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神様はアダムをお造りになり、エデンの園に住まわせました。この地点でアダムの創造は完成しており、その命においても、また彼を取り囲む祝福においても、神様は十全なものを彼にお与えになっていたのでした。けれども、なおアダムに足りないものがあることに、神様はお気づきになります。それは、アダムが自分自身のように愛し、命を注ぐことができる相手でした。
人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。(『創世記』第2章18節)
神様はこのように仰ると、動物たちをアダムのところに連れてきました。アダムはこれを喜び、動物たちに名前をつけて慈しみます。けれども、アダムはその動物たちのなかに、本当の意味で自分と共に生きる相手を見つけることはできませんでした。そこで、神様はアダムのためにエバを創造なさることにします。今日は、そこからのお話しです。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。(21節a〜22節a)
まるで全身麻酔の手術が行われているかのような場面が描かれています。ちょうど一年ぐらい前の話ですが、娘が全身麻酔による手術をいたしました。その節には、皆様にもお祈りいただきまして本当に感謝をしております。お陰様で、今はすっかり忘れるほど元気にしております。ここを読みまして、その時のことを思い出しました。手術前、お医者さんからいろいろな危険についても説明を受けていましたから、無事に終わるまで、親としては気が気ではありませんでした。しかし、本人は麻酔をかけられるとそれこそすぐに深い眠りに入ってしまい、目が覚めたときはもう病室にいたという具合だったそうです。手術前は相当に緊張したことでしょうが、手術そのものはまったく意識のないうちに行われたのです。それと同じように、アダムがまったく意識なく眠っている時に、神様はアダムの肋骨をとり、それをもってエバを造られたのでした。
このようなことが私たちのうちにもあるのではないかと思います。私たちの意識が深く眠っているところで、まったく知らないうちに、神様の御業がわたしたちのうちに行われるのです。ですから、神様がどんな素晴らしいことをしてくださっても、そのことに気付かないでいることがあるのではないでしょうか。
金子みすゞさんの「草原の夜」という詩があります。
「草原の夜」
ひるまは牛がそこにいて、
青草をたべていたところ。
夜ふけて、
月のひかりがあるいている。
月のひかりのさわるとき、
草はすっすとまたのびる。
あしたもごちそうしてやろと。
ひるま子どもがそこにいて、
お花をつんでいたところ。
夜ふけて、
天使がひとりあるいている。
天使の足のふむところ、
かわりの花がまたひらく、
あしたも子どもにみせようと
寝ている間に、月の光がそっと牛たちに食い荒らされたところを撫でると、また草が生えてくる。子供たちが花を摘み遊んだところを、夜、天使が歩くとまた花が咲く。ファンタジーと言えばそれまでですが、私たちの知らないところで、そういう癒しや再生が行われ、何事もなかったように、私たちが暮らしているということがあるのではないか、と気づかされる詩です。
こういうことは、自分というものを信頼し過ぎているとわかりません。自分の意識や経験は、実際に自分に身に起こっていることのほんの一部に過ぎないのです。自分がまったく知らないところで、自分の身に起こっている神様の御業があるのです。
このことをもう少し深く考えてみますと、「では、なぜ神様は私達の知らないうちに御業をなさるのか」という疑問が起こってきます。私たちに分かるように御業をなされば、私たちも神様の愛を感じやすくなるし、感謝や讃美も自然に溢れてくるのではないかと思うのです。
しかし、本当にそうでしょうか。イエス様の素晴らしい御業を見ても、信じない人たちはたくさんいました。見れば信じるというのは、どうも違うようなのです。人間は愚かなまでに頑固でして、自分にとって都合の悪いことは、たとえ見ても信じない。聞いても素直に受け入ない。そういうことが普通に起こるのです。神様はそうとうにやりにくいと思いますね。だから、眠らせる。私たちの眠っている間に御業をなさるのではないでしょうか。
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ところで、神様はアダムの胸の中から、あばら骨の一部を抜き取って、それでもって女(エバ)を造られたと語られています。これについては二つのことを考えてみたいと思います。一つは、なぜ《あばら骨》なのか? もう一つは、アダムに合う助ける者が、彼の外からではなく、彼自身の中から取られたということの意味です。
最初に、なぜ《あばら骨》なのかということですが、昔から色々な人が、色々なことを考えております。わたしたちのなかにも、病気で肋骨を取る手術をなさった方がいます。肋骨の一部をとっても、一応そのまま生活ができる。そういうわけで、とりあえず無くても済むような骨を一本取って、そこから女が造られたのだと、たいへん乱暴なことをいう人もいます。
もちろん、そんなことはないのです。むしろあばら骨は、胸にある骨ですから、アダムの心、魂というものを象徴しているのではないでしょうか。そもそも骨は、からだを内側で支えているものであり、死んでもなお残るものであるということから、人間存在の根源なるものと同一視されているようなところがあります。特に『ヨブ記』、『詩篇』、『箴言』などに多く見られるのですが、人間存在の根源に力があると、「骨に若さが溢れている」、「骨が潤っている」、「骨が健やかである」と言われており、逆に人間存在の根源が弱ると、「骨が震える」、「骨が叫ぶ」、「骨が枯れる」などと言われるのです。そのようなアダムの人間存在の根源を象徴するものである骨を取りだして、そこからエバが造られたということは、エバの存在はアダム自身の存在と切っても切れないものであったということなのです。
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神様はこのようにアダム自身のなかから、アダムに合う助ける者をお造りになりました。このことは私たちに何を教えているのでしょうか。
