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神様が創造されたこの世界の輝きを、私たちは今も見ることができます。自然の美しさ、宇宙的な秩序、生命の力強さ、その中に秘められている計り知ることのできない知恵、人間のもつ愛や勇気、そのようなものに触れて、私たちは天地万物の創造主なる神様の知恵、力に畏敬の念を抱くのです。
けれども、私たちが経験するこの世界にはもう一つ別の顔があります。地震、津波、噴火など不安定に猛り狂う自然の力、動物や植物の異常繁殖、冷害、干ばつ、洪水・・・自然が人間の生活に深刻な脅威を与えています。それは人間が自然に与えている脅威のしっぺ返しでもあります。何よりも私たちを途方に暮れさせるのは、私たち自身のうちにある醜くいやらしい心です。この心をもって私たちは互いに傷つけ合い、奪い合い、結果として他者を憎み、自分の存在を愛することができず、運命の理不尽さに嘆く者になっているのです。
この世界の見せる破壊的、破滅的な現実を目の当たりにするとき、そのあまりの強烈さに、私たちは「それは極めて良かった」という、天地創造の頂点にあるみ言葉が、どこかよその世界の話のように空しく聞こえてきます。
たしかに、この世界が穏やかで、平和で、美しく見えるときがあります。人間の愛、勇気、善意が心を打つときもあります。けれども、結局それは欺瞞的なものに過ぎないのであって、ひと皮剥けば創造主への賛美などたちまち消え失せてしまって、目を背けたくなるような現実が「これこそ世界の真実だ」と言わんばかりに主張しているのではないでしょうか。
聖書は、神様が創造された世界が極めて良かったと語っているだけではありません。その極めて良かった世界が、いつ・なぜ・いかにして、それを損なってしまったのかということを物語り始めるのです。
それが、『創世記』3〜11章に記されていることです。3章にはアダムとエバの堕罪と楽園追放の物語、失楽園が記されています。4章には人類最初の殺人事件であるカインとアベルの物語が記されています。5章にはこのような神の祝福と戒めを離れた人間が増え続け、その結果として地上の悪もまた甚だしくなり、ついに神様の堪忍袋の緒が切れてしまう。それが6〜9章に記されている大洪水とノアの箱舟の物語です。
ノアの物語は、神様が人間の罪深さを容認し、それにも関わらず人間を祝福するというノアとの約束をもって終わります。10章はそのような神様とのゆるしと祝福のうちに再び人間が増えはじめたことが記されています。11章には、絶望と希望の二つの物語が記されています。絶望の物語というのは、そのように神様のゆるしと祝福のうちに再び繁栄を取り戻した人間は、やはり神様を忘れて御心を痛めることになってしまったというバベルの塔の物語です。希望の物語というのは、それにも関わらず神様はノアと契約を守り、人間はゆるしと祝福のうちに繁栄を続け、ついにアブラハムが生まれたという物語です。
新約聖書は、このアブラハムの子孫にイエス・キリストが生まれたという系図をもって始まります。つまり、今私たちが読んでいる聖書の最初に記されている太古の物語は、私たちの現実や希望とまったく関係のない昔話とか、神話の類ではないのです。まさに今を生きている私たちの不幸な現実がどこから始まり、そこからの救いと希望がどこにあるのかということまで指し示す物語であるということなのです。
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アダムとエバの、そして、全人類の失楽園の物語は、蛇の登場によって始まります。
この蛇は、私たちが知っている蛇とはだいぶ違います。《神が造られた野の生き物》とは言われていますが、《最も賢い》と言われていますし、人間の言葉を操るのです。この蛇の正体については、前回、お話しをさせていただきました。結論だけを申しますと、やはりこれは悪魔、あるいはそれに類するものの化身であったであろうと思われるのです。そして、聖書はそのような悪魔ですらも、神の被造物のひとつに位置づけていることがわかります。
しかし、蛇の正体についてはこれ以上の深入りをしないで、今日は、蛇の言葉について考えてみようと思います。
蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(3章1節b)
本当にそんなことを、《神は言われたのか》と、蛇はエバに話しかけています。
ここで問題にされているのは神の言葉です。しかも、神様が何と言われたのかという単純な確認ではなく、語られた神の言葉に対して神学的な対話、議論をしようとしているのです。エバが少しも警戒していないところをみると、おそらく蛇は極めて思慮深い、生真面目な面持ちで、神様について一生懸命に考える神学者のように問うたのでありましょう。たとえば、こんな風に。
「エバさん、あなたほど神様に愛され、いつも神様の傍にいる人ならば、きっとご存知のはずです。ぜひ教えていただきたいのです。神様は、本当に園のどの木からも食べてはいけないなんてことを仰ったのでしょうか。神様は優しく、恵み深い御方です。わたしもあなた同様に神様を心から敬っております。だからこそ、神様がそんなことをおっしゃるなんて、とても信じられないのです。いかがでしょう。神様は確かにそのように言われたのですか」
蛇は、神様を否定したり、み言葉を聞かなくてもいいとは、ひと言も言っていません。いかに蛇のうちに神様に対する敵意や、不信感や、人間を神様から引き離そうとする悪巧みが潜んでいようとも、決してそのことを悟られないように、あたかも敬虔な信仰者であるかのように振る舞っているのです。
これは荒れ野でイエス様に現れたサタンも同じです。サタンは決して冒涜的な言葉を吐いたり、威嚇的な言葉で脅したりはしません。むしろ、同情する者のように「あなたは神様の御子ではありませんか。それがどうして断食などなさって苦しんでおられるのですか」と語りかけるのです。あるいは聖書の言葉を用いて、「あなたは御子ですから、きっと神様はあなたをお守りくださいます。そのことを皆に知らしめたらいかがでしょう。」と、神殿から飛び降りるように勧めるのです。このように、悪魔は決して悪魔らしく振る舞いません。それが大事なところです。
パウロは、コリントの教会に送った第二の手紙のなかで、コリント教会の人々が使徒たちの伝えるのとは《異なるイエス》、《違った福音》を聞かされていることに、とても心配をしています。
ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。(『コリントの信徒への手紙二』第11章3〜4節)
《よく我慢している》とは、皮肉が込められた言葉ではないかと思います。よく我慢していられるものだ、あなたがたはすっかり騙されているのだと、パウロは言いたいのです。
なぜ騙されてしまうのでしょうか? それは騙す方が賢く、巧みであるからなのです。パウロはこうも言います。
こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。(『コリントの信徒への手紙二』第11章13〜15節)
サタンは、自分の正体を隠すばかりではありません。信仰深く振る舞うことも、善人のように振る舞うこともあるのです。
これではとても太刀打ちできません。世の中には、盗んだり、騙したり、暴力をもって傷つけたり、殺したり、そういうことをする人がいます。けれども、誰も好んで悪人になりたかったわけではないでしょう。自分を守るためであるとか、家族や友達のためであるとか、それしか道がないとか、そのように思い込み、最初の一歩を踏み込んでしまうのです。
悪魔は決して悪魔の恰好をして私たちに近付いてくるのではありません。さあ、一緒に神様に背いてやりましょうなどとは決して言いません。たとえば、このように語りかけるのです。
「祈りも大事ですが、祈っていたって始まりません。まず神様があなたに与えてくださった自分の力を信じて試してみることです。天は自らを助くる者を助く、というじゃありませんか。
あなたが他人の幸せのために犠牲になることは、神の御心でしょうか。神様はあなたを愛し、あなたの幸せを誰よりも願っておられるのです。他人のことは他人の問題です。
隣人を愛せ、それはそうです。だけど隣人っていうのはいったい誰のことでしょう。あの人はあなたの友達じゃありません。あなたのことなど少しも気に掛けていないし、自分のことばかり考えているのです。そんな人があなたの愛すべき隣人でしょうか?
