天地創造 23
「エバの創造@〜人は独りでいるのは良くない〜」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記2章18〜25節
新約聖書 ヨハネの手紙1 第4章7〜21節
独りは良くない
 前回は、エデンの園についてお話ししました。神様は、最初の人間アダムの命を創造されるだけではなく、命に必要な祝福をも創造され、これを人間にお与えになりました。こうしてアダムは父の家に住む子のように、神様の愛と保護のうちに生きる者とされたのです。今日からは、それに続く「エバの創造」についてお話しをします。すでに第1章27節には、神様が人を《男と女に創造された》と語られていました。第2章ではそのことがあらためて語られます。それによりますと、男と女は同時にではなく、まずアダム(男)が造られ、その後で《彼に合う助ける者》としてエバ(女)が造られました。その物語は、神様のこのような言葉によって始まります。

 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(第2章18節)

《人が独りでいるのは良くない》、みなさんはこの言葉をどのようにお聞きになるでしょうか。そうだ、そのとおりだ、私たちには互いに愛し合い、助け合う伴侶が必要だ、家族が必要だ、友だちが必要だ、仲間が必要だ、そのように素直にお聞きになるでしょうか。それはきっと皆さんが大人だからです。もうお忘れの方も多いかもしれませんが、若い頃はそんな風にかんがえなかったではないでしょうか。ヘッセがなかなか面白いことを書いています。

若い人たちはもっぱら自分自身のために生きるので、自分の人生から多くの喜びと多くの苦悩を味わう。そこではどんな願望もどんな思いつきも重要である。そこではどんな喜びも味わいつくされ、同時にどんな苦悩も味わいつくされる。そして自分の願望が満たされ得ないとわかると、すぐに全人生を投げ捨ててしまう人も少なくない。これが青年特有のものだ。けれども、大部分の人びとにとっては、それが変わってくる時がやって来る。つまり、決して美徳からではなくまったく自然に、より多く他者のために生きるようになるのだ。たいていの人びとの場合、そのきっかけとなるのは家族である。子供をもつと、人は自分自身や自分の願望のことはほとんど考えなくなる。(中略)・・・誰も子供を作ろうと思って結婚するわけではないが、子供が出来るとこの子供たちが人を変えてしまうのだ。そしてついには、なにもかも子供たちのためだけに起こったのだと思うようになる。(中略)・・・人間がただ自分のためだけに持ったり行ったりしているものはすべて最後にはひとつの穴に落ちて、無に帰してしまう(中略)・・・それゆえに何か別の永遠を必要とし、自分がただうじ虫どものために働いているのではないという信仰を必要とする。いったい誰のために日々の苦労と心労を抱えているかということを知るために、妻と子供、商売と役職、そして祖国があるのだ。人は自分自身のためだけに生きるよりも、他者のために生きる方が満足感を感じる。
(『ヘルマン・ヘッセ 老年の価値』、フォルカー・ミヒェルス編、朝日出版社)


 自分のことだけを求め、自分のことを喜んだり、悩んだりする時期が誰にでもあります。そういう時代は、家族であれ、友達であれ、学校の先生であれ、自分のしたいことを妨げる存在に思えたり、疎ましく感じたりすることがあるのです。けれども、就職し、結婚し、子供が生まれ、さまざまな責任を負うことによって、否応なしに他者のために生きる者となります。それは自分の願いや喜びだけを求めることを諦めなければいけない現実です。しかし、そのような他者のために生きる喜び、満足というものを経験することによって、人は大人になっていくのです。これはヘッセ自身の経験でもあるのでしょうが、わたしもこれには共感を覚えます。《人が独りでいるのは良くない》と素直に思えるのは、他者(ひと)のお陰様で生きていることや、他者(ひと)のために生きることを素直に喜べる大人へと成長しているからなのです。

 けれども聖書は、そういうことを言っているのではないようです。前回お話ししましたように、アダムはその命においても、また生活においても、神様との交わりにおいても、まったき祝福の中におかれました。普通に考えたら、それで何の不足もないはずです。実際、アダムは不足を感じていなかったのではないでしょうか。聖書には、アダムが助け手を必要としていたとか、寂しがっていたなどとはどこにも書いてないのです。

