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いよいよ、私たちは、人間の創造について学びます。先週、先々週と、天地創造の第五の日、第六の日にわたって造られた「生き物」についてお話しをしてきました。そして、人間もまた生き物であり、水の中の群がるもの、空を飛ぶもの、地上の動物と平和に、共存共栄することが、神様の御心である、と申し上げたのです。人間だけではなく、すべての生き物は神様に祝福されており、神様によって生きるものであり、また神様の救いの約束をいただき、それを待ち望んでいるのです。
しかし、それと共に、神様は、格別なる思いをもって、私たち人間を造られました。
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」
《造ろう》、と言われています。これまで天地創造の話をずっと読んできましたが、《造ろう》という、神様のお気持ちを如実に表すような言葉はありませんでした。神様が、そのようにあれ、そのようになれ、と命じられると、すべてがそのように形作られ、それをごらんになって良しとされた、と記されているだけだったのです。
これまでお話しをしてきたように、神様は、実に丁寧に、秩序と調和を備えた美しい世界を、お造りになってきました。神様が、人間の創造の一歩手前で、その御業を終えられたとしても、つまり人間が造られないまま、天地創造を完成されたとしても、その御業は完璧だったと言っても良いでありましょう。
しかし、神様の御業は、そこで終わりませんでした。むしろ、これからが、いよいよ天地創造の本来の目的にとりかかるのだ、と言わんばかりに、「さあ、人を造ろう」と仰ったのです。「さあ」という言葉はありませんが、《造ろう》という言葉には、そのようなニュアンスがあります。家を建てる人が、何日もかけて土を掘り、そこに柱を埋めてしっかりと土台を築き終えたときに、やっと一息つき、喜ばしさをもって、平らかで固い地面を見つめ、「さあ、ここに家を建てよう」と言う。あるいは、種を蒔こうとする人が、荒れ果てた土地を開墾し、切り株や石を取り除き、水路を通して、ようやく「さあ、耕して種を蒔こう」と言う。そのような喜ばしい希望に満ちたお気持ちをもって、神様は「さあ人を造ろう」とおっしゃっておられるのです。これまでの天地創造の御業は、人間の創造のための準備であったのです。
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そうだとしたら、聖書が語る世界観は、あまりにも人間中心である、と抵抗を感じる人があるかもしれません。しかし、そうではないでしょう。聖書が、常に、語りかけていることは、この世界の中心は、人間ではなく、神様であるということなのです。『イザヤ書』45章18節にはこう記されています。
神である方、天を創造し、地を形づくり
造り上げて、固く据えられた方
混沌として創造されたのではなく
人の住む所として形づくられた方
主は、こう言われる。
わたしが主、ほかにはいない。
この世界は、神なしにできたのではありません。偶然に偶然が重なって、このような美しい世界ができ、そこに、たまたま人間が生まれたというのではないのです。あるいは、子どもが、画用紙に、色とりどりのクレヨンで、思いつくままに落書きをしたように、まったく無計画に、思いつくままに、無造作に、神様がお造りになったというものでもありません。神様は、最初から、人間をお造りになるという目的をもっておられました。その目的を、完全に果たすために、神様の知恵に従って、この世界をお造りになったのです。
別の言い方をするならば、神様は、最初から、やがて生まれる人間への愛と、細やかな配慮をもって、この天地創造のすべてのものを創造なさったのです。この世界のすべてのものは、光も闇も、空も海も、陸も植物も、太陽や月も、季節も、すべての生き物も、人間にとって不要なものはひとつもなく、いたるところに、神様の愛が満ちていると言ってもいいでしょう。
詩篇74編13-17節に、このように記されています。
あなたは、御力をもって海を分け
大水の上で竜の頭を砕かれました。
レビヤタンの頭を打ち砕き
それを砂漠の民の食糧とされたのもあなたです。
あなたは、泉や川を開かれましたが
絶えることのない大河の水を涸らされました。
あなたは、太陽と光を放つ物を備えられました。
昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです。
あなたは、地の境をことごとく定められました。
夏と冬を造られたのもあなたです。
