天地創造 21
「神の命の息に生きる」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記2章7節
新約聖書 マタイによる福音書 第4章1〜4節
命とは何か
 今日は人間の創造についてのお話しです。人間の創造については、第1章26〜27節にも書かれていました。

 神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
 神は御自分にかたどって人を創造された。
 神にかたどって創造された。
 男と女に創造された。


 ここには、人間が神の似姿に造られたということ、そして男と女とに造られたということ、この二つのことが書かれています。

 神の似姿とは何であるか、古来よりいろいろなことが言われてきています。愛であるとか、自由であるとか、祈りの心をもっているとか、等々。たしかに、人間はそのような点において、他のすべての動物と違うものをもっているように思うのです。それが、神様が与えてくださった神の似姿であろうと想像してみることは、あながち間違いではないでしょう。

 けれども、厳密にいうならば、それは動物を見て、動物と較べて、類推するのであって、神様をみて、神様と較べて、ここが似ているという話ではないのです。動物と違う点ではなく、神様と似ている点が神の似姿なのです。しかし、私たちは神様の御姿の全体像を見たことがありません。そういう意味では、神の似姿が何であるか、わたしたちは本当のところを知り得ない、というのが正直な答えでありましょう。

 しかし、神様はご存知であります。神様は私たちを見て、私たち人間の中に御自分の似姿を見てくださっているのです。それゆえに、神様のわたしたちに対する眼差しは、いつも我が子を見る眼差しである、そのことは、私たちが神の似姿とは何かということをあれこれ類推する以上に確かなことなのです。このことは、前にお話しいたしました。

 それから、男と女に造られたということについても、以前にお話しをいたしました。どんな動物も、雄と雌があります。それにも関わらず、わざわざ男と女に造られたと書いてあるのは、男と女とは、単なる雄と雌ではない、つまり生殖の目的以上の存在として、おたがいを共に生きる相手として認め合うように造られたということなのです。

 男と女にについては、これからお読みすることになる第2章にも書かれています。第2章では、まず男が作られ、男と共に生きるものとして女が作られたと物語がつづられているのです。これについては、また改めてお話しをしたいと思いますが、今日は第2章7節のみ言葉から、神様に造られた人間ということを、もう一度学びたいと思います。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

 ここに書かれているのは、神の似姿についてではなく、また男と女ということもでもなく、人間を生かす命についてです。動物にも命があります。しかし、人間を生かす命は、そのような動物の命とは大きく違ったところがあるということが、この聖書が言わんとしていることです。

人間を生かす命とは何でしょうか。

うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊(い)良(ら)虞(ご)の島の玉藻刈り食(を)す    麻続王(をみのおほきみ)(『万葉集』第一巻二十四)

 『万葉集』には、さまざまに命を見つめた歌がありますが、これは『万葉集』で最初に命が詠まれている歌です。麻続王がどういう人かは分かっていませんが、伝承によりますと、天武四年(675年)、何事かの罪を犯して島流しになった皇族であると言われています。そういう落ちぶれてしまった人生を悲しみながら、この歌を詠みました。「わたしはまだ生きていたいというのか。落ちぶれてしまった命を養おうとして冷たい波にずぶ濡れになって玉藻を刈っている」と感傷的に歌っているのです。

 麻続王は、自分の命を「うつせみの命」として見つめています。歌人の馬場あき子氏によりますと、「うつせみ」とは後に「空蝉」という文字を当てるようになり、空しさの意味が込められるようになりましたが、ここではもっと単純に「現身」(うつしおみ、うつそみ、うつしみ)、つまり今生きている体というという意味だろうと言っています(馬場あき子、「『万葉集』の命の歌」、『歌よみの眼』、NHK出版)。その体に宿る命、それが「うつせみの命」です。もっとも単純な意味での命だと言っても良いかもしれません。

 それを養うためには、食べなければなりません。だから、波に濡れながらも、玉藻刈りをしているのですが、そこには十全な、かがやかしい命を感じることはできません。人間というのは、ただ体が強ければいい、健康であればいいというだけではなく、生きる喜び、生きる張り合いというものを命に求めているのです。それがないままに、「うつせみ」(現身)があり、そこに宿る「命」があったとしても、それだけを養うために生きていることへの嘆きが、この歌に詠まれているのです。

 人間にとって「命」を養うとは、食べるだけではなく、それ以上のものが必要なのです。それ以上のものとは何か。今日、お読みしましたみ言葉には、神様が、土をこねて形作った人間に、御自分の《命の息》を吹き込まれた。そうして、人間は《生きる者》となったとあります。

 このように申しますと、最初、命のない泥人形だった人間が、神様が命の息を吹き込まれると、生き物として動き出したというように思うかも知れません。けれども、そうではありません。19節には、やはり《野のあらゆる獣》《空のあらゆる鳥》が、やはり《土》でもって形作られたと書かれています。そして、それらのものは、泥人形ではなく、ちゃんと生きたものだったのです。人間の場合も、《土の塵》で形作られたということは、ちゃんと人間が命あるものとして造られたということを意味しているに違いありません。

