天地創造 04
「光あれ 〜闇から光へ〜」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 1章3-5節
新約聖書 ペトロの手紙二 1章16-21節
光の創造
 神様は、最初、私たちが住むこの地を、形なく空しいものとしてお造りになりました。それならば、ふとした隙間に感じる人生の儚さや空しさ、この世界の暗さやとりとめのなさは、何か異常な事態が起こっているのではなく、この地が、そもそもの本質として持っている空虚さや、暗さが、そこに現れているのだ、といえます。

 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。(2節)

 このように、この世界の本質は、混沌であり、口を広げた深い淵であり、暗黒であり、形の定めなき水のごときであったのです。

 とはいえ、聖書は、私たちの人生も、この世界も、形なく空しいものに過ぎないのだ、と語っているだけではありません。ひとつは、《神の霊が水の面を動いていた》と語られています。《動いていた》とは、「覆っていた」とも訳せる言葉です。混沌とした闇である世界を、あたかもめんどりが卵を温めるように、あるいは翼の下に雛を覆い抱くように、神様の御霊が包んでいてくださった、と告げるのです。

 さらに、このような形なく空しく、光なき世界に向かって、神様が「光あれ」と語りかけてくださった、と記されています。

 神は言われた。
 「光あれ。」
 こうして、光があった。(3節)


 《神は言われた》、この短いひと言について、先週、お話しさせていただきました。《神は言われた》、この短い言葉が、天地創造を物語る『創世記』1章のなかで、いちばん大切なことを、私たちに伝えています。それは、この形なき世界に形をあらしめ、どこまでも深い闇の中に光明を射し込むのは、神様の言葉である、ということです。

 神様は、最初に語られただけではありません。アダムに、カインに、ノアに、アブラハムに語りかけられました。その後も、ヤコブに、ヨセフに、モーセに、ダビデに語りかけ続けられました。またエリヤ、エリシャ、アモス、ホセア、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなど預言者たちを通して、イスラエルの民に語りかけ続けられました。語られた神の言葉に対して耳を塞いだ者たちは、どんな繁栄と力を手にしていても、形なく空しい混沌とした世界の暗闇の中に、閉じこめられました。しかし、神の言葉に耳を傾けた者たちは、荒れ野を歩く者も、暗闇を歩く者も、恥ずべき罪に身を貶めた者も、瓦礫の山となったエルサレムを目の当たりにした者も、かならず光を見いだし、希望をもって世界を見つめ、喜びと確信をもって自分の人生を生きる者とされたのです。

 そして、神様は、御子イエス・キリストによって、私たちに語られました。神の言なるイエス・キリストは、町々村々を行き巡り、ガリラヤ湖の漁師たち、ならず者、業病と称される病、身体障害に冒された者たち、遊女、そして異邦人たち、このように人々から顧みられない者たち、虐げられている者たち、この世の最も暗い片隅にいる人々に出会い、彼らを神の光で照らし、人生の希望と祝福、この世における使命と永遠の命の約束をお与えになりました。そして、神様は、今も、御子によって、聖書によって、教会によって、私たちに語り続けておられます。

 これらのことは、何を物語っているのでしょうか。本来、形なく空しく、混沌とした暗黒であったこの世界を、そのなかに生きる私たちの命を、何か形あるものとし、意味あるものとし、希望あるものとするのは、天地開びゃく以来、今日にいたるまで、神の言葉であったということなのです。

 神様は、地を、形なく空しいものとして、お造りになりました。混沌、暗闇、深き淵、形なき水、これが地の本質を表しています。それは、この世界が、神の言葉によって、それのみによって、形を与えられ、秩序を与えられ、光を与えられるものとするためであったのです。そして、神様がこの世界に最初に語られた言葉、それが《光あれ》という言葉であったと、聖書は教えるのです。
光とは何か
 この光とは何でしょうか。天地創造の第四の日、14〜16節に、太陽や月、そして空の星々が形造られた、と記されています。ですから、ここでいう光は、そのような星を光源とする物理的な光ではありません。それでは、この光は何かと言われても、正直な話わかりません。いろいろな説明がなされている書物を読みました。「時間的な秩序だ」という人もあります。「いのちの光だ」という人もあります。「神の御業を白日のもとにさらす光だ」という人もあります。どれもなるほどと思うものの、聖書的な根拠に曖昧なものが残ります。結局、この光が何であるか、私には分からないと答えておきたいと思います。

 ただひとつ、聖書によって言えることは、これは神の言葉によってもたらされる世の光、人間の光であったということです。1982年に召されたスイスの牧師で、数々の素晴らしい説教を残している、ヴァルター・リュティという方がおられます。わたしもリュティの説教集で多くのことを学ばせていただいているのですが、今回の箇所における彼の説教の中に、とても印象的なエピソードが紹介されていました。少し長いのですが、それをそのままご紹介させていただきたいと思います。

