天地創造 10
「未知なる怪物の創造」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 第1章20〜23節節
新約聖書 ヨハネによる福音書 第16章33節
植物と動物 〜生の領域〜
 今日は、天地創造の第五の日に、神様が、水の中の生物と、空を飛ぶ翼ある生物を、お造りになった話をお読みしました。

 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」(『創世記』第1章20節)

 陸上の生き物が造られるのは、第六日となります。

ついでに、第六の日にまで目をやりますと、人間を含む地上の生物が造られたお話しがあります。こうしてみますと、神様はまず空と海と陸という環境をお造りになり(第二日〜第三日)、また陸上を植物で覆い(第三日)、それを空からの光で照らし(第四日)、その後に、生物をお造りになります(第五日〜第六日)。

 こうしてみますと、植物は、今日的な分類によれば生物でありますが、創世記では、生物環境の一部として捉えられていることがわかります。そもそも分類というのは、視点によって違うのは当然のことです。今日の科学的な分類と、聖書における分類が違うとするならば、それを本質の捉え方の違いにあるといえます。植物は、「緑」とも言われますように、葉緑素をもっており、これによって光合成を行っています。中学生の理科の授業みたいですが、光合成とは、光エネルギーによって、二酸化炭素と水からデンプンなどの炭水化物を造り出すことです。植物以外の動物は直接、間接にかかわらず、必ずそれを消費して生きているわけです。植物について記されている箇所をもう一度読んでみましょう。

 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。(1章11-12節)

 《種》という言葉が、くどいぐらいに出て来ます。《種》は、もちろん繁殖のためのものでありますが、植物のもたらす実り、もっと言えば、後に登場する動物たちの餌となる穀物や果実という意味も含まれているに違いありません。つまり、聖書的な分類によれば、自然界において植物の本質は生産者であり、動物の本質は消費者ということができるわけです。

 そして、聖書は、動物を、水の中に住むもの、空に住むもの、陸上に住むものとに分けています。ご承知のように、水の中で暮らしていても、クジラは魚類ではなく、哺乳類です。空を飛んでいても、コウモリは哺乳類です。聖書が、そのことを知らないというよりは、分類の視点が違うのです。哺乳類かどうかという生物学的な特徴は問題ではなく、それがどこに住んでいるかという生活領域を、命にとってより本質的なものとして捉えているということなのです。

 アドルフ・ポルトマンという動物学者が『人間はどこまで動物か』(岩波新書)という本を書いています。多くの生物学者が、人間と動物の類似性に着眼して、非常にゆっくりと、だんだんに、人間は動物から進化したと考えているなかにありまして、彼は、動物にはない人間の特徴に目をつけ、進化論の見直しを主張しました。その本の中で、彼はこのようなことを言っています。

 動物の本能的な行動を「環境に制約された」とよぶならば、人間の行動は「世界に開かれた」といわなければならない。このすばらしいことばが意味するのは、人間の創造的な行動という偉大な能力のことであり、これは個々人が多かれ少なかれ、それ相応に使用することができる一つの宝であり、またそれを浪費したり、あるいは埋もれさせたりできる一つの財産である。(『人間はどこまで動物か』、岩波新書、91頁)

 わたしたち人間は、潜水艦をつくって海の中を移動しようとか、飛行機をつくって空を飛ぼうとか、宇宙まで行って宇宙ステーションに住もうなどということを考えつきます。それは、人間にとって、環境は重要な意味を持たないということではありません。むしろ逆です。水の中に暮らす生き物は、陸上の環境に関心を示すことはありません。まして空の上とか、宇宙の環境を考えるなんてことは及びもつかないのです。それだけ自分の生きる環境というものに絶対的に支配されているということでありましょう。「井の中の蛙」なのです。

 それに対して、人間は周囲にあるすべての環境に関心をもち、その意味を考えることができます。井戸の中に閉じ込められていたら、井戸の外の世界に関心を持つ。そして、井戸の外に出て、つまり、冒険をするのです。こうして、ついには外の広い世界をも、自分の環境にしてしまう。それが、環境に対して開かれているということです。聖書的にいうならば、神様は、お造りになった世界の多くの領域を、人間のために開いてくださっているということです。 
海の怪物
 とはいえ、人間にとって海や空というのは、やはり不案内なところであり、人間にとって恐ろしいところです。人間が冒険をする存在であったとしても、冒険には常に危険が伴います。ですから、雲の上に雷様が住んでいるとか、龍がいるとか、海には魔物、怪物が住んでいるとか、そのような危険に対する警鐘をならしてきたのです。聖書もそうです。

 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。(21節)

 神様は、《大きな怪物》を造られたとあります。ルターは、これを「くじら」と訳しました。けれども正しく言えば、「海の怪物」です。これを恐竜だという人もありますが、そのように限定しないほうがいいと思います。しかし、たとえ人間の未知なる恐怖が、底知れぬ海の中に住んでいようとも、あるいは空の彼方に潜んでいようとも、それもまた神が造られ、良しとされたものであると、聖書はいっているのです。

 ヨブ記40章にはレビヤタンという怪物について書かれています。

 お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ
 その舌を縄で捕えて
 屈服させることができるか。
 お前はその鼻に綱をつけ
 顎を貫いてくつわをかけることができるか。
 彼がお前に繰り返し憐れみを乞い
 丁重に話したりするだろうか。
 彼がお前と契約を結び
 永久にお前の僕となったりするだろうか。
 お前は彼を小鳥のようにもてあそび
 娘たちのためにつないでおくことができるか。
 お前の仲間は彼を取り引きにかけ
 商人たちに切り売りすることができるか。
 お前はもりで彼の皮を
 やすで頭を傷だらけにすることができるか。
 彼の上に手を置いてみよ。
 戦うなどとは二度と言わぬがよい。
                 (『ヨブ記』40章25〜32節)