 しかし、神様からご覧になるとアダムにはさらなる必要がありました。それで神様は、《人が独りでいるのは良くない》と言われたのです。つまり、これはアダムの願いではなく、神様の判断なのです。

 しかも、《良くない》というたいへん強い言葉でそれが語られていることに驚きます。これまで神様の天地創造の御業を学んできましたが、神様がお造りになったもので《良くない》と言われるものは一つもありませんでした。とくに第1章ではそのことが強調されてて、《神はこれを見て、良しとされた》と繰り返し語られています。そして、第1章の最後に《神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった》と語るのです。

 神様がお造りになったもので、ただひとつ《良くない》と言われたもの、それが《人が独りでいる》ことだったのです。

 さらに突き詰めて考えてみますと、神様がアダムを独りとしてお造りになったわけですから、《人が独りでいるのは良くない》とは、神様がご自分の御業を自省した言葉だとも言えます。結果的には第1章に書かれているように、神様は人を《男と女に創造された》のですが、実は最初は男だけを造って、それでよいと思っておられたのです。そして、エデンの園を造り、その祝福の中に彼を置かれたのでした。けれども、そのアダムの暮らしを見ていて神様は思われた。たとえ十全ないのちがあり、あらゆる祝福に囲まれ、幸せを満喫していても、なお彼には足りないものがあると。

人間と動物
 そこで神様は、アダムのために、まず動物たちを連れてきたと書かれています。19〜20節、

 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

 混乱する方もいると思いますので申し上げますと、第1章では、人間よりも先に動物が造られたと書いてありました。ところが、ここでは人間のあとで神様が動物をお造りになったように読めます。

 確かに矛盾するのですが、ここで第2章の重点は、時間的なことではなく、人間(アダム)のために、助け手として動物や鳥を造り、それをアダムのもとに連れてきたということにあります。それに対して第1章は、第一の日、第二の日云々と、かなり時間的なことを意識して書かれています。それからすると、第1章の方が時間については正確なのだろうと思います。第2章では、前にもお話ししましたように人間の創造ということが中心に描かれています。ですから、どっちが先かというよりも、人間の助け手として動物が造られたということが強調されているのです。動物を造ったことと、人間のところに連れてきたことに時間的な差があると考えれば、さしたる矛盾なく読むことができると思います。

 アダムは、神様が連れてこられた動物たちに名前をつけました。名前をつけるという行為は、単に便利さという功利的な意味以上のものがあります。古今東西を問わず、名前を付けることには霊的な意味があるのです。

 聖書でもそうです。第1章の天地創造でも、神様が《光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた》(5節)、《大空を天と呼ばれた》(8節)、《渇いたところを地を呼び、水の集まったところを海と呼ばれた》(10節)と語られています。名前を付けることは、神様の創造の御業の一つであり、神様がそのもの物事の性質を定め、支配するという意味があったのです。

 だとすれば、アダムが動物たちに名をつけたことは、アダムが神様の創造の御業に関与したということでもあります。《人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった》とは、そういうことを物語っています。そして、それは人間と動物との関係をも物語っているといえましょう。詩篇8編6〜9節には、このように言われています。

 神に僅かに劣るものとして人を造り
 なお、栄光と威光を冠としていただかせ
 御手によって造られたものをすべて治めるように
 その足もとに置かれました。
 羊も牛も、野の獣も
 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。


人間も動物も同じように神様によって土で形作られました。そういう意味では、人間も動物も同じです。けれども、神様は、人間を動物たちの上に置かれ、動物たちの名付け親とし、これを愛し、保護する者とされたのです。

 ところが、このようなことをもってしても、アダムは《自分に合う助ける者を見つけることができなかった》と言われています。《助ける者》とは、困ったときだけ必要になる「助け」とか、忙しいときの手伝いをしてくれる「助手」という意味ではありません。これは《主はわが助け》(『詩篇』第33編20節)というように、神様に対して使われる言葉でもあり、つねになくてはならない存在という意味です。それがなければ、自分の存在を良しとすることができない、自分が自分であることすらもできない、そういうかけがいのない存在のことです。

 人間は、たとえ一点の曇りもないまでに完璧であったとしても、自分だけでは完結できない存在なのです。共に生きる存在、おたがいに生かし合う存在が必要なのです。それはどこにあるのか? 聖書は、動物たちのなかにそれをみつけることができなかったと言っています。動物たちだけではありません。植物も海や山もすべて、これまでに神様がお造りになったものはそこにあるのですから、それらすべての被造物の中に存在しなかったのです。