 1905年の1月9日は、ジュラ河のほとりにある農家と手工業だけの私の村にとって、それまでの古い時代から別の時代に移り変わる画期的な時期でした。当時、人びとはみな、それを「新しい時代」と感じていました。その折りに決定的な役割を果たしたのは、電燈の光でした。この晩、初めて村の照明が灯されるのでした。われわれ子供たちは、すぐ先刻に経験したクリスマス・ツリーをめぐる喜びながらに、この出来事を楽しみに待ちました。これからは、夜でも、村の隅々の暗がりを不安がらずに歩けるに相違ないのです。学校では歌が歌われました。人びとはひそかな喜びに溢れ、こもごも語り合いました。将来は道路番がただ一つのスイッチで村全体を明るくすることができるのだ、と。老人たちは言いました。死んだ父や母がこの喜びを一緒に味わえたらなあ! と。その地方一帯の街路のあかりを管理する技師は、光の使者のように歓迎されました。この村にとって、ある世代のすべての人びとにとって記憶すべき、かの夕に、私ははじめて感動的な言葉を耳にしました。「あかりがつく、あかりがついたぞ!」と。そうして暗さが打ち破られたのち、一瞬、老いも若きも家々の前に立ち、光の動きの奇蹟を待ちました。「神はその光を見て、良しとされた」。うたがいもなく、それは好ましくありました。それは創造者なる神の贈り物、電気の光であったのですから。
 だが、村のとある家で、その1月9日の夕方に、一つの光が消えました。村人は「永久に」と言いました。ある家庭で、突然に、一人の父親が死んだのです。近所に住む人々が死者の部屋にたむろしていました。途方に暮れて、声もなく。六人の残された子供たちの前では、村を照らした電燈の輝きも光を失っていました。一人の未亡人が闇を包みました。夜となり、人造のいかなる光もこれに打ち勝ちませんでした。(リュティ、『アダム』、「光」)


 たとえ太陽の輝きが地を照らしていようとも、電灯が町々を、家々を明るく照らしていようとも、それでは照らすことができない、この世の闇があります。悲しみ、挫折、失望、退屈、憎しみ、後悔、罪責感・・・。真昼間の太陽の下で、明るい部屋の中で、どうすることもできない暗闇が、私たちを包むのです。

 そのような時にも、私たちに光を与えるものがあります。それが神の言葉による光なのです。

 神は言われた。
 「光あれ。」
 こうして、光があった。(3節)


 この《光》とは、太陽の光でも、人造の光でもなく、そのような神の言葉によって世を照らし、人を照らす光なのです。太陽の光も、人造の光も、確かに神の贈り物でありましょう。しかし、それをもってしても照らすことができない闇があります。それは驚くに価しません。そのような闇こそが、私たちが住んでいるこの地の本質なのです。しかし、その闇に神が「光あれ」と言われました。この神の言葉が、闇の中にもたらす光があります。それを知り、それに照らされる者は、どんな闇の中でも、光の中を歩む者とされるのです。
闇から光へ
 その次を読んでみましょう。

 神は光を見て、良しとされた。

 神が《良しとされた》という言葉は、この後も、この章の中で繰り返されます。そして最後に、神様によってすべてのものが祝福され、次の言葉で天地創造の物語が結ばれるのです。

 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。(31節)

 これについては、31節を学ぶときにお話ししたいと考えています。今は別のことに、目を向けてみましょう。つまり、ここで《良しとされた》のは、光であるということです。闇は、良しとされていないのです。何度も申しますが、闇も、神様がお造りになったものです。闇は、この地の本来の姿であり、本質です。神様が、この地をお造りになり、しかもその地は、混沌であって、闇が深淵の面にあったと、聖書は語っているのです。その後、神の言葉によって、光が投じられました。神様は、その《光を見て、良しとさた》とのでした。闇は良しとされていないのです。

 さらに聖書はこう続きます。

 神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。(4-5節)

 神様は、光と闇を区別されました。光は昼と呼ばれ、闇は夜と呼ばれました。これによって、神が良しとされた光と、良しとされなかった闇の対比が、いっそう明らかにされるのです。

 続きを読んでみましょう。

 夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 私たちは普通、朝に一日の始まりを覚え、夜に一日の終わりを覚えます。これは、私たちの人生観にも通じます。幼年期、少年期、青年期、壮年期と人生の光に満ちた日々を過ごし、やがて黄昏を迎え、生涯を閉じます。すべてのものは、昼から夜へ、光から闇へ、これが私たちの感じている時の流れです。しかし、聖書は敢えて逆を語ります。

 夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 夜から一日が始まり、明るさの中で一日が終わっています。これが、神様の天地創造の順序です。最初に闇としてこの地が造られ、そこに光がそそがれるのです。その光こそが、神がよしとされたものであり、すべてのものは光に向かっている。そのように語られているのです。

 これらのことが物語っているのは、天地創造の目的です。神様は、この世界を、初めから光ある世界として、お造りになることもできたでありましょう。そうすれば、この世界は常に光に満ちたものとなったはずです。それがこの世界の本質であり、自然な状態であったはずです。しかし、神様は、敢えてそれをなさいませんでした。まず、この世界を形なく空しい闇としてお造り、次に、その世界に「光あれ」と語りかけられ、み言葉によってこの世界に射し込まれた光を、良しとされました。この世界は、この世界を愛し、この世界と関わり、この生に出会おうとして、言葉をかけてくださる神様なくして、光を持ち得ない世界として、造られたのです。神様なしに、それ自体で存在し続けることができるものとしてではなく、神様によって、はじめて形あるものとされ、良きものとして存在しうるものとして、この世界は造られているのです。それゆえ、この世界は、神様が愛し、慈しみ、その愛と栄光を表す世界となるのです。

 この世界に生きていますと、光と闇の相克を、経験します。光の中に住もうとする私たちに対して、つねに闇が足を引っぱり、開いた大きな闇の深淵の中に引きずり込もうとするのを、感じるのです。そして、しばしば闇の力こそ強大であり、私たちが守ろうとしている光が、いとも易々と光を失ってしまうかのように思えることもあります。たとえば、老いるに従い、活躍の場は狭められ、健康が損なわれ、日常のことも一人でできなくなり、子供たちは巣立っていき、伴侶は先立ち、最後には一人きりになります。歳をとるということは、光から闇へと歩んでいるように見えるのです。

 しかし、もし私たちが、神様のみ言葉によって、光を受けて生きるならば、聖書が語るとおりになります。

 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。(『コリントの信徒への手紙二』4章16-17節)

 どんな暗闇も、やがては光にのみ込まれてしまうのです。この世界は、どうでしょうか? 文明の発達と共に、確かに便利になりました。他方、その分だけ貧富の差は増大し、助け合う心をなくし、互いに無関心になっています。温暖化ガスによる環境問題も、深刻です。そのせいでしょうか、災害も多いように思います。人びとのモラルも低下してきました。かつてでは、考えられないような犯罪も起こっています。相変わらず戦争による多くの犠牲者がでています。そして、何よりも、神様なんかいないという無神論者が蔓延しています。世も末だと、嘆く人たちの感覚は正しいのです。世の中は、確かにますます暗く、悪くなっているのです。

 しかし、やはり聖書は、やがて来る光を、語るのです。

 あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。(『ローマの信徒への手紙』13章11-12節)

 《夜は更け、日は近づいた》といいます。この世界の闇は、ますます深くなっていく。しかし、歴史は、闇にのみ込まれようとしているのではありません。それは、夜が更け、日が近づいていることの証しなのです。だから、恐れずに闇から光へと生きる者であれ、というのです。

 闇から光に生きるとはどういうことか? この世界に向かって「光あれ」と言われた神の言葉による光を信じ、その光の中を生き続けることです。その光が、すべての闇に勝利することを、信じて生きるのです。

 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。(『ペトロの手紙二』1章19節)

 私たちは、暗さを経験します。この世の光が、すべて消えゆくような心細さを、経験します。この世界が闇の中にあり、私たちはその闇の中を生きているのだということを、実感します。しかし、そこに「光あれ」との神様の言葉が語られ、そしてさらに今は、イエス様が与えられ「これはわたしの愛する子、これに聞け」と語られているのです。

 すると光があった。

 この世は闇であるからこそ、この神の言葉による光を持たなければならないのです。リュティは、村に電灯が灯ったその日、ある家では一家の大黒柱を失い、その家はどんな光も照らせないような暗さが覆っていたというのです。しかし、この家に光をもたらすものが一つあるのだと、リュティは語ります。それは、イエス・キリストが死からよみがえられたという聖書のメッセージです。牧師が告げるこの言葉のみが、悲しみの家の光となったというのです。

 夕べがあり、朝があった。

 闇から光へ。この世界の底流にある混沌と闇が、神の言葉によって照らされる秩序と光をもった世界となること。そして、まさに神こそ光であるということが、明らかにされること。それが、神が天と地を創造された目的です。そこに向かって、私たちは生かされているのです。だから、神の言葉に留意し、神の言葉によってこの暗き世に光を持つ灯となりなさい、とのペトロの励ましによって、力づけられようではありませんか。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email: yuto@indigo.plala.or.jp