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今日は、天地創造の第五の日と第六の日にまたがったお話しをいたします。第五の日に、神様は水の中の生き物、怪物、空の鳥をお造りになりました。第六の日に、地上の生き物、すなわち家畜、這うもの、地の獣、そして私たち人間をお造りになりました。このように、神様は、第五の日と第六の日に、「生き物」をお造りになったのです。しかし、「生き物」とは何でしょうか?
驚くべきことに、「生き物とは何か」という極めて根本的な問いに対して、生物科学は、まだ厳密な定義をできないでいるといいます。
生き物とそうでないものの違いは、生きているかどうかということでありましょう。生きていなければ、物質です。人間も死ねば土に、つまり物質に帰るのです。『創世記』3章19節には、こう記されています。
お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。
しかし、その「生きている」ということが、厳密にどういうことか分からない。だから、生き物を定義することができないのです。
それでも、生命科学では、おおよそ三つの生き物の特徴をあげています。一つは、自己増殖能力をもっているということです。これは子孫を残すということです。二つめは、代謝能力をもっているということです。これは外から栄養を摂って、それをエネルギーに変換し、いらないものを外に出すということです。人間でいえば呼吸をしたり、食事をしたりして、それをエネルギーにして活動するということになります。三つめは、恒常性維持能力です。これは自分の身体を、一定に保ち続ける能力でありまして、これが維持できなくなりますと生き物は死んで、土に、つまり物質に帰るということになります。けれども、これだけでは生きているということを、厳密に説明することができないということを、生命科学は正直に認めているのです。定義ができないということはそういうことなのです。
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別の言い方をすれば、これは命とは何か、という問題です。物質に過ぎないものが、命を持つことによって、生きるという活動を始め、生き物と呼ばれるようになるわけです。ですから、生き物とは何か、生きるとか何か、その答えは、命とは何かということにある、と言えるわけです。
命とは何かという問いに答えることは、科学においてのみならず、聖書においても、簡単なことではありません。命とは、多面的なものであり、決して単純に語れないのです。たとえば、植物と動物は、生命体であることに違いはありませんが、同じ命をもっていると言えるでしょうか。動物と人間はどうでしょうか。そういうものを一緒くたにして、命とはこれこれこういうものであると語りえれば、命の本質が見えてくるかと言えば、そうではないのです。
先ほど、生き物には三つの特徴があると申しました。ご飯を食べて、子供を生んで、自己を維持する能力をもっている。それが生きるということであり、命の本質だと割り切るのは、あまりにも空しいのです。命なんてそんなものか、という思いになるのではないでしょうか。むしろ、一口には語れないものとして、植物の命、動物の命、人間の命を考え、それぞれの命がもつ特徴というものを明らかにしたほうが、ずっと命の重みというものを説明できるのです。
聖書は、そういう切り口で、命を語ります。前回もお話ししましたが、植物の命と動物の命は違うのです。植物は、天地創造の第三の日に造られました。ここでは、植物は生き物というよりも大地に属するもの、つまり環境として創造されているのです。もちろん、植物も生命体です。イエス様も、野の花と空の鳥が、共に神様の愛を受けて生きているということを、お教えになっています。けれども、それとはまた違う命をもったものが、第五の日と第六の日に創造されます。その生命体は「生き物」と呼ばれています。水の中に群がるもの、怪物、空の鳥、家畜、地を這うもの、地の獣、そして人間、聖書では、これらのものが「生き物」と呼ばれているのです。
同じ生命体であるはずの植物は、「生き物」と呼ばれていません。いったい何が違うのでしょうか? ここからは非常に細かい話になって恐縮なのですが、今日はちょっと我慢して聞いて欲しいと思います。
