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これまで、『創世記』第1章に記されている「天地創造」の神様の御業について、お話しして参りました。振り返ってみますと、第一の日に、神様は天と地を創造され、また光を創造されました。第二の日に、水が天と地に分けられ、大空が創造されました。第三の日に、海と陸が分けられ、地には植物が生い茂りました。第四の日に、時のしるしとなる天体が創造されました。第五の日に、海の魚、空の鳥が創造されました。第六の日に、地を駆けめぐる動物、そしてわたしたち人間が創造されました。こうして神様は、計り知れない知恵と力をもって、この世界をお造りになり、ご自身これをご覧になって「極めて良い」とされたのでした。これは、この世界のすべてが、神様の御心に適うものとして、完成したことを意味しています。
しかし、それが天地創造の終わりではないのです。今日お読みしました第2章1〜3節には、第七の日が記されています。それがどんな日であったのか、わたしには語ることができません。わからないからです。第一の日から第六の日まで、私は17回にわたって説教をしてきました。それでもまだ語りきれないことがたくさんあるのではないか、と思うほど、そこには多くの神様の驚くべき御業が満ちておりました。ところが第七の日、神様は何もしないのです。語るべき御業がないのです。これは説教者にとっては、はなはだ困ったことです。今回、わたしは、語るべき御業がないことについて、語らなければなりません。
もう一度1〜3節を読んでみましょう。
天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
まず、くどくどと書かれている印象があります。第一の日から第六の日までは、非常に簡素に書かれていました。しかも、そこに豊かな内容がありました。それに対して、第七の日は、要するに、神様が天地創造の御業を完成されてお休みになった、ということだけが言われているのです。それを、「第七の日」、「第七の日」、「第七の日」と三度もこれを繰り返し、「完成した」、「完成した」、「仕事を離れ、安息なさった」「仕事を離れ、安息なさった」と言葉を重ね、さも意味ありげに語られているのです。いちばん言葉が重ねられているのは、「神」という言葉です。「神は」、「神は」、「神は」、「神は」と、四度も語られています。
そうなのです。ここには光も闇も、空も海も陸も、植物も動物も、人間も出て来ません。登場するのは、神だけです。つまりこの第七の日には、語るべき神の働きがないばかりではなく、私たちが語り得るもの、つまり具体的に見たり、触れたり、考えたりすることができるものや、動きがないのです。人間には語り得ない存在である、神さま御自身の姿だけが描かれています。もちろんその傍らに神様がお造りになった天と地があり、この世界があり、動物がおり、人間がいるのでありましょう。しかし、そのようなものなど、まるで存在していないかのように、神という存在だけが、全面的に打ち出されているのです。
第七の日で大事なのは、まさにそのことです。天地万物、森羅万象は、神様なしに存在しないし、語ることができません。すべては神様によって創造され、神様によって存在しているのです。そのことが第一の日から第六の日までに記されていたことです。しかし、第七の日は、神様だけにスポットが当てられます。神様は、この世界なしにも神様でおられます。何にも依らずに、神様は神様として存在する方であります。この世界の存在の傍らに、神様がおられるのではありません。神様の傍らに、この世界が存在するのです。私たち人間の営みの傍らに、神様がおられるのではありません。神様の傍らに、私たち人間の営みがあるのです。
ともすると、私たちは信仰ですら、自分を中心に据えてしまいます。「わたし」が神様を信じる。「わたし」が神様を愛する。「わたし」が神様を讃美する。このように、まず「わたし」があり、その「わたし」が信じられなければ、神様は存在しないに等しく、この「わたし」が愛せなければ、神様は意地悪な暴君となり、誰がなんと言おうと、「わたし」が讃美しなければ、神様は世界の片隅にいる、みすぼらしい存在となってしまうのです。そうではないということを、つまり、たとえ「わたし」が信じなくても、神様は存在し、「わたし」が愛さなくても、神は愛であり、「わたし」が讃美しなくても、神は素晴らしい方であるということを知るためには、神の前に静まるしか方法はないのです。
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第七の日は、とても静かです。風の音も、動物たちに鳴き声も、人間の喧噪もありません。神の業も言葉もありません。すべての力ある業を終えられて、安息を楽しまれる神様がそこにおり、すべてはその神様の前に静まっています。それだけです。何もないということが、第七の日なのです。そして、神様は、この日を祝福し、聖別された、と記されています。他の六日と区別された特別な日、祝日と定められたということです。
この日が、第六の日に続く第七の日と言われていることに、わたしは注目したいと思います。第六の日までに、世界は出来上がっています。「それは極めて良かった」とまで言われています。それにも関わらず、さらに第七の日が、天地創造のなかに数えられえています。これは決して蛇足ではありません。この静まりの日もまた、神様がお造りになったこの世界に属する日である、ということなのです。神の安息であるこの第七の日に、この世界は、そして私たちは招かれているのです。