一つは、前回お話しをしましたが、動物であれ、植物であれ、神様がお造りになった他の被造物の中にはそれを見つけることができなかったということがあります。確かに動物や植物が、人間の心を慰め、励まし、助けになることがあります。ペットとしての動物もそうですし、盲導犬などは目の不自由な方にはとっても大切なパートナーでありましょう。しかし、深いところで心を通わせる存在にはならないのです。
エバの存在はアダム自身の存在と切っても切れないものであったと言いました。もっと言えば、アダムの中から取られたのですから、アダム自身であったとも言えるのです。そこで、神様が、あばら骨を取りだした跡を《肉でふさがれた》という言葉が意味をもってきます。塞がれることによって、エバはアダムとは別の人格をもった存在となるのです。そして、同時にアダムとエバは一つでもあり、二つでもあるという極めて微妙なバランスの上に成り立つ関係で結ばれるようになるのです。
主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
「ついに、これこそ
わたしの骨の骨
わたしの肉の肉。
これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
アダムは、神様が連れてこられたエバを見て、思わず《ついに、これこそわたしの骨の骨、肉の肉》と歓喜の声をあげます。これはアダムがエバの中に自分自身の分身を見つけた喜びの声です。男(イシュ)から取られたものだから女(イシャー)と呼ぼうというアダムの言葉は、単なる言葉遊びのようにも聞こえますが、それだけではなくエバは自分の一部であるという強い思いの表れなのではなのです。
それでもなお謎が残ります。アダムにとってエバは自分の一部かもしれない。では、エバにとってアダムはどういう存在なのでしょうか。自分はアダムの一部に過ぎないというのでしょうか。そうだとしたら、エバは決して一人前の存在ではありえなくなってしまいます。一方が他方の一部であるというのは非常に強い結びつきではありますが、決していい結びつきにならないのです。妻を自分の所有物のように扱う夫がいます。子供を自分の所有物のように扱う母親がいます。その結果は推して知るべしです。
だから、アダムのあばら骨が抜き取られた跡を神様が塞がれたということには、とても大きな意味があるのです。繰り返しますが、それによってアダムとエバは別人格、つまり一と一になったのです。
一と一は二であって、一にはなりません。お互いが一であるということを大切にしあえばいいのではないかと思いますが、それでは《二人は一体となる》とはいえません。お互いの人格を尊重するだけでは、結局は個人主義に陥るのでして、お互いに無関心で干渉し合わないという関係とあまり変わらないことになるのです。一体、つまり一つの体というからには、互いに相手を自分自身のように愛することが必要です。相手が痛めば自分のことのように痛む。相手が喜べば自分自身のことのように喜ぶ。相手が興味をもつことには自分もまた興味が沸いてくる。そういう共鳴、共感がなければ一体ではありません。
どうすればいいのでしょうか。一と一でありながら二ではなく、一となっていくためには、実は三が必要なのです。三というのは、他なるもののことです。この三という他なるもは、アダムにとっての他なるものであるエバではありません。またエバにとって他なるものであるアダムでもありません。アダムとエバにとっての他なるものです。
あまり良い例ではありませんが、むかしビートたけしが世界の人たちが一致するために、宇宙人が攻めてくればいいと言って、みんなを笑わせていました。人間がお互いに向き合うとすぐに対立関係になります。けれども、共通の敵をもてばそれに向かって一致するということなのです。もちろん、これは敵でなくてもいい。共通の目的、共通の喜び、共通の趣味、共通の価値観、そういうものが一と一を二ではなく、一にするわけです。そこではじめて自己中心の世界観のぶつかり合い、つまり敵対関係がなくなります。そして、抑圧的な意味で一と一が一であるということではなく、また分裂としての一と一が二であるということでもなく、共に生きる相手として互いに見つめ合い、自分自身のように相手を愛するということが可能になってくるのではないでしょうか。
そして、三なるものの質の高さが、二人の一体感をより高いものにしていくわけです。《骨の骨》という言葉には、自分の分身という意味だけではなく、同じ親から生まれたという意味があるそうです。アダムとエバにとって同じ親とは神様のことでありましょう。神様こそ、一と一であるアダムとエバを一体にする三なる存在であったのです。
前回のお話しに戻りますと、人間はたとえ一として十全な存在であっても、それだけではなお足りないものがあるのです。それは何かというと自分自身のように愛することができる存在です。そこで神様はアダムからあばら骨をとってエバを創造されました。アダムは自分自身の骨肉たるもの、自分自身のように愛するものをそこに見いだします。しかし、実はそれだけでは二人は互いに合う助ける者になれません。その証拠に第三章に入ってからの話ですが、罪を犯したときに二人の幸せな一体感は壊れてしまいます。罪というのは、神様に対する背きであります。つまり、三なるものの喪失なのです。このことも、神様という三なるものを愛し、敬うということによって、はじめて一体ということが実現するのだということがお分かり頂けると思うのです。 |
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聖書 新共同訳:
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(c)共同訳聖書実行委員会
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(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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