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先週お話した「天」について、すこし補足をしておきたいと思います。「天の父よ」と祈る時、わたしたちが神様の居ます場所として思いを馳せるところ、それが「天」です。したがって、それは決して大空のことではありません。宇宙のどこか、ということでもありません。大空も、宇宙も、それは「地」に属する世界であり、それとはまったく異なる世界が、「天」なのです。本来的にいえば、「天」は上にあるとか、下にあるとか、ただ中にあるとか、そのように私たちの感覚で場所を示すことができない世界です。
しかし、《神は大空を天と呼ばれた》(8節)と、聖書は記します。「天」は、意図的に、私たちの頭上にある大空と、つまり、「上」と結びつけられました。「天」が上にあるから、大空を「天」と呼んだのではありません。神様が、天を大空と結びつけられたから、私たちは「天」という言葉を聞くとき、上を見上げるのです。
そのように意図された神様の御心は何かといいますと、人間にできること、知り得ること、支配できることの限界を知りなさい、ということにあります。私たちには、逆立ちをしても知り得ない領域があるのです。知り得ないということは、手が届かないということです。支配することができないということです。私たちの知恵も、知識も、意識も、及ばぬ領域、意のままにならない領域、力なく黙って受け入れるしかない領域があるのです。
それを、私たちは、しばしば「闇」といいます。これは正しい表現です。人間は、何とか闇に光を当てようとしてきました。そして、それを自分たちの力で支配しようとしてきました。しかし、決して人間には手の届かない領域がある。「天」とはそのようなところです。それならば、「天」とは、「闇」でもあるのです。天にいます神様は、闇の中におられる神様でもあるです。いや、「天」とは光に包まれたところではないのか、光のなかに神様がおられるのではないか、と思うかもしれません。確かに、神様は光であると、聖書も語ります。
わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。(『ヨハネの手紙1』第1章5〜7節)
《神は光であり、神には闇が全くない》とあります。しかし、《神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら》といわれていることが、理解の鍵になります。《歩むなら》というのですから、今は歩んでいないのです。神の光の中を歩まず、闇の中を歩いているです。つまり、この御言葉は、私たちが、そのように闇の中にいることを前提として語られています。
闇に閉ざされた世界の中にいる者にとっては、光こそ見えない闇にみえるのではないでしょうか。光である神様こそが、見えない闇として存在するのです。だから、神様が私たちを救うために、言い換えれば闇から光へと導くためにお遣わしくださったイエス様を理解せず、受け入れず、十字架にかけて殺してしまったのです。聖書は、そのようにあなたがたが理解しないもの、受け入れがたいもの、ままならないもの、いらつかせるもの、そのようなあなたがたの闇のなかに、実は光なる神様がいらっしゃるのだ、あなたがたの闇(悩み、苦しみ、病、運命の理不尽など)と真剣に向き合うことが大事だ、そうすれば神様の光が見えてくるよということを、教えているわけです。
このように神様が闇の中におられるということは、詭弁を弄しているのではなく、ちゃんと聖書に書いてあることでもあります。
主は天を傾けて降り
密雲を足もとに従え
ケルブを駆って飛び
風の翼に乗って行かれる。
周りに闇を置いて隠れがとし
暗い雨雲、立ちこめる霧を幕屋とされる。
『詩篇』第18編10〜12節
神様は闇を隠れ家とすると書かれています。これについて、16世紀、宗教改革を起こしたルターは「詩篇講義」の中でこういうことをいっています。
神の隠れ場が闇であるというのは、まず第一に、神は信仰の謎と闇のうちに住みたもうからである。次に、神は近づきがたい光の中に住み(第一テモテ6:16)、いかなる知性といえども、この光によってそれが放棄され、根底からとりのぞかれるのでなければ、主に近づくことはできないからである。それゆえ聖ディオニシウスは、究極の闇にはいること、そして否定を通して上昇することを教えている。というのは、神はこのように隠されたかた、理解しがたいかたでありたもうからである。(世界の名著『ルター』、中央公論社)
人間の知性を、光だと言う人がいます。知ることによって、暗闇から明るさのなかに抜けることができる、と思っているのです。しかし、神様からみれば、人間の知性などあまりにも暗くて、闇に等しいわけです。その仄暗さの中にとどまり続けるかぎり、神様を知ることはできません。なぜなら、神様は、人間の仄かな光の届かない闇(または「近づきがたい真の光」)の中にいらっしゃるからです。
