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今日は、人間の創造について第三回目のお話しをいたします。これまで、三つのことを申し上げてきました。
ひとつは、神様が、天地創造をはじめられた目的は、人間の創造にあった、ということです。そのことが「人を造ろう」という神様のお言葉の言外に匂わされているというお話しでした。
ふたつめは、神様は、十分なる恵みの中に、私たちをお造りになった、というお話しをしました。神様は、天地創造の最後に人間をお造りになりました。人間をお造りになる前に、この世界は、見事なまでに完成していました。その素晴らしい神様の知恵と力の満ちた世界を、人間へのプレゼントとして、神様は、私たち人間をお造りになったのです。
三つめのことは、人間は神の似姿に創られたということです。神の似姿とは何か? 人間のどこが神の似姿なのか? 人間の姿形なのか、あるいは人間の能力のことなのか、はたまた精神性のことなのか、いろいろな解釈が有り得ます。しかし、結局のところ、神様を見たことがないわたしたちの考えることでありますから、いずれの答えも遠からずとも当たらず、と言わざるを得ません。人間が神の似姿に創られたことが物語る、唯一、確かなことがあるとすれば、神様がわたしたち人間を見るときに、「これぞ私の似姿だ」と思っていらっしゃるということです。
それは、私たちが自分が産んだり、育てたりした、子供を見る眼差しに似ております。そういう意味で、神の似姿に創られたということは、神の子らとして創られたということと同じことなのです。そして、この神様の格別なる眼差しが、言い換えれば、産みの親としての眼差しが、私たちに注がれているということです。
先週は触れることができませんでしたが、「神の似姿」について少し補足しておきたいと思います。
『ルカによる福音書』3章23〜38節に記されている「イエスの系図」をごらんいただきたいのです。『マタイによる福音書』1章にも「イエスの系図」が記されているのですが、それぞれの系図にはいくつか違いがあります。その一番の違いは、マタイが、アブラハムの子孫を辿ることによって、イエス様の誕生を物語っているのに対して、ルカは、イエス様から系図をさかのぼる書き方をしている、ということです。もちろん、そこにはアブラハムの名もでてきます。しかし、ルカはさらにさかのぼりまして、最初の人間である「アダム」に至り、さらに「神に至る」と書いているのです。つまり、イエス様は、アダムの子であり、神の子であるということです。
ところが、この系図には一つ落とし穴があります。系図の最初にこう書いてあるのです。
イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、(『ルカによる福音書』3章23節)
《イエスはとヨセフの子と思われていた》と、イエス様とヨセフの関係がぼかされています。これはたいへん正直な書き方でありまして、マリアは聖霊によってみごもったのです。イエス様は、マリアの子ではありますが、ヨセフとの血のつながりはありません。せっかく、ここでヨセフの系図を示しても、それとイエス様との関係が見えなくなければ、何の意味もなくなってしまいます。
マタイは、この点をどういう書き方をしているかといいますと、《マリアの夫ヨセフ》と書いております。その上で、マリアからイエス様がお生まれになった、という書いているのです。ヨセフとイエス様との関係は、血のつながりではないとしても、結婚という契約上の関係をマリアとヨセフがきちんと結んでいる、と書くことによって、イエス様とヨセフの関係もきちんと結ばれていることを言っているわけです。
しかし、ルカは、それさえも曖昧にしている。この曖昧さを浮き彫りにしているのは何か。《ヨセフの子と思われていた》とは、「人の考えによればヨセフの子であった」ということです。しかし、「人の考え」ではない考え、つまり神様からみれば、そうではなかったのです。
ヨセフは、アダムの子孫であり、神の創り給う存在として、神にまでさかのぼる存在ですが、イエス様は、まったく別次元の御方なのです。つまり、私たちが神の子であるということと、イエス様が神様の御子であるということはまったく別次元のことである、ということです。『コロサイの信徒への手紙』1章15節によれば、《御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方》なのです。
そういう意味で、イエス様は「神様のひとり子」と言われます。私たちは神に造られた「神の子たち」でありますが、イエス様は「神のひとり子」なのです。その神様のひとり子であるイエス様が、アダムの子孫のただ中に身を置いてくださった。しかも、人には気付かれぬようにひっそりと身を置いてくださった。そのことが、この系図の表していることです。それは、私たちが神の似姿に造られたということを思い起こさせ、その位置に連れ帰るためだった、と言っていいのです。
私たち人間は、神の似姿、あるいは神の子供たちとして、神様に造られた気高い存在です。しかし、自分を見つめていると、とてもそんな風に思えません。自分は、神に見捨てられた存在ではないか? 神様の失敗作ではないか? 神が造ったのではなく、自然の造物ではないか? 自分を、正直に見つめれば、それが私たちの実感でありましょう。
