天地創造 06
「すべて良き賜物は上より降るなり」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記1章6〜8節
新約聖書 ヤコブの手紙 1章16-17節
なぜ大空を天と呼ばれたのだろうか
 先週は、神様が大空をおつくりになったお話しをしました。大空は、この地球を、隕石や紫外線、放射線から守ってくれます。大空は、神様がこの地球に着せてくださった、宇宙服のようなものです。神様は、この地球という星を、人間の住むところとするために、まず大空という宇宙服を着せ、命のための環境を整えて下さったのでした。そして、8節にこう記されています。

 神は大空を天と呼ばれた。

 今日は、ここからお話しをしたいと思います。神様は、なぜ《大空を天と呼ばれた》のでしょうか。聖書をよめば、天という場所は、特別な場所を指す言葉です。天は、けっして大空ではありません。それにもかかわらず、《神は大空を天と呼ばれた》と、語られているのです。

 まず、聖書において、天という言葉が、どのように用いられているかを、見てみましょう。

 イエス様は《天から降ってきた者》(『ヨハネによる福音書』3章13節)であり、たびたび《天の父》(『マタイによる福音書』第5章16節、他)と神様を呼び、《天を仰いで》(『マタイによる福音書』第14章19節、他)祈られました。

 また、イエス様は、わたしたちには、《天の国》(『マタイによる福音書』第3章2節、他)について多くの教えを与えてくださいました。パウロは、《私たちの本国は天にあります》(『フィリピの信徒への手紙』第3章20節)と教えています。

 詩編には、このように語られています。

 主は天から見渡し、
 人の子らをひとりひとり御覧になり
 御座を置かれた所から
 地に住むすべての人に目を留められる。(『詩篇』33編13-14節)


 天は、しばしば、神様の御座が置かれている場所、つまり神の居ますところを指し示す言葉として、用いられています。

 また、聖書において、天は、神様御自身と結びつけられて語られています。神様の裁きは、「天の裁き」(『サムエル記上』第2章10節)と言われ、祝福は、「天の祝福」(『創世記』第49章25節)といわれます。

 しかし、『創世記』は語ります。

 神は大空を天と呼ばれた。

 大空は、大空に過ぎません。神様は、大空に住んでおられるのではありません。イエス様は、大空から来られたのではありません。天の国は、大空にあるのではありません。それなのに、神様はなぜ、《大空を天と呼ばれた》のでしょうか。

 それは、私たちが、いつも「上」を意識して生きるようにとの御心なのです。私たちは毎朝、新聞を読みます。鳩山政権が、何か新しいことをしてくれるのではないか。経済は、どうだろうか。株は、上がっているだろうか。世界の情勢は、どうであろうか。お天気は、どうだろうか。電車は、動いているだろうか。そして、一日がはじまれば、会社ののこと、畑のこと、家族のこと、学校のこと、スパーの安売りのこと、地域のうわさ話のこと、忙しくこの地上のことを思い、考え、願い続けます。私たちは、この地上で生きているのですから、この地上で何が起こっているのか、何が起ころうとしているのか、そういうことが気になるのは当然のことです。
 しかし、聖書は言うのです。あらゆる祝福は上から来る、と。

 わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。(『ヤコブの手紙』1章16-17節)

 「大地の恵み」という言葉があります。たしかに、大地は実りをもたらし、私たちに必要な糧を与えてくれます。しかし、それとて、実は、大地ではなく、「天の恵み」なのです。大空がもたらす恵み、という意味ではありません。《光の源である御父》によって、もたらされる恵みです。

 聖書は、天という言葉をもって、神様がいと高き方であるということを、私たちに教えるのです。そして、大空を仰ぐことによって、そのことを感じるようにと、神様はお考えになったのです。
いと高き神
 しかし、このことをちゃんとお伝えするためには、もう少し丁寧なお話しが必要であると思います。

 「天」とは、何でしょうか。『創世記』1章1節に、《神は天地を創造された》とあります。ヘブライ語原典に忠実に訳せば、《天地》ではなく、「天と地」です。神様がお造りになった世界には、ふたつの世界があるのです。ひとつは《天》であり、もうひとつは《地》です。

 《地》とは、私たちが属しているこの世界です。地表だけではなく、大空も、《地》に属します。もっといえば、宇宙全体をも含みます。ようするに、人間が思い描くことができる世界は、たとえ宇宙の果てであろうと、《地》なのです。

 それに対して、《天》とは、私たちが属していない世界、思い描くこともできない世界、「天界」という言葉がありますけれども、そのようなものです。それは、どういうところなのでしょうか。残念ながら、それをつまびらかに語ることはできません。聖書に書かれていることに基づいて、神の御座があるとか、天使が住んでいるとか、この地上の生を終えた者たちが住む天国があるとか、推測するしかないのです。《天》は、私たちが属していない世界だからです。しかし、はっきりしているのは、《天》もまた、神様が創造された被造世界であるということです。

 《天》は、神様の住まうところとして造られた、と言ってもいいのでしゅか。実は、ソロモンは、《天》ですら、神様がお住みになるのには、狭すぎると言っています。

 神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。(『列王記上』8章27節)

 これはソロモンが神殿の定礎式に捧げた祈りの言葉です。《天も、天の天も》と、ふたつの《天》に言及しています。最初に語られている《天》は、大空のことを言っているのかもしれません。そして《天の天》とは、大空を越えた天、つまりいと高き天、つまり天界のことと読むことができます。大空はもちろんのこと、天使たちの住む、いと高き天ですら被造物であり、神様は、そこにお住みになることはできない。神様は、それはそれほど大いなる御方であると、ソロモンは祈るのです。そのとおりでありましょう。