 その上に、神様が《命の息》を吹き込まれるのです。このことは、人間が神の似姿に形作られたということにも関係があることだと思います。野の獣や空の鳥とは違って、人間が神の子としての命をあたえられ、それをもって神様との人格的交わりのうちに人間らしい命を生きるもとされたのです。
神の口の言葉によって生きる
 これをもって、人間は他の動物と同じように土で形作られた肉的な命と、神様の似姿として生きるために神様から特別に与えられた命の息による霊的な命をもって生きていると言うことができると思います。

 肉的な命もまた、神様が与えてくださったものです。禁欲主義者のように、これを否定的に思う必要はありません。肉体的な命が求めているもの、食欲であれ、性欲であれ、自己保存欲であれ、それを満たそうとすることは決して悪いことではないのです。けれども、それだけを満たしても、人間は十全な命を生きているとは言えないわけです。『万葉集』から麻続王(をみのおほきみ)の歌をご紹介したのは、そういう意味においてです。

 では、霊的な命に満たされて生きるとは、どういうことなのでしょうか。イエス様は、《人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる》(『マタイによる福音書』第4章4節)と教えられました。《パン》によって生きるとは、肉体的な命の養いのことを言っているのでありましょう。しかし、人間の命を養うためには、それだけではなく《神の口から出る一つ一つの言葉》を求めなくてはいけないと言われたのです。肉的な命が《パン》を必要としているように、霊的な命は《神の口からでる一つ一つの言葉》を求めているのです。

 「神の言葉」と言わず、「神の口からでる言葉」と言われていることにも意味があります。実は、聖書にはこのような言い方がたくさんあります。

あなたの唇の言葉を守ります。(『詩篇』第17編3節)

わたしの口の言葉に耳を傾けよ。(『詩篇』第78編1節)、

わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。(『イザヤ書』第45章23節)

耳を傾けて、主の口の言葉を受け入れよ。(『エレミヤ書』第9章19節)


 まだまだありますが、みなさんも一度気をつけてお読みになってみてください。なぜ「口の言葉」と言われているのか。それは、言葉とは「読むもの」ではなく、「聞くもの」であるということだと思うのです。

 言葉を読むというのは、要するに文字を読むわけです。文字は記号ですから、とっても冷たいものなのです。文字の言葉というのは、たとえ聖書であっても、そういう側面があります。ですから、ユダヤ教の指導者たちは、聖書を一所懸命に読んだのですけれども、律法主義という人を裁くような考えに凝り固まってしまったわけです。

 パウロもそうでした。そして、その苦い経験から、「文字は人を殺し、霊は人を生かす」(参考『コリントの信徒への手紙二』第3章6節)といい、「わたしたちの務めは文字ではなく霊に仕えることです」(参考『ローマの信徒への手紙』第7章6節)と言っているのです。

 文字ではない言葉とは、つまり「声」です。そして、「声」とは、その人の「息」でありましょう。神様の命の息を吹き入れられて生きる者となった人間は、神様の口の言葉、声、息遣いを聞いて生きる者となったということなのです。

 また、声には、必ずその人の気持ちがこもります。優しい気持ち、怒りに満ちた気持ち、真剣な気持ち、揺れ動いている気持ち等々、その時その時のいろいろな気持ちがそこに込められ、その命をもって発せられるのです。言葉というのは、そこまで聞き取り、受けとめるということ必要です。そうでなければ、「あなたは確かにこう言った」「いや、そんなつもりではない」というように、いくら話してもまったく言葉が通じない世界に陥ってしまうのです。

 人は、《神の口から出る一つ一つの言葉で生きる》と、イエス様は仰いました。神様の声を、そこにあるお心を聞くことが、私たちの霊的な命であるということです。だから、イエス様は、しばしば聞くことの大切をも訴えておられます。

耳のある者は聞きなさい。(マタイ11:15)

あなたがたの耳は聞いているから幸いです。(マタイ13:16)

この言葉をよく耳に入れておきなさい。(ルカ9:44)


 もちろん、神様の声を聞くというのは、私たちの耳で聞くというよりは、心で聞くものでありましょう。心に、耳が必要なのです。

 どうしたら、心に、神様の声を聞く耳を持つことができるのでしょうか。どうしたら聞く者としての幸いを得ることができるのでしょうか。まず、静けさが必要だと思います。世には様々な声が響いています。自分の中から湧き上がってくる声もあります。そういう声に、神様の声がかき消されてしまうことがないようにしなければなりません。他人の思い、自分の思い、そういうものを鎮めて、静まりのなかで神様に心を向けるのです。

 幼きサムエルが《主よ、お話しください。僕は聞いております》(『サムエル記上』第3章9節)と祈ったような祈りが、私たちの命に必要なのです。
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