「生き物」と言う言葉を、聖書原典にあたりますと、「生けるネフェシュ」と書いてあるのです。植物も動物も生命体ですが、水の中に群がるもの、怪物、空の鳥、家畜、地を這うもの、地の獣、そして人間は、「生けるネフェシュ」(生き物)であり、植物は「生けるネフェシュ」(生き物)ではありません。
では、「ネフェシュ」とは何でしょうか? これは聖書のなかで、いろいろな使われ方をしている言葉で、訳もさまざまなのですが、ギリシャ語訳聖書では、「プシュケー」と訳されています。「プシュケー」は、日本語で「魂」と訳される言葉です。人間や動物は、「魂」のある生命体であり、植物は、「魂」がない生命体である。そういう区別を聖書はしているということなのです。
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では、「魂」(ネフェシュ)とは何でしょうか。それが分かってくると、人間や動物の命とは何か、人間や動物にとって生きるというのはどういう本質をもっているのか、ということが見えてくるのではないでしょうか。そこで、幾つかのネフェシュの用例をみてみたいと思います。
確かに富は人を欺く。
高ぶる者は目指すところに達しない。
彼は陰府のように《喉》(ネフェシュ)を広げ
死のように飽くことがない。
彼はすべての国を自分のもとに集め
すべての民を自分のもとに引き寄せる。
(『ハバクク書』2章5節)
ここで、《喉》と訳されている言葉が、ネフェシュです。富に欺かれ、高ぶる者は、飽くことを知らず、何でものみ込もうとネフェシュをぱっくりとあけて、広げているというのです。
彼らは、荒れ野で迷い
砂漠で人の住む町への道を見失った。
飢え、渇き、《魂》(ネフェシュ)は衰え果てた。
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと
主は彼らを苦しみから救ってくださった。
主はまっすぐな道に彼らを導き
人の住む町に向かわせてくださった。
主に感謝せよ。主は慈しみ深く
人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
主は渇いた《魂》(ネフェシュ)を飽かせ
飢えた《魂》(ネフェシュ)を良いもので満たしてくださった。
(『詩篇』107編4-9節)
ここにも、飢え渇いた人、枯渇し、衰弱した人がでてきます。それを、聖書は、ネフェシュが衰え果てたと表現しています。そして、神様は、その乾いたネフェシュ、飢えたネフェシュを良いもので満たしてくださる御方だ、と讃美されているのです。ここでは、ネフェシュが「魂」と訳されていますが、「喉」と訳しても少しもおかしくありません。むしろその方がストレートで分かりやすいのではないでしょうか。
このように、ネフェシュの原義は、「喉」なのです。「喉」というのは、食べ物や水、また呼吸、そのように生きるために必要なものを摂取する器官です。それゆえに、飢えや渇きを感じ、満たそう満たそうと、喘ぎます。日本語にも、「喉から手が出る」という言い方がありますが、ネフェシュは、そのように常に満たされ、潤されることを求めている、激しい欲望の器官だと言えます。
飽き足りている《人》(ネフェシュ)は蜂の巣の滴りも踏みつける。
飢えている《人》(ネフェシュ)には苦いものも甘い。(『箴言』27章7節)
ここで、ネフェシュは、「人」と訳されています。ネフェシュとは、肉体の一部ではなく、あるいは肉の中に閉じ込められた何かではなく、人間や動物そのものであるという考えが、ここにみられます。「肉体は魂の牢獄である」とプラトンは言っていますが、聖書は違います。飢え、渇き、枯渇し、たえず満たされることを、潤されることを求めずにはいられない、そのためにいつも喘いでいるもの、そういう存在を、「生けるネフェシュ」、つまり「生き物」と、聖書は言っているわけです。
そうしますと、この『箴言』の言葉は、とても意義深いことを言っていることが分かります。本来、ネフェシュは、飢えや渇きを感じるものなのです。ところが、ネフェシュが飽き足りてしまう。すると、蜜のように甘いものも、足で踏みつけるようになってしまうのだ、というのです。