 しかし、先ほどの申しましたが、聖書は、《天》を、神様の居ますところとして語り、あるいは神様ご自身に当てはめて、語るのです。つまり、神様は、《天》に御座を置き、そこに居ますこともできるし、いないこともおできになるのです。

 同じように、神様は《地》に御座を置き、そこ居ますこともできるし、いないこともおできになるのです。神の御子が、世に来て下さったことが、それを物語っています。

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(『フィリピの信徒への手紙』第2章6〜7節)

 また、聖書は、わたしたちの体が神の神殿だと教えています。それならば、神様はわたしたちのなかに御座を置き、そこに居ますこともできるし、いないこともおできになるのです。

 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。(『コリントの信徒への手紙1』第3章16節)

 このように、神様は、低きに降り給う方でもあるし、私たちのただ中に住み給う方でもあります。ということは、神様を「地の神」と呼ぶこともできるわけです。

 しかし、聖書は、神様を、「天の神」と呼びます。イエス様も、《天におられるわたしたちの父よ》と祈ることを教えてくださいました(『マタイによる福音書』第6章9節)。神様は、「いと高き方」として讃美されることを、求められています。なぜならば、神様は、天におられるにしても、地におられるにしても、わたしたちの心のなかに住み給うにしても、私たちの側からは、決して手の届かぬ御方だからです。どんなに知恵を尽くしても、どんなに修練を積んでも、人間の側から、神様に近づくことはできないのです。

 ですから、神様は私達が偶像を造ることを厭います。石や木でつくった偶像はもちろんのこと、音楽や絵画や文章などで、人間が神を形づくることを禁じられます。人間がどんなことをしても、神様を思い描いたり、まして形造ったりすることはできないのです。神様が「天の神」であり、「いと高き御方」であるということは、そういうことを意味しているのです。
大空を天と呼ばれた
 そこで、もう一度、今日わたしたちに与えられたみ言葉について考えてみましょう。

 神は大空を天と呼ばれた。

 現代に生きる私たちにとって、大空は、もはや手の届かぬものではありません。それでもなお、天を見上げるとき、その高さ、広さ、深さを思うことができます。無邪気で、破天荒な句を詠むことで知られた種田山頭火(1982-1940)という人がいます。

 ころり寝ころべば青空

 こんな句を、詠む人です。わたしも、子供頃、よく地べたに仰向けになって、空をみあげました。流れる雲の動きや形を、いつまでも飽くことなく追いかけたり、空の鳥を数えたり、ただなんとなく大空を眺めたりしました。私たちは、大人になるにしたがって、そんなふうに空を見上げることが少なくなってしまったのではないでしょうか。卑近なことばかりに追い立てられる毎日で、遠いところ、手の届かぬもの、頭で考えることができないものへ、目を注ぐゆとりを持たなくなってしまったのかもしれません。

 そのような私たちに、いと高き方、大いなる神様がおられるのだ、と思い起こさせるために、神様は大空を天と呼ばれたのではありませんでしょうか。

 天を仰ぐと言えば、アブラハムの話を思い出します。アブラハムは「子供を与えてくださる」という神さまの約束を信じ、生まれ故郷を捨て、神さまを信じる旅にでました。しかし、何十年経っても、子供は生まれず、一握りの土地も与えられません。歳ばかりを重ねて、アブラハムは、将来に何の希望も持てなくなってしまいました。ついに、アブラハムは、神様に不満を漏らします。

 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」(『創世記』15章2-3節)

 すると、神さまはアブラハムを天幕の外に連れ出し、このようにお答えになります。

 「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」(同上、15章5節)

 自分の考えられるところ、見通せるところ、努力のおよぶところ、つまり自分が到達できるところには、何の希望もない。そのような時に、「天を仰ぎなさい」と、神様は言われるのです。天を仰ぎ、数え切れない星を見上げながら、アブラハムは、何を思ったでありましょうか。数えることができないということは、支配することができないということです。自分の手に届かぬところにあるもの、自分の手に負えないもの、遠きもの、高きもの、それら一切を、御手のなかに治めておられる神様の偉大さを、アブラハムは思ったのではないでしょうか。

 自分の思いも、願いも越えている神様が、共におられる。そのことが、私たちの希望なのです。自分が絶対となり、何かも自分で考えられる、支配できると思い込んでいる人は、まもなく絶望します。絶対だと思っている自分は、ほんとうはちっぽけなものに過ぎないからです。しかし、自分を越えたいと高きところに目を注ぐとき、つまり「天にいます我らの神よ」と祈るとき、私たちは希望を持つことができるのです。

 神は大空を天と呼ばれた。

 これは、もっと空を仰ぎなさいということではないでしょうか。確かに、私たちは地上に生きています。私たちの必要は、地上にあります。しかし、だからといって、地上ばかりを見ていても、私たちは必ず行き詰まるのです。絶望するのです。空を見上げなさい。その高さを、広さを、深さを思いなさい。私たちの手の届かぬところから、神様はわたしたちを見ておられます。そして愛を注ぎ、恵みを注いでくださるのです。
 もう一度、ヤコブの言葉を聞きましょう。

わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。(『ヤコブの手紙』1章16-17節)
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