天地創造 12
「共にうめく被造物」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 第1章20〜30節
新約聖書 ローマの信徒への手紙 第8章18-25節
父なる神
 今日も、天地創造の第五と第六の日の御業について、学びたいと思います。第五の日と第六の日にわたって、神様は、地上の生き物をお造りになりました。これをもって、神様の天地創造の働きを終えられ、第七の日に休まれます。このことから、天地創造の最終目的は、生き物をお造りになることにあったことがわかります。そのために、神様は、第一の日から第四の日にかけて、この宇宙を造り、その中に地球を造り、空、海、陸、植物を造りになります。これらすべては、生き物が生きていくための環境だったのです。

 そこまでして、神様が生き物を造ろうとされた御心は、どこにあるのでしょうか。結論からいいますと、神様は「父」になろうとされたのです。そのことは、神様が、生き物をどのようなものとして、お造りになったかを知るとことで、明らかにされます。

 生き物とは何かということを、先週は丁寧にお話しをさせていただきました。「生き物」と訳されている聖書の言葉は、「生けるネフェシュ」と書いてあります。植物は、「生けるネフェシュ」とは言われておらず、第五と第六の日に創造された、水の中の生き物、空の鳥、地上の動物、そして人間だけが、「生けるネフェシュ」、つまり「生き物」と言われているのです。

 ネフェシュとは、飢え渇いた命です。精神的な飢えや渇きだけのことを言っているのではありません。肉体的な飢えや渇きももちろん含まれています。人間以外の動物などの場合は、そのような肉体的な飢えや渇きの方がずっと大きいでありましょう。精神的であろうが、肉体的であろうが、そのような飢え渇きをもって、それを満たそうとして生きる、それが生き物なのです。

 神様は、満ちたりている存在として、生き物を、ひいては私たち人間を、お造りにはなりませんでした。野生の動物は、いつも恐れや不安を抱き、飢え渇いています。人間もまた、いつも悩み、苦しみ、何かを求めています。けれども実は、それが神様がお造りになった生き物の姿なのです。その御心は、ひとえに、神様が、すべての生き物の父なる神となろうとされたことにあります。すべての生き物は、神様によって養われ、神様によって守られ、神様のうちに満足と平安を覚えるように、造られているのです。

 「空の鳥を見なさい」という、イエス様の有名な説教があります。『マタイによる福音書』6章25節から、少し読んでみましょう。

 だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

 自分の命のことで思い煩うな、と言われています。「こうしたらいいのではないか」、「ああしたらいいのではないか」、「もうだめなのではないか」、そういうことを神様抜きに、ひとりで考えていてはいけないということです。なぜならば、命とは、肉的にも、霊的にも、神様によって養われ、守られ、安息を与えられるものだからです。それによって、命の主であり、天の父なる神様の、御名が誉め称えられるのです。礼拝すると言ってもよいと思います。思い煩うことは、神様がお定めになった、生き物の生き方に反することなのです。

動物と人間の親しい関係
動物も、人間も、ネフェシュをもつものとして、神様によって造られました。神様が、すべての生き物の、父としてあがめられるためです。動物も、人間も、すべては神様によって養われ、命の主であり、天の父である神様の御名をあがめるものとして、造られたのです。そういう意味で、聖書において、動物と人間は同じ生き物であり、たいへん近しい関係にあります。特に、陸上の生き物と人間は、同じ第六の日に創造されました。このことだけをみても、人間と動物は兄弟関係にあると言ってよいでしょう。26-28節節を読んでみます。

 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

 人間と動物との関係が記されています。海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配するようにと、神様は人間に命じられました。人間は、生き物たちの頂点に立つ存在であり、生き物たちを従わせ、支配する権能を、神様から委ねられたものであるということができます。

 それは、人間が思うままに生き物を扱っていいということではありません。続く29-30節には、こう記されています。

 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。

 神様は、生き物を養われる天の父です。ここには、神様が、人間や動物に、植物を食糧としてお与えになった、ということが書かれています。もうひとつ、動物と人間は、本来、草食であった、ということもわかります。人間が動物を殺して食べることは、想定されていないのです。動物が他の動物を殺して食べるという、肉食動物のことも、想定されていません。すべての生き物は、植物を食料とするものとして造られました。

 神様がお造りになった世界は、本来、弱肉強食の世界ではなかったのです。『イザヤ書』第11章には、ダビデの子孫から、神様の御心を世に実現する真の王が現れて、今ある世界が、本来の姿に戻される時のことが書かれています。そして、こう言われています。

 狼は小羊と共に宿り
 豹は子山羊と共に伏す。
 子牛は若獅子と共に育ち
 小さい子供がそれらを導く。
 牛も熊も共に草をはみ
 その子らは共に伏し
 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
 幼子は蝮の巣に手を入れる。
 わたしの聖なる山においては
 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
 水が海を覆っているように
 大地は主を知る知識で満たされる。
                   『イザヤ書』第11章6-9節