人間とは何者か? 自分とは何者か? 自己像(セルフ・イメージ)を探ることは、私たちの生き方と関わる大切な作業です。しかし、実は、自分自身をどれだけ見つめたとしても、そこに本当の姿が浮かび上がってくるわけではありません。「人の考え」によってではなく、神様の御心を見つめなくてはならないのです。そこに思いをはせますと、イエス様が人間の系図といいますか、歴史の中に身を置いて、人間のひとりとして生きてくださったことは、決して当たり前のことではない。神の似姿として気高さを失った私たちが、オリジナルの神の形であるイエス様に結びつけられることによって、もう一度それを取り戻すためであったということがわかるのです。
『コロサイの信徒への手紙』3章1〜4節を読んでみましょう。
さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
この地上にあって、この地上のものに心を惹かれず、ただイエス様を見つめつつ、イエス様に向かって心を注ぎつつ生きるように、と勧められています。なぜなら、私たちの本当の命は、イエス様のうちに隠されているからだ、というのです。言い換えれば、イエス様によって、私たちがもう一度、神の子らとしての姿を回復させるためなのです。 |
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さて、今日は、人間の創造について、もう一つのことを学びたいと思います。『創世記』1章27節にこう記されています。
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
人間は、《男と女に創造された》と語られています。植物にも、動物にも、雌と雄があるわけですが、それはもっぱら生殖のための機能です。神様は、「産めよ、増えよ」と祝しておられますが、そのために、動物を雄と雌に造られたとは、わざわざ書いていません。しかし、人間については、《神にかたどって創造された》ということに並べて、《男と女に創造された》と言われています。そこには、生殖の機能以上の意味があるということなのです。
そのことは、1章27節だけを読んでいてもわかりにくいのですが、2章を読みますと、更にはっきりとしてきます。2章では、最初に男であるアダムが造られたのです。その後に、《人が独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう》と、神様が判断されて、アダムのあばら骨の一部を抜き取り、抜き取ったあばら骨で、女を造り上げられたということが書かれています。細かい話は、またの機会にゆずることにしますが、はっきりとしているのは、男と女が作られた理由は、共に生きるためであったということです。男と女が共に生きるということは、結婚ということもありますが、それに限ったことではありません。母親と息子、父親と娘、あるいは兄弟姉妹、友達、同僚、さまざまな場面で、私たちは男女が共に助け合って生きる、ということを経験するのです。
その時に、聖書が教える重要なことは、神様は、人間を男と女に分けて造られた、つまり男と女を違うものとして造られた、ということなのです。よく「わたしは、男でもなく、女でもなく、人間だ」と主張するひとがいますが、聖書は、人間は、かならず男か、女か、であり、男でもない、女でもない、人間は、存在しないと語っているのです。
この点、昨今はラディカルな女性解放運動の影響もあって、だいぶ混乱をしているように思います。確かに、男性中心の社会のなかで、女性が不当に虐げられてきた、あるいは今もそうあるという問題を、私たちの世の中は抱えています。そういうなかで、男女同権や、女性解放ということが起こってくるのは、とても意義のあることだとも思います。しかし、男であるとか、女であるというセクシャリティ(性的存在性)の区別を認めない、否定するというのは、神様のお造りになった人間の姿に反することなのです。
そのように申しますと、その聖書こそ男女差別を促してきた諸悪の根源ではないか、という人たちもいます。確かに、旧新約聖書の中には男女差別の現実が見受けられます。そのことが男女差別を正当化し、助長してきたことは事実でありましょう。しかし、神様の御心が本当はどこにあるのか、ということを考えて、丁寧に読み直してみますと、聖書が伝えようとしているのは、決して男女差別ではなく、男女の区別であるということが分かってくるのです。とくに、男と女の区別について最初に書かれている『創世記』1章27節というのは、まったくそこに男女の差別はありません。男も女も同じように神にかたどって創られたということが言われているのです。 |
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では、男と女とのセクシャリティ(性的存在性)の区別、平たく言えば男らしさ、女らしさとは何でしょうか。
