天地創造 26
「年を経た、賢き蛇」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記3章1〜5節
新約聖書 マタイによる福音書 第13章24〜30節
天地創造の難問
 第3章のテーマは「失楽園」です。これは人間が神様に罪を犯したというお話しですが、その前に第1章、第2章に記されていた天地創造のお話しの要点を復習しておきたいと思います。

 第一に、すべてものは神様に造られました。

 「すべてのもの」とは、私たちが経験し得る時間や空間、また物質的存在、それから人間を含めあらゆる生命体の命、霊、またそれらを結びつける関係性、そういうもの一切合切を含めてのことです。それだけではなく、私たちが普通には経験し得ない世界や存在、つまり神様の恵みと信仰によってようやくその一端を経験することができるような天や天使たちの存在もその中に含まれています。このように神様以外のものは、すべて神様が作られた世界、つまり被造物なのです。「被造物」というのはちょっと難しい言葉ですが、聖書に出てくる大事な言葉なので覚えておいていただきたいと思います。
 
第二は、すべてのものは神に良しとされました。

 第1章31節に、《神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。》とありますように、神様はすべてのものを祝福され、愛されました。イエス様も、五羽二アサリオンで売られている雀について《その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。》(『ルカによる福音書』第12章6節)と言われています。やなせたかしさんの『手のひらを太陽に』ではありませんが、「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって」、みんな神様が良きものとしてお造りになり、その命を祝福し、愛してくださっているのです。このような被造物に対する神様の愛、これが、聖書の世界観の根底にあることです。

 第三に、人間は、神様の愛を一身に受けています。

 神さまの天地創造の目的は、人間を造り、人間を愛し、人間を神さまの祝福のなかに置くためでした。人間は神様の似姿に創造され、鼻から命の息を吹き込まれて霊的な命をあたえられました。そして、この地を従わせる者として格別な祝福を受けているのです。

 ところで、このような天地を造られた神様を信じて、それを私たちの人生の根底に据えて生きるという時に、たいへん難しい問題が一つあります。それは神様がすべてを良しとされた世界に、どうして悪や罪が入り込んだのかということです。

 私たちの世界には、多くの悲惨な現実があります。とても神様がお造りになった愛と祝福の世界とは思えません。すべてのものが神の被造物であるならば、悪や罪もまた神様のお造りになったものだというのでしょうか。そうでないなら、なぜそれが存在するのでしょうか。

 天地創造について語られるとき、進化論をどう考えるのかとか、神様が天地を造られる前はどうだったのかとか、本当に七日間で天地が造られたのかとか、水はいつ造られたのか、理屈の上ですべてを納得しようとしてもいろいろ分からないことがあるかもしれません。けれども、そういうことは神様を信じることによって解決できることです。たとえ未解決のまま残っても、さしあたって生活に支障があるわけではありません。お茶でも飲みながら議論したり、想像を巡らせたりすることができるのです。

 しかし、悪や罪の問題は、まさしく私たちがリアルタイムに経験している人生の問題です。悠長にお茶なんか飲んで考えている場合ではありません。神様がすべてを造り、そして造られたすべてのものを良しとされたというならば、なぜ悪や罪が存在するのか。これこそ天地創造の一番の問題なのです。
蛇とは何者なのか
この悪や罪について語っているのが、第3章です。神様が絶対に食べてはいけないと仰った禁断の木の実を、アダムとエバは食べてしまいました。そこに罪が生じます。

 しかし、それだけならば話は単純で分かりやすいかもしれません。ところが、聖書は、アダムとエバが罪に陥ることを願い、そのようになるよう唆したものがいたと語っています。それが《蛇》なのです。

 アダムとエバは神様に不満があったのではありませんでした。罪を慕っていたのでもありませんでした。ただ、罪に対する警戒心がなかったのです。

 《蛇》は違います。《蛇》は、神様に対する不信感、敵対心、罪を罪と思わない不敵さをもっています。そして、悪しき意図と悪しき知恵をもった存在として登場します。

 よく、神様が禁断の木の実を造ったりしなかったら、アダムとエバは罪を犯さずに済んだのに・・・という話を聞きます。しかし、そんなことよりも問題なのは、神様が良しとされた世界に、しかも神様が人間のために格別な思いをこめてお造りになったエデンの園に、悪しきものなる《蛇》がいたということです。この《蛇》が現れなければ、アダムとエバも罪を犯さずにいたかもしれません。

 いったいこの《蛇》は何者なのでしょうか。どこからエデンの園に入り込んだのでしょうか。

 まず3章1節を読んでみましょう。

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

 聖書は、《蛇》をサタンや悪魔と呼んではいません。その手先であるとも言われておりません。《蛇》は、《神が造られた野の生き物》であったと記されています。あくまでも、これは神様が創造された生き物であったのです。

 それならば、この《蛇》は、わたしたちがよく知っているあのヘビなのでしょうか。しかし、《最も賢い》と言われています。するとあの《蛇》とは違うのであろうかとも思えてきます。何よりも、この《蛇》はしゃべるのです。

 このお話しが単なる寓話だとするならば、ヘビがしゃべっても何の不思議もありません。しかし、動物がしゃべるという話は寓話以外の何物でもないと決めつけてはいけません。聖書には、動物がしゃべる話は他にもあるのです。