《昼はあなたのもの、そして夜もあなたのもの》と、詩篇の詩人は讃美します。人間にとって、昼のように明るく、喜ばしく、生き生きとした時間だけではなく、暗く、寂しく、恐れや不安を掻き立てられる闇夜もまた、神様が、人間への愛をもって備えられた時の間なのです。同じように、詩人は、夏だけではなく冬も、そしてレビヤタンのような怪物も、あるいは人間の限界を暗示するような地境も、すべては神様のお造りになったものであり、それゆえに、そこには私たちに対する神様の愛があるのであり、御名を讃えつつ、それを受けるのであると、そのように言っているのです。
このような信仰は、決して人間中心の世界観からは生まれてきません。日本人として、初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹が、ある随筆のなかに科学者らしい視点でとても興味深いことを書いています。
自然は曲線を創り、人間は直線を創る。往復の車中から窓外の景色をぼんやり眺めていると、不意にこんな言葉が頭に浮かぶ。遠近の丘陵の輪郭、草木の枝の一本一本、葉の一枚一枚の末にいたるまで、無数の線や面が錯綜しているが、その中にひとつとして真直ぐな線や完全に平らかな面はない。これに反して、田園は直線をもって区画され、その間に点綴(てんてい)されている人家の屋根、壁等のすべてが直線と平面とを基調とした図形である。(中略)人間はなぜに直線を選ぶか。それが最も簡単な規則に従うという意味において、取り扱いにもっとも便利だからである。(「自然と人間」、『湯川秀樹集』、井上 建編)
自然は、人間にとって、そのままでは扱いにくいものなのでありましょう。ですから、無理矢理に直線を引いたり、平面をつくったりしているのだ、というのです。
言い換えれば、神様が、人間の住むところとしてお造りくださった世界は、必ずしも人間に都合のいいことばかりの場所ではないのです。自然は、しばしば、人間に多くの恐れや不安を与えます。前にもお話ししましたが、神様は、レビヤタンのような恐るべき魔物や怪物を、この自然界に、ごろごろとお造りになったのです。しかし、詩篇の詩人は、それさえも人間を養うためであったと讃美します。人間中心の世界観をもっていたら、そうはいえません。「なぜ、神様はこんな余計なものを創ったのか。なぜ、あれがないのか、これがないのか」と、不平不満で溢れてしまうでありましょう。
そうではなく、神が中心であると知るときに、はじめて、神は、人の住む所として、この世界をお造りになった、夜もあなたのもの、冬をつくられたのもあなたです、と言えるようになるのです。そして、この世界のすべてのもの、すべての季節を、神様の人間に対する御心として、受け取ることができるようになるのです。 |
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もう一度、『創世記』のみ言葉に耳を傾けて見ましょう。
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」
唯一の神であり、単独者である神が、《我々》と言っていることに、戸惑いを覚えます。神様が、天使たちに呼びかけているのだと説明する人や、いや、お造りになった大地によびかけたのだ、と説明する人や、いやいや神様は三位一体だから、ご自分の中に呼びかけたのだと説明する人がいて、一定の解釈があるわけではありません。確かに唯一なる神様が、《我々》と言うのは、奇妙なことなのです。これをもって神様がたくさんいたというような多神教を唱えるのでなければ、どのような節も一理あると言えましょう。
正直にいって、私にはどれが正しいのか分かりません。ただ、《我々に》という言葉のもつ響きを考えますと、神様のうちなるもの(知恵とか、力)であれ、外なるもの(天使とか、大地)であれ、有りと有るすべてのものが総動員されて、人間が創造されたという印象を受けるのです。それだけ、神様は、人間の創造に情熱と熱心をもっておられる、ということでありましょう。私たちは、このような神様の熱い思いをもって、あらゆる御業が総動員されて、創造されたのです。
そのような人間の存在を冒涜する者は、神を冒涜する者です。世の中には、親から望まれないで生まれてきた子どもたちがいます。生まれてきても愛されず、蔑まれて育つ子どもたちがいます。重い病や、障碍を抱えて生まれてきた子どもたち、それゆえに存在を蔑まされている子どもたちがいます。自分が生まれてきたことを、祝福してもらえないということ、自分の存在を愛してもらえないということ、それほど辛いことはありません。そのような人たちは、「自分なんか生まれてこないほうがよかったのだ」、「わたしは生まれてきてはいけなかったのだ」、「死んだほうがましだ」という思いに、一生つきまとわれて生きることになっても、仕方がないのかもしれません。
