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先週は、「大地の形成」についてお話しをいたしました。神様は、大空をお造りになったあと、地表を覆っている水をひとつ所に集められ、海と陸地とを分けられます。さらに、その陸地に植物を生い茂らせ、緑豊かな大地となさった、というお話しです。私は、神様がお造りになった海岸線や、大地と植物の緊密な関係ということに触れ、今日的な問題である海岸線の浸食や、大地の砂漠化という環境破壊についても、お話したのです。
神様がお造りになったすべてのものには、互いになくてはならない相互関係、共存関係があります。大空にある水は、地に注がれます。注がれた水は、土を生かします。土は水を守ります。その関係を力として、植物が生かされます。その植物によって、水と地も守られています。このような神様がお造りになった共存関係を、まったく無視して築き上げられた人間の文明社会が引きおこしている問題、それが環境破壊でありましょう。
私は、この『創世記』第1章にある天地創造を丁寧に学ぶにつれ、この物語は、神様が何もないところからすべてのものを造り出したという、単純なお話しではないという思いを強くさせられています。たとえば、この天地創造のなかで、文字どおり無から有が造られたのは、天と、混沌として闇に覆われた地と、その闇の中に投じられた光、それだけです。大空は、水と水とを分けることによって形成されました。陸地も、地表の水が一つに集められることによって形成されました。植物は、大地が生み出しました。動物も、水や大地から生じました。最後の人間は、土の塵から造られました。前に申しましたが、聖書はちゃんとそのことを言い分けておりまして、1章3節の《こうして、光があった》という箇所以外では、「あった」という存在そのものの創造ではなく、「そのようになった」という存在の形が与える、つまり形成を物語る言い方がされているのです。
「天地創造」は、正確に言えば、「天地の創造と形成」の物語だと言ってもよいでありましょう。そして、その形成について言えば、一つ一つが形を与えられるだけにとどまらず、神様の知恵と力によって、すべてのものが互いになくてはならぬものとして関係づけられ、このくすしき世界が作り上げられているのだ、と語られているのです。
さらに言えば、その関係には順序があるということも、この物語は教えています。《はじめに神は天地を創造された》とありますのは、この天も地も万物は、神様との関係を根源として存在していることを、物語っているのです。そして、光と闇、空と地表、海と陸、陸と植物・・・最後に人間です。人間は、神様と、神様がお造りになったすべての被造物との、相互関係によって、はじめて存在し得るのです。これが、天地創造のいちばん大切なメッセージです。
『コリントの信徒への手紙1』第14章33節にこう記されています。
神は無秩序の神ではなく、平和の神だからである。
集会の秩序の重要性について語られたみ言葉ですが、神様の永遠のご性質をもあらわしています。神様は、混沌とした世界に緻密な秩序を与え、すべてのものを関係づけ、和合させ、このくすしき世界を完成された御方なのです。
出典はよくわからないのですが、いろいろなところで紹介されているアイザック・ニュートンのこんなエピソードがあります。
一人の巧みな技師がニュートンのために、すばらしい太陽系の模型を造りました。中央に金でめっきした太陽があり、周囲に太陽系の序列順に水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星があります。それぞれの星は、歯車とベルトによって連なっていて、柄を回すと、軌道を規則正しく運行するようになっているのです。
ある日、ニュートンが書斎で本を読んでいると、唯物論者の友人が入ってきて、そこに置いてある模型を見つけました。そして興味深げにその柄を回すと、惑星がそれぞれの軌道で正しく運行するのを見て、すっかり感心しました。
「実に見事だ。いったい誰がこんなすばらしいものを造ったのだね?」
ニュートンは頭も上げず、読書を続けながら答えました。
「誰でもないさ。いろいろなものが集まって偶然に、たまたまこんな形になったんだよ」
「ばかを言っちゃいけない。だれかが造ったからこそここにあるのではないか。それを造った人は天才的な人物だ。それはだれなのか教えてくれ」
友人は、語気を荒げました。ニュートンは立ち上がり、手を友人の肩にかけて答えました。
「君はこの模型が偶然にできたのではないと言いましたね。きっと造った者がいるはずだと言いましたね。これは単なる模型です。模型でさえ、そうなのですから、あなたは本物の太陽系を造られた神を認めるべきではないですか」
神様が何もないところに、あるいは混沌としたところにこの世界を造ったという神話は、日本の国産み神話をはじめ、世界中の国々にある神話です。しかし、聖書はそれだけではない。神様は存在を与えるだけではなく、すべての存在に驚くべき相互関係、共存関係を与え、奇しき秩序をもって保たれる世界をお造りになったと語っているのです。20世紀を過ぎてようやく人類が気付きはじめたエコロジーの重要性を、聖書は第1頁から語っているわけです。
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さて、今日は、太陽、月、星について語られているところです。14-15節をもう一度読んでみましょう。
神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。
続く16-18節をみますと、大空に光る物には、大きなものと小さなものがあり、大きなものは昼を治める、小さなものは夜を治めると記されていますから、これは太陽と月について語られているということが分かります。大きく言えば、太陽系と言ってもいいかと思いますが、地球と太陽の関係、地球と月の関係が、神様の御手によって秩序づけられたということが言われているわけです。つまり、太陽のまわりを地球が自転しながら回っているということ、また月が地球のまわりを回っているということ、そのようなことがここで神様によって形作られているわけです。
