天地創造 09
「神の賜る“時”」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 第1章14〜19節
新約聖書 ヨハネの黙示録 1章8節
時間の矢
 前回に引き続き、太陽と月と星の形成のお話しから、神様の深い御心を学びたいと思います。まず、14〜15節をもう一度読んでみたいと思います。

神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。

 ここには、太陽と月が造られた神様の目的が、ふたつ示されています。一つは《季節のしるし、日や年のしるしとなれ》ということ、もう一つは《地を照らせ》ということです。

 《季節のしるし、日や年のしるしとなれ》とは、時間について語られているといって良いでありましょう。しかし、時間は、ここで初めて存在したわけではありません。それは創世記1章1節にあります。

 初めに、神は天地を創造された。

 ここに、この天地に関するすべての発端があります。私はこの創世記1章1節についてお話ししたとき、私たちを含めすべての存在の根源がここにあるのだというお話しをしました。この天地に関する時間もまた、ここに始まったのです。

 時間とは何でしょうか? 時間には、二つの側面があります。一つは、一本の直線のように過去、現在、未来へと流れていく時間です。私たちの「今」は、次の瞬間には「過去」になり、さっきまで「未来」であったものが「今」になります。このように時間は、刻一刻と流れているものです。しかもその流れには、過去から未来へと決まった方向性があります。決して、逆のことは起こりません。分かりやすく言えば、「覆水盆に返らず」です。

 物理学では、このような時間の性質を、一度放った矢は元に戻ってくることはない、という意味で、「時間の矢」というそうです。とても面白い言い方だと思います。時間が矢であるとするならば、それを放った者と、的があるわけです。つまり、始まりと終わりがあるということです。その始まりは何か、終わりは何か、物理学ではいろいろな試論がなされているようですが、まったくわからないのが現状です。ただし、聖書は、これをはっきりと述べております。

神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(『ヨハネの黙示録』1章8節)

 神様は、すべての「時」の主であるということが、ここで言われています。《今おられ、かつておられ、やがて来られる方》とありますように、現在、過去、未来のすべてを、神様が御手のうちに治めておられます。そして、神様は《アルファであり、オメガである》方です。初めであり、終わりである方です。時間の矢は、神様が放ち、神様によって導かれ、神様の目的に向かって進んでいるのです。

 聖書の記す天地創造が、第一の日、第二の日と進んでいき、第七の日にそれが完成したと書かれていることも、そのような意味が隠されています。神様が天地を創造された、ということだけを伝えるのであれば、このような区切りは必要ではありません。しかし、第一、第二、第三と神様の御業が進められ、第七の日にそれは完成し、神様が休まれた、と記されていることには、神様によって始められ、神様によって終わりを迎える「時間の矢」が意識されているのです。

 天地創造という時間の矢は、第七の日をもって終わりを迎えました。しかし、また新たな時間の矢が、神様によって放たれ、導かれ、終わりに向かっています。それは新しい天地創造といってもいい、神の救済の歴史です。私たちは、その神の救済の歴史という時間の矢の中に生きています。私たちの過去も、現在も、未来も、すべてはその中で始まり、その中で存在し、すべての御救いが完成される終末に向かっているのです。

 ですから、私たちはすべての時を神の恵みの時、救いの日として受けとめることが出来ます。『詩篇』106編48節にある讃美の言葉はそのことを表しているといっても良いでありましょう。

 イスラエルの神、主は
 とこしえからとこしえまでほむべきかな。
 すべての民は「アァメン」ととなえよ。
 主をほめたたえよ。(『詩篇』106編48節 口語訳)


 《とこしえからとこしえまで》とあります。初めのとこしえから、終わりのとこしえまで、つまり神様の御業の始まりから終わりまで、ということです。その間を、神様の放たれた時間の矢が、御心の実現に向かって流れているのです。そのすべての時間において神様の御業を認め、すべての民は「アァメン」(「その通りです」との意)と唱えて、讃美せよ、と詩篇の詩人は歌うのです。

 さらに、『コヘレトの言葉』はこのように語ります。

 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。(『伝道の書』3章11節、口語訳)

 健やかな時、病む時、喜びの日、悲しみの日、私たちの経験する時間では、良い時もあれば、悪い時もある。しかし、聖書は《神のなされることは皆その時にかなって美しい》というのです。そのことは、その時には分からないかもしれません。しかし、神様の御業が進み、神様の成そうとしておられる事が明らかにされていくに従って、分かってくるのです。神様が、わたしたちに永遠を思う心を授けてくださったとは、そのような神様の目的を感じとったり、信じたりする心を、与えてくださったということでありましょう。しかし、すべてが分かるのではありません。初めから終わりまで、すべてを見極めることは、とてもできないことだ、ともいうのです。