しかし、間違ってはなりません。私たちに存在を与えたのは、親でもなければ、世間でもありません。私たちに、この存在を与えたのは、神様なのです。そして、神様は、いつでも喜ばしい、誇らしい思いをもって、「さあ人を造ろう」と、私たちを形作られたのです。
わたしたちは、他のだれでもなく、神様に望まれて生まれてきました。親が自分の存在を呪い、世間が自分の存在を無視し、自分自身ですら自分の存在を憎んでいようとも、神様が、私たちの存在を望んでおられるという事実は、ひっくりかえらないのです。
二千年前も、誰にも望まれないひとりの男の子が誕生しました。母親も、彼をみごもることを望んでいませんでした。彼は、家畜小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされました。彼は、すべての人を愛しましたが、すべての人に裏切られ、憎まれ、十字架にかけられ、殺されました。そのまったき孤独の中で、彼は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。しかし、神様は、彼を見すてていたのではありませんでした。彼は、だれよりも神に愛され、祝されていた神の御子だったのです。
人間の視点でみれば、自分や他人の存在の価値が、場合によって、無きに等しいように見えることがあります。ですから、その価値を高めようと、自分で一生懸命に努力し、何かになろうとする。あるいは、他人を何かであらせようとする。ところが、努力しても変えることができないことは、たくさんあります。そうすると、自分を責めたり、他人を責めたりすることに、終始するようになってしまうのです。それは存在を傷つけることであり、神様を傷つけることになるともしらずに・・・・
私たちは、自分の目的をもって、自分の力で、生まれてきたのではありません。親の目的のために、親の力で生まれてきたのでもありません。まして世間の人々によって、でもありません。ただ神様が、わたしたちの存在を望み、それをお与えになったのです。そのような視点で自分や他人という存在を見直してみたらどうなるでしょうか。こんなお話しがあります。
わたしは何年もノイローゼでした。わたしは心配し、落胆し、自分のことしか考えませんでした。皆がわたしに変わるように言い続けました。皆がわたしに、わたしはノイローゼだと言い続けました。
そしてわたしは皆を恨みました。彼らをもっともだと思いました。そして変わりたいと願いました。でも変わることができませんでした。どんなに変わろうと努力しても。
わたしを何よりも傷つけたのは、親友もわたしをノイローゼだと言い続けたことでした。彼もまた、わたしに変われと言い張るのでした。そしてわたしも、親友の言うことをもっともだと思いました。でもわたしは、彼を恨めしく思う気持ちを抑えられませんでした。わたしは気力を失い、何をすることもできなくなりました。
それからある日、彼はわたしに言いました。「変わってはいけない。君のままでいなさい。君が変わろうと変わるまいと、どうでもいいことだ。わたしはありのままの君が好きだ。君が好きなんだよ」
これらの言葉は、わたしの耳に音楽のように響きました。「変わってはいけない。変わってはいけない。変わってはいけない・・・わたしは君が好きだ」
そしてわたしは安心しました。そしてわたしは生き返りました。そして、ああ、なんという不思議! わたしは変わったのでした!
今、わたしは知っています。わたしが変わろうと変わるまいと、わたしを愛してくれるだれかを見つけるまで、わたしはほんとうに変わることができなかったのだということを。(アントニー・デ・メロ、「変わってはいけない」、『小鳥の歌』)
おそらく親友というのは、イエス様のことでありましょう。イエス様は私たちが変わることを望んでおられます。私たちも胸に手を当てて考えてみれば、イエス様が自分にもっと変わるようにと願っておられるのを感じているかもしれません。そして、そのことを大きな重荷に感じているかもしれません。自分は駄目だ。イエス様の求めに応えることができない、と。
しかし、私たちはまた、別のイエス様の御心を知るのです。イエス様は、私たちにこう言っておられます。あなたが変わろうと変わるまいとそんなことはどうでもいい、わたしはあなたを愛していると。一見、矛盾するようなその言葉に、私たちは救いを感じ、癒されます。そして、不思議なことに私たちは変わっていくのです。
私たちが神様に望まれて存在しているということ、今日はそのことに感謝し、その愛を一週間の力として歩んで参りたいと願います。 |
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聖書 新共同訳:
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