聖書は、天動説をとなえているという誤解がありますので、明らかにしておきたいと思います。聖書が、天動説を唱えている箇所はありません。もちろん、太陽が昇るとか、沈むという表現はあります。しかし、それは私たちも日常的に使っている表現です。それ以上のものではないのです。
では、どうしてそのような誤解が生じてしまったのでしょうか。中世において、人々の一般的な宇宙観は、地球が中心にあって、そのまわりを太陽や惑星が回っているというものでした。これが天動説です。この立場から当時の天文学を系統立てようとしたのがプトレマイオスという人です。それは非常に込み入った複雑な理論であり、とても全天体の運動を完全に説明できるものではありませんでした。しかし、当時の教会は、天動説を支持して、地動説を異端としてしまったのです。つまり、科学的な常識をもって、聖書解釈を単純に方向付けてしまったことになります。ところがその科学が間違っていたものですから、教会も間違えることになりました。しかし、聖書そのものは、決して天動説を教えているわけではありません。
科学は、神様がお造りになった世界の有り様を、より緻密に解明しようとするものでありましょう。科学が、それを正しく語る場合もありますが、いつもではありません。所詮、人間の知恵のなすことですから、過つことがあるのです。その点、聖書は、科学とは違う表現で書かれていますが、神様が与え給う知恵があるのですから、つねに正しいのです。ただ、それを読む人間の未熟さによって、その正しさを飲み込めないことはあります。だからといって、科学の方が聖書より正しいということはありません。
こういいますと、科学を軽視しているように思えますが、そうではありません。科学は、人間の知恵の結集ですから、科学が真実に近づけば近づくほど、聖書の真実を正しく理解できるようになる。そういうことがあるわけです。
たとえば先ほどお話ししたエコロジーの問題もそうです。聖書は、何千年も前から、そのことについて語っていました。しかし、それに気付いたのは、科学が生態系というものの重要性を認識し、それが常識化してきたからなのです。わたしは、科学が聖書に追いついてきたという言い方をしたことがありますが、それは言い換えれば人間の知恵が、聖書の語っていることをようやく理解し始めたということでもあります。
また、聖書への信仰が、科学を真実にむかって導くということも当然ありましょう。地動説に気付いたコペルニクスは、つじつま合わせばかりで複雑極まりないプトレマイオスの天動説に対して、「すべてを完全になしうる神が、そんな不細工な宇宙を造るなどとは到底考えられない」(バターフィールド著『近代科学の歩み』」)と確信したといいます。信仰が科学を真実に導いたひとつ例だと言ってもいいでありましょう。聖書と科学は決して対立し合うものではないのです。
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しかし、聖書が鋭く対立するものがあります。それが偶像礼拝です。なぜ聖書は、《大きく光る物》と言い、《大きな方》、《小さな方》などと、まどろっこしい言い方をするのでしょうか。なぜ、「太陽」とか、「月」という言い方をしなかったのでしょうか。聖書には、太陽、月と言う言葉は普通に使われているのですから、この天地創造の記事においても、「それを太陽と名づけた」とか、「それを月と名づけた」とあっても良いと思えるのです。しかし、それがありません。
その理由が、偶像礼拝にあります。古来より今日にいたるまで、人々は太陽や、月や、星によって、人間の運命が左右されていると考えてきました。この科学の時代においても、毎朝のテレビ番組で、堂々と星座占いがなされ、そんなものを信じていないと言いながら、自分の星座を気にしながら、それを見ているのです。そして、恐ろしいことですが、それに支配されています。ちなみにわたしは水瓶座ですが、わたしのように子どもの頃から教会学校に通い、占いなんかしたことがない者であっても、自分の星座というものを知っているぐらい、それは浸透しているのです。
モーセの時代の古代中近東世界ではなおさらでした。そもそも「太陽」と「月」という言葉は、異教の神々の名前だったのです。そして、誰もが、太陽や、月や、星によって、自分の運命が支配されていると信じていました。それが常識だったのです。
そのような時代にあって、『創世記』第1章は、太陽とか、月とか、星と言う言葉を使いません。ただ《大きく光る物》と言い、それに人格や神秘性を与えようとしません。神様の御手によって造られた、被造物のひとつに過ぎないと、印象づけるのです。
天地創造の第四日の記述は、そういう意味で、太陽や月の神格化、偶像礼拝に対する禁止を、物語っているとも言えます。それらのものは神ではなく、この地上の、日や、月や、年や、季節のしるしであり、またこの地上を照らす光と、熱を、提供するために神様がお造りになった「光る物」に過ぎないのだというのです。
こうした天体の神格化、偶像化への批判は、聖書全体にわたってなされています。『申命記』第4章19節、
また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。それらは、あなたの神、主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである。
また『エレミヤ書』第10章2節、
主はこう言われる。異国の民の道に倣うな。天に現れるしるしを恐れるな。それらを恐れるのは異国の民のすることだ。
現代人の多くの人たちが、科学的に太陽や月や星の正体を正確に知っているにもかかわらず、星占いなどに支配されているというのは、本当に不思議なことです。おそらくは、宇宙に秘められている想像しがたいものや、謎に対する恐れが、背景にあるのでありましょう。そして、その恐れに生き方が支配されてしまうのです。しかし、そのような恐れは、天地の造り主なる神様に対してのみ抱くべきなのです。
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聖書 新共同訳:
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