 すべての命が、傷つけ合うことなく、共に生きるようになる。それが神様の御国です。

 人間と動物の親密なる関係は、『創世記』第2章18-19節にも記されています。

 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

 神様が、人間の友として、野のあらゆる獣、家畜、空のあらゆる鳥をお造りになり、人間のところへ連れてこられた、と書かれています。完全な意味では、人間は《自分に合う助ける者は見つけることができなかった》とありますが、人間は、動物たちに名前をつけて、彼らと親しんだ様子が、ここにうかがえます。

 また、ここにも出て来ますし、『創世記』第1章24節にも出て来ますが、神様は、《家畜》をお造りになった、と書かれています。《家畜》は、人間が、人間のために飼い慣らした動物のことです。しかし、聖書によりますと、動物の中には、初めから家畜として、つまり人間に飼い慣らされるような性質をもった動物として、神様につくられたものがいるというのです。

 聖書には、人間と動物の親しい関係を物語る有名な話があります。「ノアの箱舟」と言われる大洪水の物語です。神様は、罪を重ねる人間の姿を見かね、大洪水をもって、この世界を一掃される決心をなさいました。天地創造の第二の日、第三の日に、神様が地上の水を分けられて、大空と海と陸をお造りになったということが書かれていましたが、もう一度、陸を水の中に沈めてしまおうと、心を決められたのです。当然、人間だけではなく、地上の生き物は、みな滅んでしまうことになりました。人間の罪によって、地上の生き物が苦しめられているということは、逆接的ではありますが、人間と動物の関係の深さを物語っていると言えましょう。

 そして、ご存知のように、神様は、その滅びの中から、ノアとその家族、そして動物たちを、お救いになるのです。さらに、神様は洪水の後、ノアとその家族だけではなく、動物たちとも、二度と亡ぼしつくすことはないという契約を結ばれました。『創世記』第9章9-11節、

 神はノアと彼の息子たちに言われた。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」

 このように、人間と動物は、共に神様を養い給う父として仰ぐものであるだけではなく、共に神様の救いが約束されており、救いを待ち望むものであるということが言われているのです。『詩篇』第36編7節には、こう記されています。

 恵みの御業は神の山々のよう
 あなたの裁きは大いなる深淵。
 主よ、あなたは人をも獣をも救われる



  
動物のうめき
 しかし、実は、この大洪水の後で、人間と動物の関係に、大きな変化が生じました。ひとつは、人間が、自分の身代わりとして、動物を殺したということです。第8章20節、

 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。

 『創世記』第4章には、アベルが、羊の初子を神様にささげたという話がありますが、殺したとは書いてありません。しかし、ここでは、《焼き尽くす捧げ物として祭壇の上にささげた》と、はじめて生け贄としての動物が殺されたことが、はっきりと書かれているのです。

 それからもう一つ、人間が生き物を食糧とすることを、神様が正式に許可されているということです。第9章3-4節

 動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。

 動物の生け贄、肉食の許可、これらが何を意味するのかは、わたしはまだ明確な答えを掴んでいません。しかし、これは天地創造の本来的な人間と動物の関係ではなく、そこに人間の罪が介在している、二次的なことであるということは明かなのです。

 今日、あわせてお読みしました『ローマの信徒への手紙』第8章で、パウロは、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている被造物ということを語っています。被造物というのは、動物に限ったことではありません。動物たちも含め、神様が造られたすべて世界が、神様の救いの日を待ち望んでいるのです。その救いとは、神の子たちの出現であるとも言われています。

 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。

 神の子たちとは、イエス様の御救いによって、神様のもとに立ち帰った人間のことです。人間は、神様がお造りになった被造物の冠です。すべての生き物を治める力をも授かった存在です。その人間が、神様を離れて生きる存在となってしまった。そのことが人間ひとりの問題ではなく、被造物全体のうめきとなったのです。ですから、人間が神様に救われて、ふたたび神の子としての命を生きるようになることは、人間の救いのみならず、被造物全体の救いとなるのだというのです。

 今日は、人間と動物の関係ということをお話ししました。人間と動物は、ほんとうに親しい関係にあるのです。人間も、動物も、神様を讃美する存在として造られました。しかし、私たちの罪のゆえに、動物たちもまた苦しみのなかにあり、救いを待ち望んでいます。

 そのことを考えますとき、人間は、なんと自分のことしか考えていない存在なのだろうかということを思わされます。私たちが待ち望む救いは、自分が苦しみから解き放たれることばかりではありませんでしょうか。自分も、苦しみから解き放たれなければなりませんでしょう。しかし、自分だけではなく、人間だけでもなく、神様が造られた被造物のすべてと共にうめき、待ち望み、共に救われることを、私たちの祈りとし、希望としていくことが必要なのです。 
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