりはありません。そもそも聖書と科学を、対立的に考える必要はまったくないのではないでしょうか。
『詩篇』第19編2-5節にはこのようなみ言葉があります。
天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。
また『ローマの信徒への手紙』第1章19-20節にもこういうことが語られています。
神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。
聖書は、万物は神の被造物であり、それゆえに神の栄光、すなわち神の知恵と力、ご性質を表していると語っています。その自然界に現されている神の栄光を、読み解く一つの方法が、科学だと言っていいのです。万有引力の法則を発見したニュートンは、『プリンキピア』の中でこのように書きました。
太陽、惑星、彗星からなる極めて美しい天体系は、知性を有する強力な実在社の意図と統御があって、初めて存在するようになったとしか言いようがない。・・・・至上の神は、永遠、無窮、全く完全な方であられる。(天利信司『神のすばらしい創造』より)
また、ガリレイも『天文対話』のなかでこう語っています。
より高いものを見上げる人は、よりすぐれた人です。そして哲学の本来の対象である自然という壮大な書物を調べることは、まさに高いものを見上げる方法なのです。この書物で読むことはすべて、全能の造り主の御業であって、それは、この上なく素晴らしいことですが、中でも造り主の見事な御業をもっとも明らかに示すものには、最大の価値があります。(渡辺正雄、『科学者とキリスト教』、講談社)
近代科学を開いた人たちは、科学は、創造主なる神様の栄光を読み解くための学問だ、と考えていたのです。ところが、いつしか聖書と科学は、対立するものとして、捉えられるようになってしまいました。聖書を信じるということは、科学の合理的な考えに逆らうことだと思われるようになってしまったのです。その原因は、キリスト教自身のなかにもあったかもしれません。ともあれ、創造主を否定し、すべてが合理的に説明できる自然現象であるとする、科学信仰のようなものが、世間に蔓延してきたのです。
しかし、極めて高度に科学が進歩した今、逆に科学では説明できないこともあることを、認めざるを得なくなってきています。科学は、私たちの世界が、いかに運動し、保たれているかを、ある程度まで説明することはできます。他方、なぜこの世界が存在しているのか、何のために存在しているのか、そういう問題については、口をつぐまざるを得ないのです。それが語れないことは、科学はいかなる世界観も語れないことを、物語っています。それを語るのは、科学ではなく、宗教なのです。
宗教といいましても、キリスト教もあれば、より日本人に身近な仏教もあります。仏教の世界観によれば、宇宙は、始まりもなければ終わりもありません。つまり仏教では、ビッグ・バン理論よりも、定常宇宙説の方が都合がいいのです。それに対して、キリスト教では、科学の世界においても宇宙の始まりがあったというようになったわけですから、ようやく科学が聖書においついてきたと言えるかもしれません。
ただし、聖書は、科学的な真理とは、別の次元の真理を扱っているわけですから、科学と競う必要は、少しもありません。聖書が、真理を語っていると言う以上、科学の示す自然科学の真理と調和していくのが、当然だろうと思います。そうでなければ、さきほどご紹介した『詩篇』や『ローマの信徒へ手紙』が語っていることが、説明できなくなってしまうのです。
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ところで、たとえ科学に限界があり、宇宙の根源的な始まりについて答えられないとしても、科学の進歩が、私たちの生活の様々な問題を解決し、豊かにしてきたことは、事実です。それで十分なのではないでしょうか? 十分というのは、私たちが生きていく上で、何も困ったことが起こらないのではないか、ということです。さらにいえば、宗教などいらないのではないか、という意味もであります。
確かに、あまり突き詰めて物を考えずとも、平和な暮らしをおくることができる人には、そうかもしれません。しかし、ひとたび人生に波乱がおきますと、私たちは、存在の根源的な意味をめぐっての問いを、発せざるを得なくなります。「なぜ、病気になったのか?」という問いに、科学は、病気の原因を答えるかもしれません。その原因を取り除いて治る病気なら、それで済むでしょう。しかし、治らない病気である場合、「なぜ、よりによって私がこの病気にかかるのか」、「わたしと他の人とどこか違うのか」、「こんな病気にかかって死ぬなら、自分がこれまで生きてきたことの意味はどこにあるのか」、「そもそも、なぜ私は生まれてきたのか」・・・そういう人生の根源的な問題に、悩まされることになるのです。それは科学では答えられない、つまり解決できない問題なのです。
しかし、聖書は、それに答えます。聖書が、この世界の始まりの本質について、語っている第一のことは、《初めに神は天地を創造された》にあります。私たちには、そしてこの世界には、造り主なる神がおられるのです。その神様の御心、ご計画によって、この世界は存在しています。第二のことは《地は混沌であり》、云々ということです。神様が造られた地の原形(本質)は、混沌であり、闇でありました。そして、第三のことを今日学びます。この形なく、むなしく、どこまでも深い闇である地を、つまりそのままでは「世界」あるいは「宇宙」とは言えないような地を、形あり、何か意味をもった存在とならせたものは、何であったのか。それは、神の言葉であったということが、今日お読みしたところに書いてあるのです。3節、