神を礼拝せよ、それはそうです。神様はすべての人に崇められる御方です。だけど、何が神を崇めることになるか、よくお考えにならなければいけません。それは教会で賛美を歌うことでしょうか。牧師の説教を聞くことでしょうか。日曜日だってあなたは世の中で果たすべき務めはたくさんあります。それを果たすのが神の御心であり、神を崇めることじゃないでしょうか。
どうして、信じたら洗礼を受けなくてはいけないのですか。大事なのは形ではなく、心です。あなたはあなたなりに信じていれば、十分に信仰者ではありませんか。
神様があれをしてはいけない、これをしてはいけないなどと言うでしょうか。神様はすべてのものを良きものとしてお造りになり、すべてのものを祝福として与えてくださっているのです。」
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
わたしたちの神様はそんなことを言うでしょうか? 私たちを騙そうとする蛇は雄弁な神学者のように神について語るのです。
神学とは、神についての学問です。わたしも神学を学び、学位を修めました。神学というのは確かに誘惑の多い学問だと思うのです。人間の頭で神について考え、人間の言葉で神様について語らなければならないからです。そうでなければ学問にならないのです。
しかし、神様の事柄は、果たして学問の対象だろうかという根本的な疑問が残ります。そもそも神学というものがどうして始まったのか。ひとつには、迫害者や異教的な思想に対して、キリスト教を弁証したり、論破する必要があったと思われます。あるいは、聖書が唯一の信仰の基準になりますと、この限られた正典のなかから、人間のあらゆる問題について御心を汲み取る必要があります。そのように神学というのは、教会や信仰に仕える学問でありまして、その大切さに少しも疑いを抱きません。
けれども、神様という御方は、結局は人間の知恵では語り得ぬ御方であるということを忘れ、神の思いではなく、人間の思いが神の名において語られるような神学になってしまうことがあるのです。実際、そのような過ちを、キリスト教は歴史の中で繰り返してきたと言えます。
人間の思いとは何でしょうか。それは、神様と私たちの間に立ちはだかるものを取り除きたいという思いです。私たちは、神様の素晴らしさを、恵み深さを心から讃えることにやぶさかではないのです。けれども、幾つかのことにおいて、神様の御心が分からない、理解できない、納得できないということがあります。実は、そのようなものの存在は至極当然のことなのです。神様は造り主であり、私たちは被造物に過ぎないのですから、私たちが神様の思いを知り得なくても、理解できなくても、納得できなくても、なんら不思議ではありません。そのまま受け入れるしかない、そういうことが私たちにはあるのではないでしょうか。
しかし、まさしくそのような一点において、私たちは神様を疑い、神様に反抗的になることがしばしばあるのです。神様が正しい方であるならば、どうしてこんなことをゆるしておかれるのか。神様が恵み深い方であるならば、どうして助けてくださらなかったのか。このような一点に拘りますと、神様に愛されている事実がどんなに多くあっても、それが見えなくなってしまいます。そして、「神の正義はどこにあるのか」、「神の愛はどこにあるのか」と考え、神の正しさを、愛を、疑い出してしまうのです。そして、ヨブもそうであったように、神様よりも自分の思いの方が神様の正しいあり方を示しているのではないか、と考えてしまうのです。
誘惑はそこを掴みかかります。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
蛇は、園の中央の木について、何も語りません。しかし、神様と人間との間に距離があることを匂わせるのです。そして、そんなことはおかしい、神様はそんなことをなさるはずがないと暗示するのです。すると、案の定、エバは答えます。
女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
エバの口から、園の中央に生えている木の果実について言及されました。それまでは、多くの祝福、恵み、愛に囲まれて、その一本の木については考える必要もなかったというのに、エバは、唯一の禁止事項について思いを馳せ、考え始めます。人間が食べることができない、触れることができないもの、それを犯したら死んでしまうもの、その存在の大きさを感じ始めます。
触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。
このように答えながら、エバの心の中では、一本の木の存在がとてつもなく大きくなっていくのです。蛇はそれを見逃さず、すかさず掴みかかります。
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
これについては、また次週にお話しをしましょう。
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