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先週は蛇の誘惑について学びました。
蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
自らの悪魔性をすっかり隠して、蛇はエバに近付きます。そして、熱心な求道者のように、あるいは思慮深い神学者のように、神様が語られたみ言葉について、御心について対話しましょうと持ちかけたのです。
「エバさん、あなたほど神様に愛され、いつも神様の傍にいる人ならば、きっとご存知のはずです。ぜひ教えていただきたいのです。神様は、本当に園のどの木からも食べてはいけないなんてことを仰ったのでしょうか。わたしにはまったく信じられないのです。神様は優しく、恵み深い御方です。わたしもあなた同様に神様を心から敬っております。だからこそ、神様がそんな意地悪なことをおっしゃるなんて、とても信じられません。いかがでしょう。神様は確かにそんなことを言われたのですか」
もし、蛇が悪魔性をむき出しにして、神様をあからさまに冒涜したり、み言葉を否定したりしたならば、エバは、そして私たちも、必ず蛇の言うことなどに耳を傾けなかったでありましょう。しかし、パウロも警告しているように、悪魔はしばしば光の天使を装い、また義に仕える者を装って、あるいはこの世的な親切心をもって、異なる教えを私たちに吹き込もうとするのです。だからこそ、エバは何の警戒心もなく蛇との対話に引き込まれてしまったのでした。
もう一つ、蛇の言葉には、エバを誘惑するのに非常に巧みな点があります。それは神様が与えてくださった豊かな恵みについてではなく、神様が与えてくださらなかったものについて論じようと持ちかけていることです。
確かに、神様が人間に与えられなかったものがありました。創世記2章16-17節には、こう記されています。
主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
神様は、最初に「園のすべての木から取って食べなさい」と言われていることが重要です。食糧だけではありません。神様が喜びをもって生きていくために必要な環境、仕事、食糧の一切を十全に整えて、それを祝福としてお与えになったのでした。
その上で、一つの禁止事項を与えました。この禁止事項の意味するところが極めて重要です。この世界のすべてのものを人間が自分のもののように所有し、自由にすることができたとしても、人間は決してこの世界の神ではない。人間は神に造られたものであり、神ではなく人間に過ぎないのだという、限界を示すものが、この禁断の木の実だったのです。
人間が神様を敬い、人間が人間に過ぎないという限界を当然のこととして受け入れている限り、この禁止事項はそれほど大きな存在ではなかったはずです。実際、アダムも、エバも、蛇の誘惑を受けるまでは禁断の木の実を食べようなどとは少しも思わなかったのです。それは、この唯一の禁止事項は、人間に与えられた祝福の生活を少しも損なうものではなかったという証しでもあります。
しかし、蛇は神が与え給うたものについてではなく、神が与えてくださらなかったものについて考えてみよう、与える神ではなく、与えない神、禁じる神について論じよう、と持ちかけます。そして、まるで神様がわたしたちに何も与えてくださらない御方であるかのように、エバに語りかけるのです。
蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
私たちの中にも、このような蛇の声が聞こえてくることがありませんでしょうか。神様は何もしてくださらないのではないか? 何も与えてくださらないではないか? あれをしてはいけない、これをしてはいけないと、私たちの罪意識ばかりを増長させる御方なのではないか? 誘惑者は、そうやって神様の愛、祝福に対して、私たちの目を眩ませ、神様への否定的な思いを増幅させようとしているのです。
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エバは、敬虔な信仰者を装った誘惑者に心をゆるし、蛇との対話に引き入れられてしまいました。
誘惑を受けること自体に罪があるのではありません。イエス様もまた誘惑を受けられました。神様を信じていようと、誘惑は避けられないものとして、常に私たちに襲いかかってくるのです。
ある人が、「誘惑を避けることはできない。誘惑は私たちの頭の上をいつも旋回している鳥のようなものだ。しかし、それが頭に巣を作らないように気をつけなさい」と言いました。誘惑に対しては、まともにやっつけることよりも、追い払ったり、身を避けたりして、まともに取り合わないことが一番いいのです。誰が、悪魔との巧みな誘惑に耐え得るでしょうか。
エバも、このような誘惑者とのまともな対話には引き込まれない方がよかったのです。しかしエバは、誘惑者との対話にまともに引き込まれてしまったのでした。
女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
エバは、神様が与えてくださった恵みの豊かさについて語ります。神様が禁じられた木の実についても、それは私たちが死なないためだと、神様への肯定感に満ちて答えています。
「いいえ、蛇さん。神様は決してそんなことをおっしゃる方ではありません。神様は実に恵み深い御方です。園の木の果実はすべて遠慮なく食べなさいとおっしゃってくださいました。ただ園の中央にある木の果実だけは、唯一の例外です。それだけは食べないように、触れないようにと言われました。それを食べると、私たちは死んでしまうのです。」
正しい信仰の言葉です。「神様は、園のどの木からも食べてはいけないと言ったのですか」という誘惑者に対して、「いいえ、そんなことは決していいません。神様はそんなことをおっしゃる方ではありません」と一蹴したのでした。
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しかし、誘惑者は引き下がりません。
誘惑は、正しい信仰を告白した直後にも入り込んできます。イエス様が弟子たちに「あなたがたは私のことを誰だと思っているのか」とお尋ねになったとき、ペトロはすかさず「あなたこそ生ける神の子メシアです」と答えました。イエス様はこれを喜び、ペトロを祝されました。しかし、その直後、ペトロはイエス様に「サタンよ、引き下がれ」と厳しく叱責されるような発言をしてしまったことを思い出してもよいと思います。誘惑者は簡単には引き下がらないのです。