では、どうしたらいいのか? むしろ人間にとっての「究極の闇」に入ることだと、ルターは言っています。「なぜ?」、「どうして?」、「どうしたらいいの?」ということが私たちの人生に、この世界にあります。私たちの知恵も力も及ばない人生の暗闇、心の暗闇、生きていけなくなるような恐れや苦しみの中で、その中に隠れていらっしゃる神を仰ぐことなのです。それが、天を仰ぐということです。天とは、知恵も力も及ばない領域のことだからです。
しかし、闇を天と名づけられた、とは書かれていません。神様は、大空を天と名づけられたのです。大空も、やはり人間の知恵と力の及ばない領域を、私たちに指し示しています。しかし、闇と違うのは、大空からは光が降り注いでいるということです。もちろん、夜になれば暗くなる。しかし、そこにも月や星が輝いており、明けの明星がのぼり、太陽がのぼります。あるいは、厚い雲に覆われて光を遮ることもある。それでも、私たちは雲の彼方に光が輝いており、やがて風が雲が吹き払うと再び光が注がれることを知っているのです。
今、光は見えないが
それは雲のかなたで輝いている。
やがて風が吹き、雲を払うと
北から黄金の光が射し
恐るべき輝きが神を包むだろう。
『ヨブ記』37章21〜22節
『ヨブ記』のなかで、「神様がわからない」と嘆くヨブに、エリフ語りかけた言葉です。
光は、私たちの内側からではなく、私たちの手の届かないところから降り注ぐものである、ということを教えるために、神様は大空を天と名づけられたのです。先週お読みしました『ヤコブの手紙』の言葉も、そのことを物語っているのです。
良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。(『ヤコブの手紙』第1章17節)
神様は、私たちがこの地上を生きていくためには、この地上のことばかりを考えていても駄目で、人間の手の届かない、いと高きところに神様がおられ、そこから来る祝福を信じ、仰いで生きることの必要を教えられたのです。 |
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さて、今日は、大地の形成についてお話しを進めていきたいと思います。
神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。(『創世記』第1章9-10節)
神様は水を上と下に分けられ、大空をお造りになりました。こんどは、地の水を一箇所に集めて、海と地に分けられるのです。
神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
ここでの《地》は、つまり宇宙も含め人間の生きている世界全体を表すものではなく、いちめん海であったこの世界に、陸地が現れたということです。大地と言ってもいいと思います。
陸と海との関係について、『エレミヤ書』に次のようなみ言葉があります。
主は言われる。
わたしは砂浜を海の境とした。
これは永遠の定め
それを越えることはできない。
波が荒れ狂っても、それを侵しえず
とどろいても、それを越えることはできない。
(『エレミヤ書』第5章22節)
神様は、砂浜を海と陸の境としました。そして、それは、どんなに波が荒れ狂っても、陸を浸食することがないためである、といわれています。
砂浜のような遠浅の海岸では、津波や高波の力は、陸に到達するまでに弱められます。砂浜には、そのような陸を守る防災効果があることが分かっています。もっとも海岸は、砂浜ばかりではありません。磯もあれば、干潟もあります。しかし、ここで言われているのは、砂浜か、磯か、というようなことではないでしょう。神様は、単に海と陸を二つに分けたのではなく、陸を海から守るような、仕組みをもって、それを分けられたということなのです。
こうは申しましても、先日も、南太平洋のサモアを襲った津波で、百何十人という死者が出た、というニュースが届いたばかりです。しかし、津波の被害が大きくなった要因に、最近の海面上昇の問題が潜んでいるとは言えないでしょうか。ご存知のように、地球規模の温暖化により、南極の氷が融けだし、海面上昇が起こっています。それによって、水没の危機に瀕している島や国もあるのです。サモアでは関係ないかもしれませんが、ダムの建設などで砂浜が消えていくという問題があります。神様は、たしかに海と陸とを分けられ、そして陸を海から守られました。それにもかかわらず、神の創造の御業を尊ばない愚かな人間が、神がお造りになった天然の防波堤を破壊しているのです。
ただ、そのようなことがあるとしても、神様は、なお陸を海からお守りくださるでしょう。『創世記』6〜9章に、大洪水のお話しがあります。地上に人間の悪がはびこるのをご覧になった神様は、人間を造ったことを後悔し、大洪水をもって陸地を再び水没させてしまうのです。その際、ノアとその家族、そしてわずかな動物たちが箱舟にのって、生き延びました。この水が引くのに、一年以上がかかりました。このような大洪水のあと、神様は、ノアにこう約束されました。