 神様が、ヨブの祈りに対してお答えになった御言葉の一部です。ヨブは、自分がかかった理不尽な病気のことで、神様にいろいろと文句を言っていました。「どうして私がこんな目にあわなければならないのか」、「何のために生まれてきたのかわからない」、「神様は間違っているのではないか」等々。しかし、神様は「お前は分かった風な口をきくけれども、いったい何がわかっているというのか? 私たちの知恵と力のどれほどを理解しているというのか? たとえばレビヤタンはどうか? お前はこれを造ることができるのか。これをてなづけることができるのか。支配することができるのか。」と、ヨブに問い返しているのです。

 レビヤタンとはどんな怪物なのか、知りません。けれども、イエス様は、《あなたがたは世で苦難がある》(『ヨハネによる福音書』第16章33節)と言われました。苦難とは、わたしたちがてなづけることができないもの、支配することができないものです。この世界を生きていく私たちには、ここに示されているレビヤタンのように未知なるもの、手に負えない怪物が、必ず存在するのです。私たちが神様の知恵と力を認めず、自分の知恵と力を頼みとして生きていこうとするならば、そのような怪物に立ち向かうことはまったくの困難です。

 けれども、レビヤタンですら、神様の知恵と力の産物であると知るならば、神様以外の何を恐れる必要がありましょうか。だから、イエス様は《あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。》と言われるのです。私たちにはまったく手に負えないような巨大な怪物ですらも、神様の知恵と力の御手のなかにあるのですから、恐れる必要はない。しかも、イエス様が、そのすべてに勝利されているのだから、まったく恐れる必要はないというのです。

 イエス様の勝利とは、私たちを亡ぼす力に対して、私たちを赦し、恵み、救う神様の愛の勝利を勝ち取られたということです。別の言い方をすれば、神様がわたしたちの味方になられるのです。それは困難がなくなるということではなく、恐れずに困難を負い、困難の中を歩みなさいということです。

 神様は、空や海に怪物だけをお造りになったのではありません。私たちが愛し、楽しむことができる多くの魚たち、鳥たちをお造りになりました。海に生き物がいなかったら、空に生き物がいなかったら、人間はこれほどまで海や空に興味をもったでしょうか。海や空が、人間にとって様々な不安や恐ろしさをもった領域であるにもかかわらず、私たちが親しみや好奇心を覚えるのは、そこに神様がお造りになった愛すべきものが生きているからでもあるのです。人間は海や空、あるいは宇宙に対して、冒険をしてきました。それもまた、神様が海や空に生き物をお造りになった目的であるかも知れないと思うのです。イエス様も「空の鳥を見るがよい」と言われました。そしてそれは、人生の様々な困難や未知なるものに対して、怖れるだけではなく、その中に勇気と信仰をもって踏み出せという、神様の御心でもあるのではないでしょうか。
勇気と信仰
 詩篇121編にこういう祈りがあります。

 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
 わたしの助けはどこから来るのか。
 わたしの助けは来る
 天地を造られた主のもとから。
 どうか、主があなたを助けて
 足がよろめかないようにし
 まどろむことなく見守ってくださるように。
 見よ、イスラエルを見守る方は
 まどろむことなく、眠ることもない。
 主はあなたを見守る方
 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
 昼、太陽はあなたを撃つことがなく
 夜、月もあなたを撃つことがない。
 主がすべての災いを遠ざけて
 あなたを見守り
 あなたの魂を見守ってくださるように。
 あなたの出で立つのも帰るのも
 主が見守ってくださるように。
 今も、そしてとこしえに。


 詩人は、何処かに旅立とうとしています。あるいはすでに旅の途中なのかもしれません。しかし、行き先をみると、大きな山々が、立ちはだかる怪物のように聳えているのです。それを見て詩人の脚はすくみます。「わたしの助けはどこから来るのか」と。

 冒険家として知られるリンドバーグは、ニューヨーク〜パリ間を単独で、そして無着陸で渡る冒険にチャレンジし、大西洋単独飛行に成功しました。飛行機に乗り込むとき、彼は「わたしは拷問の空間に踏み込むのだ」と言ったそうです。未知なるところへ旅立つには、それ相当の不安や恐れ、困難を覚悟しなければなりません。それに耐え抜くことを、「拷問」と表現したのでありましょう。この拷問に打ち勝つために必要なのは、勇気と信仰です。

 その勇気と信仰は、誰かにはじめから備わっているものではありません。あの人は勇気がある、あの人は信仰があると言うことがあります。しかし、それは「ある」ものではなく、「もつ」ものなのです。立ちはだかる怪物を目の前にしたとき、足がすくまないものは誰もいません。リンドバーグのような冒険家ですらそうなのです。

 どのようにしたら、私たちは勇気と信仰を持つことができるのでしょうか。それは祈りによって、天地を造られた主を信じることによって、です。詩篇の詩人は祈ります。

 わたしの助けはどこから来るのか。
 わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。


 高き山であろうと、深き海であろうと、いかなる怪物であろうと、天地を造り、私たちに人生を授けたまう神様の預かり知らぬものはありません。すべては神様の御手のなかにあるのです。
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