この問題を「礼拝でのかぶり物」、つまり服装という極めて具体的事柄と共に取り扱っているのが、『コリントの信徒への手紙一』11章2〜16節です。今日の感覚からすると、この中には、かなり問題となる表現があります。たとえば、《すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である》(3節)などと書いてあります。あるいは、創世記2章の記事が背景にあると思いますが、《男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られた》(9節)とも書いてあります。こういうことをもって、これが男らしい服装であり、これが女らしい服装であると言われたりしたら、フェミニストならずとも疑問を抱くのではありませんでしょうか。
しかし、その反面、かなり慎重な表現もあるのです。たとえば書き出しの2節では、これは言い伝えを守るという問題だと言っています。つまり絶対的な真理というよりも伝統の問題だということを言っているわけです。14-15節のところでも、《自然そのものがあなたがたに教えている》とありまして、これは自然か不自然かの問題であるということを言っています。そして、最後の16節でも、異論を唱える人がある可能性を指摘した上で、しかしこれは習慣の問題、つまり伝統の問題であるということを繰り返しているのです。これは服装の問題でありますが、もっと言えば男らしさ、女らしさの問題であり、それは社会的な習慣や伝統によるところが大きいということを、パウロも認めているわけです。
伝統や習慣は、絶対的なものではありません。しかし、それは一つの歴史です。今から先変わっていくことがあるとしても、これまでの歴史をふまえ、それを財産としながら発展していく、それが歴史でありましょう。そのような歴史の積み重ねを無視した考えは、単なる個人的な思いつき以上のものではないのです。
男らしさ、女らしさの問題も、そうではないでしょうか。何が男らしさであるか、女らしさであるか、それは時代によって変わってきてよいのです。そして今は、男らしさ、女らしさというものをあまり意識しない良い時代にさえなっています。だからといって、男も女もない中性の人間は、存在しないのです。私たちは男であるか、女であるか、いずれかなのです。
わたしは、「男はこうであるべきだ」、「女はこうであるべきだ」と考えることは、もはや今日的な男らしさ、女らしさとはではないと思っています。むしろ、こう考えるべきではないでしょうか。一つは、男であれ、女であれ、自分に与えられた性を、神様の賜物として受け入れることです。その上で、自分は、男と女に創られた人間の片割れでしかないという自覚をもち、補い合う性として、異性に対する尊敬の念を持つこと。それが男らしくあることであり、女らしくあることになるのだと思うのです。
先ほどの『コリントの信徒への手紙一』には、こういうことが言われていました。11-12節
いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。
ここを読みますと、パウロが本当に言いたいのは、男が女より偉いということではない。《女の頭は男である》とか、《女が男のために造られた》とか、際どい表現の多い段落ではあるのですが、一番言いたいのは、《男なしに女はなく、女なしに男はない》、そして、男も女も共に神様によって賜物として与えられた性なのだ、ということだと分かるのです。その賜物を大事にし、相手の賜物を尊敬するということが、自分のセクシャリティに生きるということなのです。
もう一度、『創世記』1章に戻り、28節を見てみたいと思います。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
《彼らを祝福して》と言われています。男にも、女にも、等しく神様の祝福が与えられています。そして、《地を従わせよ。支配せよ》と、共に、この世界に対する責任が与えられているのです。
1999年、「男女共同参画社会基本法」という法律ができました。これはジェンダー・フリーを唱える一部のフェミニストらが政府御用学者として大きな影響を与えたため、混乱や矛盾が多い法律となってしましました。たとえば、桃太郎の話で、「おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に」というのは男女差別であるから、子供たちに読ませてはいけないなどということが、大まじめに学校の教育現場で論じられたりしたのです。
しかし、そもそも男女共同参画社会とは、男も女も対等な存在として、社会のあらゆる場面において共同の責任を負い、またその利益を受けることができる世の中を造ろう、というたいへん立派なものです。そして、そのような思想は、実はこの『創世記』1章28節に、神の祝福としてすでに示されていることなのです。
神様は人間を男と女に創造されました。私たちそれぞれに与えられた性は、神様が良しとされたものであり、主にあって感謝して自分の性を生きる者となりたいと思います。そして、男も女も互いに補い合う性として尊敬し合う者でありたいとも願うのです。 |
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(c)共同訳聖書実行委員会
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