 人間が動物や植物を愛でること、また自然を愛すること、それが否定されているのではありません。むしろ、神様は人間がそれらを喜ぶことができるものとしてお造りになったと言ってもいいでしょう。けれども、それでは十分ではなかったのです。

 そこで神様は、アダムを眠らせ、アダムの中からあばら骨の一部を取りだし、それをもってエバ、つまり女を造ったのでした。アダムの助け手は、アダム自身の中から取られたといわれているのが、興味深いところです。しかし、これについては次回にお話しすることにいたします。

 今日は、《人が独りでいるのは良くない》という神様の御心をしっかりと受けとめたいと思います。このことを、聖書は異例と言ってもいいぐらいに大事なこととして強調しているのです。何が異例かといいますと、神様がアダムを造った後に《人が独りでいるのは良くない》と、御自分の業を自省されたということ、そしてまず動物たちを連れてくるのですがそれでも失敗をしたということ、このように神様の手落ち、失敗ともとれるようなことが物語られています。

 さらにアダムが神様との完全なる交わりを持ち、その祝福の中にいたにもかかわらず、それでも《良くない》といわれていることも異例です。それはアダムにとって共に生きるのは、動物はもちろんのこと、神様であっても不足であったということを、神様ご自身が認めているということになるのではないでしょうか。人間は神様と共に生きるだけではだめで、やはり別のふさわしい助け手が必要なのだということなのです。

 こんなことが書かれているのは、聖書においては本当に異例としかいいようがないのです。けれども、そのことによって、《人が独りでいるのは良くない》という言葉の重み、そしてふさわしい助け手を見つけた時の《ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉》というアダムの喜びの叫びが生きてくるのです。

 ヘッセが言ったように、自分の願いばかり求めて生きていると必ず他人が邪魔になります。そのため他人のために生きることを喜びとするような新しい生き方を身につけていかなければなりません。でも、聖書が言っているのは、そんなことではないのです。あるいは、淋しさを紛らわすためであるとか、助け合う力が必要であるとか、賑やかな方が楽しいとか、そんなことで《人が独りでいるのは良くない》と言われているのではありません。もっと人間存在の一番深いところにある本質、つまり神の似姿に関わってくるものではないかと、わたしは思っております。

 なぜ、神様はこの天地をお造りになったのでしょうか。それは前にお話ししたことがありますので簡単に申しますが、人間をお造りになるためです。では、なぜ神様は人間をお造りになろうとされたのでしょうか。しかも、御自分の似姿につくり、神の子としてこれを真剣に、深く愛そうとされるのでしょうか。この神様の愛の真剣さ、深さは、イエス様の十字架において明らかにされます。その愛の大きさたるや「造ったから愛す」では語りきれないものがあります。なぜ神様はそこまで愛すべきものとして人間を造りになったのか。もちろん、そんなことは人間が知ることのできないことです。ただ神様がそれを欲したのだ、としかいいようがないのです。

 私たちに言えることは、神様とはそのような御方であるということです。そして、そのような神様の似姿に、私たちは造れているのです。

 神様は、たとえ独りで完全な御方であっても、御自分のすべてをかけて愛することを欲する存在を欲しておられます。わたしたちもそうような存在として造られているのです。たとえ、わたしたちが独りで生きることができる者だとしても、それでも心から愛する者が必要なのです。それが愛なる神様の似姿に造られた人間の宿命なのです。宿命という言い方がそぐわなければ人間に与えられた定めなのです。だから、イエス様は、聖書で一番たいせつな律法は第一が神様を心をつくして愛することであり、第二が隣人を自分のように愛することだと教えられるのです。

 今日あわせてお読みしました『ヨハネの手紙1』もそうです。神様は愛であるから、神様から生まれた私たちは互いに愛し合わなければいけないということ、愛は神様からでたものであるから愛さないものは神様を知らないというのということ、それはそういうことなのです。《人が独りでいるのは良くない》とは、このような私たち人間存在のもっとも深い本質を見つめられた神様の言葉なのです。

目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email: yuto@indigo.plala.or.jp