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前回はエバが誘惑におちてしまった成り行きについて学びました。いろいろなことをお話ししましたが、要するにエバよりも誘惑のほうが一枚も二枚も上手であったといえます。
私たちの場合はどうでしょうか。ちまたに「○○詐欺」、「○○商法」といったものがあふれており、機会をみつけては人を騙そうとする輩がいます。他方で、騙されないようにと注意をうながす人たちもいます。テレビ、新聞、週刊誌、自治体の広報などは、こぞって詐欺の実態やその詳しい手口を知らせています。それでも騙される人たちは後を絶ちません。騙される方の無知が問題なのではなく、騙す方がそれよりも上手なのです。騙しの手口を知っていても、さらにその上を行くのが騙す者なのです。それならば、エバがいかに騙されたかというお話しも大事ですが、より必要なことはどうすれば騙されずに済むかということに違いありません。
そこで今日から数回にわたって、『エフェソの信徒への手紙』6章10節以下に記されているみ言葉を、ご一緒に学んでみたいと思います。ここには、私たちが悪魔の策略に対抗して勝利した信仰を勝ち取るためには何が必要かということが、丁寧に書かれているからです。
私たちが知るべき第一のことは、「信仰生活は闘いである」ということです。私たちは心穏やかに過ごすために信仰をしていると思っているかもしれません。信仰は、生きるにしても死ぬにしても私たちを揺るぎのないものとして支える堅き土台です。これにしっかりと立っていればどんな時にも平安であるということは間違いないことです。けれども、その信仰を揺るがせようとする者、その信仰から引き離そうとする者、それが悪魔なのです。信仰にしっかりと立ち続けるためには、この悪魔を退けて信仰を守り抜く闘いが必要であるのです。
私たちは、生活を守るためにいろいろな闘いをしているに違いありません。私たちの生活は、病気や事故や人間の思惑などによって、いつなんどき平和が失われるかもしれないという不安に脅かされています。生活の思い煩いは、そこから来るのです。しかし、イエス様はそのようなことで思い煩う必要はないと言われました。『マタイによる福音書』6章25節以下を読んでみましょう。
だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
思い煩う人たちに対して、イエス様は《信仰の薄い者たちよ》と言われました。信仰が薄いとはどういうことでしょうか。表面的には信仰者らしくしていても、生活全体において、あるいは心の奥底に至るまで、信仰による命が染み通っていないということです。だから、何かあるとすぐ信仰が吹き飛んでしまうのです。
イエス様がここでおっしゃりたいことは、もっと深いところで信仰を持ちなさいということです。あなたの生活、あなたの仕事、あなたの心や考え、そのすべてを支える根っこにおいて信仰を持つことが勧められているのです。そうすれば、そのすべてが信仰によって守られるのです。
だから、イエス様は《何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい》とおっしゃるのです。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、そのような生活の闘いをするのではなく、いかに神様の愛と祝福に生きるためにはどうしたらいいのか、神様から離れないためにはどうすればいいのか、それを求める闘いが必要なのです。
それが信仰の闘いです。この闘いに勝利さえすれば、私たちの生活にどんなことあっても、神様の賜る人知を超えた平和に守られるであろうというイエス様の約束なのです。
「静けき河の岸辺を」という讃美歌があります。この詩を書いたのはホレーション・ゲーツ・スパフォード(1828-88)といい、頭が良く、人徳にも優れ、信仰も篤く、誰もがうらやむような人でした。しかし、これほどまでかという世の悲しみを経験した人でもあったのです。
最初、彼はひとり息子を亡くす経験をしました。その半年後、彼は火災によって全財産を失いました。さらにその二年後、この讃美歌をつくるきっかけになった大きな悲劇を経験します。彼は家族でヨーロッパ旅行を計画しました。旅行の終わりには有名な伝道者ムーディ等と共にイングランドの伝道に参加する予定でもありました。しかし出発直前に急用ができてしまいます。やむなくホレーションは奥さんと4人の娘だけを先に出発させることにしました。その船が、大西洋のど真ん中で衝突事故を起こし転覆してしまいます。奇跡的に奥さんは助かりましたが、彼は最愛の4人の娘たちをいっぺんに失ってしまったのです。
彼はすぐに他の船に乗り、悲劇のあった大西洋に向かいました。そして、その荒れた海の上で、なくなった娘たちの面影を偲び、そして神様の摂理を思いながら、この讃美歌を作ったのでした。
しずけき河の岸辺を 過ぎゆくときも
憂き悩みの荒波を わたりゆくおりにも
心やすし、神によりてやすし
彼はどんなにか悲しみ苦しんだことでしょうか。しかし、それにも関わらず、彼にこのような賛美を歌わせるもの、それが人知を超えた神の平和です。彼は、このような悲しみを経験しないどんな人よりも深く神様の愛と平和を知っていたに違いありません。そうでなければ、このような詩は絶対にかけないからです。