神は言われた。
《神は言われた》、これがこの世界、この宇宙の、根源を物語る第三のことです。『詩篇』第33編6節には、こう記されています。
御言葉によって天は造られ
主の口の息吹によって天の万象は造られた。
また『ヨハネによる福音書』第1章3節には、こう記されています。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
さらに『ヘブライ人への手紙』第11章3節でも、こう記されています。
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
ある人々は、神様が物を言うなどというのは、あまりにも人間的であって、神様らしからぬことであると言います。神とは、究極の理性であり至高の存在であって、真理の象徴であり、正しい生き方の規範である。人間に話しかけたり、怒ったり、悲しんだり、人間の生活に関わったりはしない、という考えがあるのです。
聖書は、これとまったく逆のことを、私たちに教えます。神様は、物を言う神です。この世界に、「光あれ」と語りかけ、私たちひとりひとりに、「あなたは」と呼びかけ、「何々しなさい」「何々してはならない」と命じ、「わたしに従え」と要求し、祝福したり、呪ったりする神様なのです。
他方、神様は、単なるおしゃべりな神様ではありません。『イザヤ書』第55章11節にはこう記されています。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。
神様の言葉は、かならず神の御心を成し遂げ、それを果たすと言われています。神様のみ言葉とは、御心そのものであり、それを成し遂げる御力なのです。そのみ言葉をもって、神様は、それ自体では本質的に形なく空しいこの地に、語りかけてくださる。その神様の言葉によって、形なく空しい世界が、神様の御心を表す形あるものへと、創造され、秩序を与えられ、意味や目的をもったものとして、存在するようになるのだ、ということです。ですから、形なく空しい世界に、《神は言われた》ということが、とっても大切なことです。神様のみ言葉こそが、この世界を、神の栄光を表す麗しいものにしているのです。
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そこで私たちは、イエス様のあの有名な言葉をもう一度思い起こしてみたいと思います。
人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。(『マタイによる福音書』第4章4節)
これは、イエス様のオリジナルの言葉ではなく、旧約聖書『申命記』第8章3節にあるみ言葉をもって、語られた言葉です。イスラエルの民は40年間、荒涼とした地を彷徨いました。道なき道を歩み、灼熱の太陽に打たれ、凍りつくような夜に苦しみ、獣や略奪する者に脅かされ、病気や、飢えや渇きに悩む、40年でありました。この40年間、彼らを支えたのは、神の言葉であったのです。神の言葉を聞くことによって、進むべき道を知り、神の言葉に従うことによって、飢え渇きをしのぎ、神の言葉を信じることによって、希望を与えられ、力づけられ、慰められてきたのです。
もし神が彼らに語り給うのでなければ、彼らは自分たちがいったいどこに向かって歩いているのか、何のためにこんな旅をしなければならないのか、それさえも分からずに道に迷い、疲れ果て、まったく希望を失っていたでありましょう。実際、彼らが神の言葉に耳を塞いだとき、彼らはそのような状態に陥ったのでありました。神が彼らに語られ、その神の言葉を聞き、従うことが、荒れ野の厳しい旅路を、まことに意味のある、価値のある、希望に満ちた、確かな救いの道にしたのです。
ですから、モーセは、そしてイエス様は、人は神の口からでる一つ一つの言葉で生きる。それを聞き、それを信じ、それに従うことによって、生きる意味、目的、道、力を与えられ、価値あるものとされるのだというのです。
人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。(『マタイによる福音書』第4章4節)
混沌とした人生を生きていくために必要なものはパンでしょうか。パンは私たちの命を一日生き延びさせるかもしれません。しかし、結局は混沌であり、深い闇に覆われた人生を生きるに過ぎないのです。神の言葉がなければ、私たちは形なく、空しく、深い闇のなかにあるままです。人生に、何の意味も見いだせなければ、価値も見いだせないのです。この地を混沌から秩序ある世界へと創造した神の言葉、それを聞き、それを信じることによってのみ、私たちは、生きる意味が与えられ、価値が与えられ、目的が与えられるのです。
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聖書 新共同訳:
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(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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