 時間の矢ということについて、もう一つだけ聖書を引用したいと思います。『使徒言行録』1章6〜7節

使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。(『使徒言行録』1章6〜7節)

 「時」は、神様が権威をもって定めてくだるものであって、人間が自由にすることができるものではない、といわれています。現在の物理学では、タイムトラベルの可能性も、理論的には考えられないといいます。しかし、理論として考えられたとしても、実際にはできないと、わたしは信じています。聖書には、時間の矢を止めたり、逆流させたりすること、つまり時間を支配することは、人間にはゆるされていないと書いてあるからです。 
神様が賜る「時」
さて、時間には、このような不可逆の流れとしての性質と、もう一つの性質があります。それは、一定の周期で、繰り返されるものの回数としての時間です。たとえば「あれからどのくらい経っただろうか」という時間を知るためには、一定の周期で繰り返される出来事に注目し、その繰り返しの回数を数えればいいのです。沈む夕日を三回数えたなら「三日」という時間が経ったとことになります。満月が次の満月になるまでだったら「ひと月」が経ったことになりますし、春の訪れを十度経験したならば「十年」ということになります。

 聖書は、このような時間のしるしとして、神様が太陽や月をお与えになった、と記しています。そのとおり、人間は古来より、地球の自転から「一日」という時間を、月の公転から「ひと月」という時間を、また地球の公転から「一年」や「季節」という時間を知るようになったのです。ガリレオが、振り子が一定間隔でゆれることを発見すると、それをもとに、より正確に時間を計れるようになりました。今はセシウム原子の持つ特性を利用したセシウム原子時計がもっとも正確な時計となっています。

 このように時間を数えることは、私たちの生活で、様々な役に立っています。種を蒔く時を知ったり、刈り入れの時期を知ったりすることもそうです。こうして、私たちが時間を定め、ひとつに集まって、神様を礼拝することができることもそうです。仕事の段取りを効率よくするためにも、時間を計ることが役に立ちます。健康によい規則正しい生活をするためにも時間を計ることが役立ちます。神様が、目的をもってお始めになり、その御業の成就である、終末に向かう時間の流れ(「時間の矢」)は、人間が知り尽くすことはできません。自由にすることもできません。しかし、その神様の支配なさっている終末に向かう時間の中で、私たちが有意義に生きることができるように、神様がお与えくださり、私たちが計ったり、用いたりすることができる時間もあるのです。

 「モーセの祈り」と言われている『詩篇』90編には、このように記されています。

 人生の年月は七十年程のものです。
 健やかな人が八十年を数えても
 得るところは労苦と災いにすぎません。
 瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
 御怒りの力を誰が知りえましょうか。
 あなたを畏れ敬うにつれて
 あなたの憤りをも知ることでしょう。
 生涯の日を正しく数えるように教えてください。
 知恵ある心を得ることができますように。
                   (『詩篇』90編10〜12節)


 「光陰矢の如し」、時間はまたたく間に過ぎていきます。その中で、私たちには、与えられた日を正しく数えることができる知恵を与えてくださいと、モーセは祈っています。そうでなければ、愚かなことに時間を費やして人生が終わってしまうからです。

 カトリックのシスターであり、教育者でもある渡辺和子さんがおっしゃっている言葉を借りれば、時間の使い方は、命の使い方です。優しい想いを抱いて時間を過ごせば、優しい人として人生を生きることになる。憎しみを抱いて時間を過ごせば、恨みがましい命を生きる人生となる。何も考えないでダラダラ過ごす時間が多ければ、そういう何もないダラダラとした人生で終わってしまう。いかに時間を過ごすか、どういう時間を生きるか、それによって、私たちの人生の質が決まってきます。神様が、日のしるし、季節のしるし、年のしるしを与え、時間を数えることを教えてくださったのは、モーセの祈りにありますように、正しく人生の日を数え、その日々を、時間を意味あるものとするためではありませんでしょうか。