そのことが、十戒の中の第四戒にも記されています。『出エジプト記』20章8〜11節、
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
これは、あれをしてはいけない、これをしてはいけない、という律法ではなく、安息への神の招きです。ですから、大切なことは、《いかなる仕事もしてはならない》ということにあるのではありません。仕事をしなければ、安息なのでしょうか? そうではないことを、みなさんはよくご存知だと思います。
今は週休二日の時代です。そして、法律で定められた休日があります。さらに、夏休みなど有給休暇がある。それを計算してみると一年のうち三分の一以上は休みです。もちろん、みんながその恩恵に与っているわけではありません。しかし、こういうことは言えます。それだけ休んでも、身も心も疲れている人がたくさんいます。私たちを疲れさせるのは、仕事だけではないということなのです。親や、子供や、夫婦のこと、親戚づきあい、近所づきあい、お金のやりくり、家や車の修繕、自分自身の生き方のことなど、この世を生きていくためには、必ずつきまとう様々な軋轢や心配で、疲れ果てている人がたくさんいます。病気や、リストラで仕事がないこと自体が、疲れの原因となっている人もいます。
私たちは仕事に限らず、何らかの目的や願いをもって、それにむかって肉体的、あるいは精神的な活動をしています。それがうまくいっていれば、忙しさや苦労があっても幸福感がありますが、それが失われることがあるのです。そのような行き詰まりや、挫折は、だれの身にも起こりえます。病気をしたり、行き詰まったり、失敗したりすると、自分の願いや目的に向かって進むことができなくなり、そして、まったく異なる余計なことに四苦八苦しなければならなくなるのです。そういう時に、どうしようもない疲れが襲ってきます。
このような生の根本を揺るがす、深い疲れを溜め込みながら、わたしたちは生きているのです。それは、休日を増やすだけでは、決して回復しません。重症になりますと、生きる喜びや充実感というものがなくなってしまいます。場合によっては、不幸感だけではなく、これではだめだという劣等感や罪責感さえも襲い始めるのです。それは人生の意味や価値を再び見いだすような経験をしない限り、決して回復しない疲れなのです。
ですから、安息日を安息日とするために大切なことは、仕事をしないという表面的なことでは決してないのです。それならば、なぜ《仕事をしてはならない》と言われているのでしょうか。
仕事とは、何か目的をもって実利、成果を得るための活動です。そして、人生のあらゆる活動が、仕事化しています。役に立つか立たないか、実りがあるかないか、そのような成果を得られなければ、自分には価値がないと思ってしまうのです。しかし、そうでしょうか。神様は、何か仕事をさせるために、私たちをお造りになったのではないのです。私たちの仕事を求めてではなく、私たちの存在を求めて、存在そのものを愛すべきものとして、お造りになったのでした。私たちの仕事にではなく、私たちの存在そのものに価値があるのです。
《仕事をしてはならない》という禁止令は、そのことを思い起こすためのものです。私たちは、あらゆる仕事的な活動を離れ、神様の御前に静まらなければならない、と教えられているのです。そこで自分の存在が無条件に受け入れられ、価値あるものとされていることを、知らなければならないのです。そこに、まことの安息があります。この神の前の静まりによって、私たちは自分の価値を再発見し、生きる喜びを知り、再び神様によって与えられた自分の姿をあるがまま肯定し、自分の命を生きる力を得るのです。
何か目的をもって働くことが悪いのではありません。聖書は、《六日の間働いて、何であれあなたの仕事をしなさい》とも語っています。しかし、七日目は、それらの日と区別し、神様が聖別された、特別な安息日として静まって、ただ神様の前にある存在となりなさい、と語るのです。そこで神を喜び、神様の傍らに自分がいることを、それだけを、心から喜ぶものになりなさい、というのです。
安息日については、新約聖書にも大切なことが多く教えられています。それらのことまで今日はお話しすることはできません。一つだけ、今日は、『ヘブライ人への手紙』からお読みしました。
わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。
神様の前に静まる努力をしようではないか、と言われています。世界は、第六の日までに、完成しました。しかし、すべては極めて良かった、とまで言われているにも関わらず、この世界には、第七の日が必要なのです。一見すると、この世界にまったく関係ないように思える、第七の日です。しかし、これがなければ、世界は首のない胴体のようなものです。
私たちが、日曜日を聖日として覚え、神様を礼拝することもそうなのです。私たちには、この世で、やらなければならない多くのことがありましょう。手を離すことができない問題が、目の前にいくつもあることでありましょう。それに比べたら、日曜礼拝を守ることは、さほど重要ではないと、思えるかも知れません。
しかし、そうではないのです。神様の前に静まることなしに、私たちに与えられないものがあるのです。それは神様がわたしたちにあたえてくださった、命の価値、喜ばしさです。それを毎週、毎週の礼拝の中で見いだし、新しい一週間を歩む者でありたいと願います。 |
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