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない。」
『創世記』第8章21-22節
「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。」 『創世記』第9章13〜15節
神様は、このように大地を保証してくださっているのです。それは即ち、人間や動物たちの住処の保証なのです。
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ところで、神様が大地を形成なさったとき、大地はまだ《乾いたところ》でありました。それは実際、乾燥しきった大地ということではなくて、無味乾燥で、不毛の大地であったということでありましょう。そこに、さまざまな植物(草と木)を、神様が生い茂らせるのです。
神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
『創世記』第1章11-12節
昨今、地球規模での大地の砂漠化が起こっていると聞きます。植物に覆われて潤っていた土地が、植物が育たない不毛の大地と化しているのです。その原因はさまざまですが、森林の伐採なども重要な原因といわれています。植物は、土壌をつくったり、水分を保ったり、発散したり、大地の大切なパートナーなのです。植物が、この地球環境に対して果たしている役割は、とても大きなものがあります。植物は、地球が命を育む環境を造り、維持している立役者なのです。
この緑ゆたかな大地が、やがて人間の住む場所となります。『イザヤ書』には、こう記されています。
神である方、天を創造し、地を形づくり
造り上げて、固く据えられた方
混沌として創造されたのではなく
人の住む所として形づくられた方
主は、こう言われる。
わたしが主、ほかにはいない。(『イザヤ書』第45章18節)
神様は、地を《人間の住むところとして形づくられた》と、語られています。神様が、大地を海から守る海岸線をつくったり、みどり豊かな大地をつくられたのは、すべて人間の暮らしを考えてのことであったのです。これによって、神の天地創造の目的は、人間の創造を目的としたものであったということがわかります。
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そんなに人間中心に考えていいのか、という疑問をもたれる方もおりましょう。そんな風に、人間中心に考えるから、今のような環境破壊が起こっているのではないか、という声もありましょう。それは勘違いです。聖書が語る人間中心の世界とは、人間こそが神の栄光を表す中心であるということです。
イエス様は、人間に対する神様の愛は、空に鳥や野の花に対するそれにまさる、と仰いました(『マタイによる福音書』第6章25節以下)。それにもかかわらず、人間は、神様を片隅に追いやり、いと高き天を仰がなくなってしまいました。まるで自分が神であるかのように、この世界で生きてきました。そのような人間中心を、神様が望んでおられたのではないのです。
天地の造り主、父なる神を忘れた愚かな人間によって、大地はひどく汚されています。多くの血を吸い込み、多くの汚染物質を吸い込んでいます。森を失った山は崖崩れを起こし、砂漠化し、砂浜が消失しています。温暖化によって海面は上昇し、再び大地が海に脅かされています。
しかし、神様が、なおこの地をお見捨てになっていない証拠があります。それが、教会の存在です。教会はなんのために存在し、いかにして生まれたのでしょうか。『マルコによる福音書』第16章15節にこう言われています。
イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
すべて造られたものに福音を、つまり神の救いを宣べ伝えよと言われているのです。イエス様のこの大号令に従うために、教会は存在するのです。そして、さらに『使徒言行録』第1章8節で、イエス様はこう言われています。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
イエス様が、天からお送りくださる聖霊によって、私たちは地の果てに至るまで、救い主イエス様の証し人になる、と。イエス様が、《地の果てに至るまで》と言ってくださっていることは、なんと喜ばしいことでしょうか。それはなお地の隅々に至るまで、神様の愛が及んでいることを意味するのです。この地は、一片たりとも見棄てられていません。そして、世界中に、どんなへんぴなところにまでも、教会をお建てになり、御自分の愛を、救いのご計画をお伝えになっているのです。 |
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