 たとえば、こういう話があります。メソポタミアの占い師バラムがモアブ人の王に請われて、イスラエルを呪うために出かけようとしますと、乗っていたロバが急に立ち止まりビクとも動かなくなってしまいます。バラムは言うことを聞かないロバに苛立ち、何度も鞭で打ちました。すると、ロバがしゃべるのです。聖書には、《主がそのとき、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは。」》(『民数記』第22章28節)とあります。そして、なぜロバが立ちつくしてしまったのか、その原因が明らかにされます。道の行く手に抜き身の剣を手にした御使いが立ちふさがっていたのでした。そのためにロバは立ちつくし、動けなかったのです。そうとは知らず、バラムはロバを叱ってしまったのでした。

 動物も神様がしゃべらせようとすればしゃべるだろうし、それだけではなく天使を見て、聖なるものへの恐れを感じるのだということが分かります。動物にはそんな心や意志などないなどと言ってはいけません。

 それから、もう一つ見落とせない聖書の記述があります。『ヨハネの黙示録』第12章のなかに、《年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者》という表現があります。やはり、《蛇》の正体は、悪魔とかサタンと呼ばれるものなのでありましょう。しかも《年を経た蛇》という言い方がありますから、それは蛇一般のことではなく、『創世記』第3章に出てくるあの《蛇》に限ってのことだと言ってもいいのではないでしょうか。

 《蛇》の正体について、これ以上のことを語るのは難しいと思います。ただ、こういうことは言えるのです。アダムとエバを罪にいざなった者、つまり《悪魔とかサタンと呼ばれるもの》は、神様がお造りになった被造物であった。しかも、私たちがイメージするようなおどろおどろしい姿をしているわけではなく、《蛇》のようにありふれた姿をしていたということです。

 もっと言えば、《野の生き物》は、人間が支配するように言われているものです。そのように、自分が支配していると思っているようなもののなかに、それはひそんでいたということなのです。

蛇はどこから来たのか
もっと難しいのは、サタンの起源の問題です。野の生き物であるにしろ、サタンであるにしろ、なぜそのような悪しきものが、ここに突然、登場するのかということです。

 すべてを良しとされた神様の世界に、悪が存在することは矛盾です。それにもかかわらず、それは決して否定できない現実でもあるのです。

 分かりやすい説明は、善悪二元論です。はじめから神様に対抗する勢力としてサタンがいたという解釈です。けれども、そうではなく、《神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった》とありますように、あくまでもこれは神の被造物として描かれています。これは本当に答えが出ない難問なのです。

 もちろん、いろいろな説明がなされてきました。たとえば、アダムとエバの堕罪事件の前に、天の国において堕罪事件があった。つまり罪を犯した天使がいた。それがサタンであるという説明があります。ただし、この話は、必ずしも聖書に明確な根拠があるわけではありません。

 もっと哲学的に悪の問題を論じた人もいます。たとえば、悪とは、神様の創造の陰の側面だというのです。神様は光だけでなく闇を造られた。初めだけではなく終わりをも造られた。喜びだけではなく哀しみも造られた。成長だけではなく衰退も造られた。存在するすべてのものはこのような明るさと暗さを併せ持っています。その暗さの面だけを取り上げて悪と呼んでいるに過ぎないのであって、それは必ずしも悪ではないというのです。

 そうすると、賢さという明るさの陰の部分として悪への誘惑というものが存在しているということもできるかもしれません。たとえば、イエス様は蛇のように賢しく、鳩のように素直であれと言われました。賢さと素直さ、そのどちらだけでも駄目で、両面を併せ持つということが大事だと言われるのです。信仰と疑いもそうかもしれません。まったく疑いというものが入り込まない信仰というのはある意味で恐ろしいのです。疑いと信仰の両面をもちつつ、何が信仰であるかを選び取っていくのが正しい姿勢ではないでしょうか。

 しかし、このような考え方にも、ちょっと不安が残ります。これでは、本当の意味でまったき悪というものは存在しないということになってしまうからです。聖書は、悪に対してそこまで楽観的ではありません。この世の君としてのサタンやその勢力が存在し、私たちを常に神様から引き離そうとしているということが聖書には縷々述べられています。

 しかし、いざサタンとは何か、悪とは何かというと、これはなかなか難しいということなのです。というのは、あれは善だ、これは悪だと、簡単にわりきるのはとても危険なことだからです。イエス様は裁くなと仰いました。良い麦の中にどこからともなく毒麦が入り込み、交じっていても、それを自分の判断で抜いてはいけないということも仰いました。それは刈り取りの時に分別されるのです。

 今日は、煮え切らないお話しで、皆さんも消化不良を起こしているかも知れません。悪の問題は、それだけ難しいのだということを覚えていただければと思います。簡単に白黒がつけられない問題なのです。別の言い方をすれば、それだけ悪というのは得体の知れない怖さをもったものでもあります。悪が何かはっきりと見えないとするならば、私たちははっきりとしているもの、つまり神様に留まることに心を尽くし、力を尽くすことしかないのです。パウロは、こう言っています。

主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。(『エフェソの信徒への手紙』第6章10〜13節)

 悪魔の策略に対抗するためには、神の武具を身につけることだというのです。神の武具とは何か。それは真理、正義、平和、信仰、神の言葉、これらのものを追い求め、祈り求め、しっかりとそこに留まることです。そうすれば、悪魔が何であれ、私たちは神の愛と祝福を信じることができるのです。
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