 渡辺和子さんは、三十歳までキャリアウーマンをしておられましたが、思うところあって、修道院に入ります。そして、ボストンで、一年間の修練をなさるのです。それは、朝五時に起きて、夜八時四十五分に休むまで、ほとんどが単純労働の連続でした。そんななかで、渡辺さんは「どうしてお手洗いの掃除、草取り、お料理の下ごしらえ、選択、アイロンがけ、そういうことをして時間を過ごさなければいけないのだろう。もっともっと知的なもの、何か自分にふさわしい仕事、自分でなければできないことがあるのではないだろうか」と、そんな気持ちになってしまったといいます。そんなある日のこと、そのような気持ちを見透かされて先輩のシスターから叱られてしまうのです。

 ある非常に暑い日、八月の昼下がりだったと思います。わたしは、汗だくになって一生懸命に食器を並べていました。心の中では、「どうしてこんな仕事をしなければいけないんだろう。この時間があれば・・・」と先ほど申し上げたような思いがあったのだろうと思います。それが姿や顔に現れていたのかもしれません。後ろからご年配の目上のアメリカ人シスターに肩を叩かれました。
 「あなたは何を考えながらお皿を並べているんですか」とそのシスターはたずねられました。
 まさか正直に「つまらない、つまらないと思っております」とも言えなくて、
 「別に何も考えておりません」という返事をいたしました。
そうすると、そのシスターが厳しいお顔をなさって「あなたは時間を無駄にしています」とおっしゃったのです。・・・一瞬戸惑いました。心の中でつまらないと思い、他のことを考えながら仕事をしていたのは事実ですが、おしゃべりをしていたわけでも、だらだらと仕事をしていたわけでもないのです。仕事をしていなかったわけではないのです。にもかかわらず、「あなたは時間を無駄にしている」と言われたことが解せなくて、怪訝な顔をしていました。すると、シスターが今度は笑顔で
 「シスター、お皿を並べるんだったら、やがて夕食にお坐りになる一人一人のために祈りながらお皿を置いたらどうですか」とおっしゃいました。
 一枚一枚のお皿を、つまらない、つまらない、つまらないと思いながら置くのではなく、お幸せに、お幸せに、お幸せに、と心をこめて、愛をこめて置いていったらどうですか、そうすれば時間は無駄にならない、ということをその日、その時、教えていただきました。(「愛をこめて生きる」、『傷ついた葦を折らず』、シオン短期大学)


 神様は、私たちに測り得ない時間と、測って用いることができる時間を、お与えになっておられるのです。測り得ない時間を通して、私たちは神様のご経綸を思います。測り得る時間を通して、私たちに与えられた命を、心を込めて一日、一日を生きることを学ぶのです。

 両方が大切です。もし私たちが、神様が初めであり終わりである時間を思わず、ただ一定の周期の繰り返しに過ぎない時間だけを大切にして生きるならば、私たちの時間は本当に空しいものになってしまう。そのことも申し添えておきたいと思います。
地を照らせ
 最後に、神様が、太陽や月を、「地を照らす」ものとされたことを覚えたいと思います。これは以前にお話しした1章3節の「光」とは違い、私たちの地上を照らす、自然の光についてです。あるいは自然の熱も、そこに含まれているでありましょう。「自然の」と断りをいれたのは、それが私たちの霊的な命や知恵に関わることではなく、生物としての命に関わる光、熱についてだからです。

 大切なことは「照らす」ということではないか、と思います。太陽の光と熱は、生物にとって必ずしも有益でないことがあります。有害な光線や、高い熱が、命を奪うことがあるのです。「照らす」というのは、それが適度に注がれる、という意味を持っているのではありませんでしょうか。それには、前にお話しした大気圏の存在もあります。しかし、それだけではなく、地球と太陽との距離や、光の当たる角度が重要なのです。神様がすべてを整えて下さいました。それは、この後につづく動物たちの創造の準備でもあるのです。

 天地創造の物語る御言葉を、丁寧に読めば読むほど、神様の御業の素晴らしさを讃えずにはおれません。神様は行き当たりばったりのこの世界を造られたのではありません。ほんとうに緻密なご計画のもとに、この世界をお造りになっているのです。そして、わたしは思います。そのような神様が、私たちの命の必要を知らないはずがない、と。神様は、今も私たちのすべての必要を知り、それをあらかじめ準備して下さっているに違いないのです。だから、イエス様も、明日のことは思い煩うな、明日は明日自らが思い煩うであろうと、約束して下さったのではありませんでしょうか。私たちの救いのために、大いなる御業を進めて下さっている神様の時間の中で、私たち一人一人に与えられている時間を信仰をもって誠実に歩む者でありたいと願います。 
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