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
「私たちは死んでしまうのです」というエバの言葉に対して、蛇すなわち誘惑者は、「決して死ぬことはない」と言いました。言い換えれば、エバが「神様の言葉は、生死に関わる重大な意味をもっている」と言ったのに対して、誘惑者は「いやいや、そんな大袈裟なことではありません、もっと気楽に考えましょうよ」と誘惑したのです。
神様のみ言葉は、確かに生死に関わる問題です。イエス様は、人間が神の口からでる一つ一つの言葉で生きると教えられました。み言葉によって生きるということは、み言葉によらなければ死ぬということを意味します。
『ヘブライ人への手紙』3章15〜18節にはこう記されています。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
神に反抗したときのように、
心をかたくなにしてはならない。
いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。
み言葉を聴いても、それを真剣に、つまり生死に関わることとして受けとめなかった人々がどのような運命を辿ったか、そのことを思い起こしなさいと言われています。そして、み言葉によって生きることこそ、あなたがたの安息であり、力であり、命であると言われているのです。
しかし、誘惑者は言います。「そんなことであなたは死にはしませんよ」と。
「確かに、聖書は素晴らしいし、有益なことをたくさん教えられます。それは私も知っています。それを大事にしようとするあなたの心がけは実に殊勝です。
だけど、世の中を見てごらんなさい。聖書なんか読まなくても、自分の人生を楽しんで生きている人はいっぱいいるじゃないですか。聖書は、つまり神様のみ言葉は、より命を豊かにしたり、成長させたりすることはあるでしょうけれど、それによって生きるか、死ぬか、そんな風に考える必要はないのです。
もっと気楽に考えた方が楽しいじゃないですか。信仰とか、聖書とか、それは人生のデザートのようなものです。参考書のようなものです。なくてはならないものではないけれど、あったらもっと素晴らしい。そんなものです」
誘惑者は、見事に私たちの弱点を責めてきます。神様を信じること、み言葉を信じること、それは時に私たちにとって非常に厳しい要求であることがあるのです。信仰することが、み言葉に立つことが、何にも代え難い命であると真面目に信じていればいるほど、信仰が、み言葉が、重荷となり、辛く感じられる時があるのです。
そんな時、誘惑者が「そんなに真面目に考えなくてもいいじゃないですか。何も神様に逆えとか、信仰を棄てろとか、そんなことを言っているのではありません。でも、そんなにきっちりとみ言葉を守るなんて無理な話です。たまに、み言葉を離れてもいいんじゃないですか? それであなたが死んだりするものですか。神様を知らない人、み言葉を知らない人だって、ちゃんと生きているじゃないですか。それが現実ですよ」などと語りかけてきたら、ついそちらにそよいでしまうのではないでしょうか。
エバもそうだったかもしれません。しかし、するとなぜ神様は「死ぬ」などと仰ったのか、そういう疑問が起こってきます。そこで誘惑者は言うのです。
それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。
つまり、こういうことです。
「死ぬといったのは、ただの脅かしなんですよ。そんな風に神様を恐れていてくれた方が、神様にとって都合が良いんです。なぜなら、あの木の実を食べると、人間は神様のようになってしまうからです。
いいですか、エバさん。人間はあの実を食べると、神様のように素晴らしい知恵をもつことができるし、それによって何が善であり、何が悪であるかと知ることができるのです。そうなったら、神様の立場がなくなってしまうじゃありませんか。
神様は、そのことをよく知っているのです。そして、恐れているのです。あの木だけは食べて欲しくないのです。だから、食べると死ぬなんておっしゃったんですよ」
これは完全に神様に対する中傷です。蛇の、誘惑者の言うことは全部でたらめです。けれども、エバはそのことに気づいたでしょうか? たぶん気づかないのです。それどころか、誘惑者のペースに乗って、素朴に信じていた神様への信頼がぐらりと揺らぎ始めたのでした。
しかし、その時、蛇はもう姿をくらましていました。これもまた誘惑者の見事な手口なのです。心の中にほんの一粒、二粒の疑惑を残し、そのまま姿を消してしまいます。本当に神様の言葉を守らなくても死なないのだろうか? たしかに知識を持つと言うことは素晴らしいことだ。どうして、神様はそれを禁じたりしたのだろう? やっぱり、蛇の言うとおり、わたしが神様のようになることを恐れて、わたしを脅かしていただけなのだろうか?
エバはもっと蛇と話をし、確かめたいと思っても、もう蛇はそこにいません。結局、エバは自分の中の疑惑と対話を始めることになります。そうしているうちに疑惑はエバの心のなかで増幅し、成長していくのです。
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。
《唆していた》のは蛇ではありません。神様が食べてはならないと言われたその木、自体です。
しかし、これまでは違ったのです。エバは、この木を見るたびに、神様の戒めを思い起こし、神様へのまったき信頼をもって、「ああ、神様はわたしが死なないように、わたしのためにこれを食べてはいけないとおっしゃったんだわ」と思ってきたのです。神様に感謝の念すら覚えていたのです。
ところが今、この木はエバを誘惑する木となっていました。その誘惑は、この木を見るエバの心の変化によって生じたものに違いありません。蛇は、エバを誘惑することに成功したのでした。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
誘惑に抵抗するということは、本当に難しいのです。パウロは、『エフェソの信徒への手紙』6章で、ただ神の武具を身につけることによってのみ、それは可能であると言っています。次回は、この神の武具についてお話しをしたいと思います。
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