今の日本の現実を、見事に言い当てたような言葉です。飽食の時代などとも言われ、食物だけではなく、何でも求めずして与えられる。すると、神様や他人に、感謝する気持ちがなくなってしまう。お陰様という気持ちがありませんから、ものすごく我が儘で自分勝手な考え方をする人が増える。また、生きる意味や、意欲を、簡単に失ってしまったり、命を粗末にするような事件が起きたりする。つまり、飽き足りることによって、ネフェシュが衰え、弱くなっているのです。
人間だけではありません。同じネフェシュをもつ動物も同じです。動物園の動物は、人間と同じような病気になったり、文明病のような非常に人間くさい習癖をもつようなったりするそうです。ネフェシュが、衰えているのです。
逆に、ネフェシュが、あまりに飢え渇いてしまう。そうしますと、悪食といいますか、貪欲といいますか、本来、自分のためにならない苦いものでも、甘いものであるかのように求めるようになってしまう。たとえば道を踏み外した生き方をし、あたかもそれが自分を満たす生き方だと思い込んでしまう。これもまたネフェシュの衰えなのです。
ネフェシュというのは、飽き足りるのでもなく、飢えすぎて枯渇するのでもなく、生き生きとした渇望であることが、必要なのです。ネフェシュは、渇きです。飢えです。苦しみであり、悩みであり、弱さであり、貧しさです。しかし、それは、本来、生命を衰えさせるものではなく、むしろ生命を活力あるものとするものなのです。
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なぜ、渇き、飢え、苦しみ、悩み、弱さ、貧しさであるネフェシュが、生きる力となるのでしょうか。ネフェシュとは、その貧しさ、枯渇をもって、神様に向かうものだからです。そして、神様は、御自分のもとに来るネフェシュを満たし給うお方なのです。
わたしの《魂》(ネフェシュ)よ、主をたたえよ。
わたしの内にあるものはこぞって
聖なる御名をたたえよ。
わたしの《魂》(ネフェシュ)よ、主をたたえよ。
主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
(『詩篇』103編1-2節)
主は従う《人》(ネフェシュ)を飢えさせられることはない。
逆らう者の欲望は退けられる。
(『箴言』10章3節)
困窮し、弱り果てているネフェシュを持つからこそ、私たちは神様に向かって生きる者となり、神様の御計らい、恵みを味わう者とされるのです。パウロが、《わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときこそ強いからです》(『コリントの信徒への手紙二』第12章10節)と言ったのは、そのような意味においてなのです。
天地創造は、動物と人間、つまりこのような生きたネフェシュ(「生き物」)の創造によって終わります。つまり、天地創造の目的は、このような生きたネフェシュの創造にあったともいえるのです。
では、なぜ、神様は、生きたネフェシュをお造りになったのでしょうか。もちろん、それは神様ご自身のためです。しかし、この神様のためとは、神様が、人間や動物の奉仕を必要としているという意味ではありません。神様が、生きたネフェシュに仕えるのです。そして、神様が、生きたネフェシュを満たし、人間や動物を喜び愛されるのです。そのために、神様は、生きたネフェシュなる存在を創造されたのです。
今日お読みした『ヨハネの黙示録』第4章にでてくる四つの生き物は、それを物語っていると言えましょう。もちろん、これを単純に動物ということはできませんが、獅子のような第一の生き物は、地の獣を象徴しています。若い雄牛のような第二の生き物は、家畜を代表しています。人間のような顔を持つ第三の生き物は、人間を象徴しています。空を飛ぶ鷲のような第四の生き物は、空を飛ぶ鳥を象徴しています。これらの生き物が、神の玉座のすぐまわりにいて、昼も夜も神を讃美していたというのです。
人間は、神様を讃美するものとして造られた。これはいつもお話していることです。しかし、動物もまた神様の喜びとして、神様の愛し給うものとしてお造りになり、神様を讃美するものとして、創造されたのです。 |
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聖書 新共同訳:
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