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信仰の闘いは、神様の愛と祝福に生きるためにはどうしたらいいのか、神様から離れないためにはどうすればいいのか、そのことを求める闘いです。
もっと言えば、誰が本当に私たちを愛してくださる方であり、祝福してくださる方であり、平和のうちに住まわせてくださる方なのか。それはイエス・キリストである。これが信仰です。しかし、そこに「そうではない」という者がいます。イエス様など信じていても、あなたは幸せになれない。イエス様も悪くはないが、最後は自分の力だ。イエス様が確かに救い主だとしても、あなたはその救いに値しない。そのような様々な囁きが、イエス様こそ私たちを愛し、祝福してくださる御方であるという信仰をぐらつかせようとするのです。
だから、闘いが必要なのです。闘いに勝利して、信仰に留まり続けることが必要なのです。
いったい誰が私たちを信仰から引き離そうとしているのでしょうか。12節にそのことが記されています。
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
《血肉》とは、人間のことです。私たちの闘いは人間相手ではない。暗闇の世界の支配者、天の悪の諸霊、その支配と権威が相手であると告げられています。
闇の支配者、権威、悪魔と戦うとなどといいますと、『ナルニア国物語』とか『指輪物語』などにあるようなファンタジーのように思えます。しかし、そうでしょうか。エバの話を思い起こしていただきたいと思うのです。エバは神様がお造りになった楽園に住んでおりました。天気の良い午後の日、澄みわたった青空のもと、草木を愛でたり、動物たちと戯れたりしながら、散歩でもしていたのかもしれません。そんな平和な日常生活の中に、蛇が入り込んできて、そうとは知らぬうちに誘惑され、信仰の闘いの中に引きずり込まれてしまっているのです。
ここで注意しておきたいのは、蛇ないし悪魔の相手はエバではなく神様であるということです。悪魔はエバを誘惑し、エバを罪に落とすことによって、神様を中傷し、神様に勝とうとしているのです。ここはとても大事なポイントです。これは悪魔と人間の闘いではなく、悪魔と神様の闘いの物語なのです。その大きな闘いが、エバという一人の人間の営む平凡な個人の生活の中に入り込んできているのです。
これは、私たちひとりひとりが日々経験することなのではないでしょうか。私たちはだれ一人神様に逆らいたいとか、神様を悲しませたいなどと、大それたことは考えていません。一日を神様の喜び給う子として生きたいと思っているのです。
しかし、そのような思いを忘れ、神様の御心に反するような考えや行いにとらわれてしまうことばかり多いのは、どうしてなのでしょうか。もともと心が弱い者として、利己的な欲望が強すぎる者として生まれてきたのでしょうか。そうではなく、神様と悪魔の闘いが、私たちひとりびとりの個人生活の中に起こっているからなのです。だから、《わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。》と、注意を促されているのです。このことを知らずに、うかうかと生きていることが問題だといわれているのです。
では、どうすれば良いのでしょうか。10節にこう書いてあります。
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
悪魔と戦うためには、よほどの知恵や力が必要なことは言うまでもありません。人間の知恵や力ではとても太刀打ちできないのです。それなのに、自分の知恵や精神力で悪魔の策略を破ろうとするから、失敗します。だから、《主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい》と言われています。
イエス様を信じたら、私たちの知恵や力が増し加わるということでしょうか。少しはそういうこともあるかもしれませんが、私たち自身の力はそれほど変わらないでしょう。強くなるとは、私たちの知恵や力が増し加わるというよりも、主が私たちのために戦ってくださるということなのです。そのために主に依り頼みなさいと勧められているのです。
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主に依り頼むとは、具体的にどういうことなのでしょうか。11節にはこう書かれています。
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
《神の武具を身に着けなさい》といわれています。それは、13節にもう一度繰り返され、14〜17節には神の武具として《真理の帯》、《正義の胸当て》、《平和の福音を告げる準備の履き物》、《信仰の楯》、《救いの兜》、《霊の剣》が記されています。その一つ一つについては次回以降にお話しをしたいと思います。ただ、これを聞いて思うのは、頭から爪先までの完全武装をせよということです。頭には《救いの兜》、胸には《正義の胸当て》、腰には《真理の帯》、足には《平和の福音を告げる準備の履き物》、一方の手には《信仰の楯》、もう一方の手には《霊の剣》、というのです。全身全霊が主の偉大な力によって強められる必要があるのです。悪魔との闘いにおいては、私たちの生身の力は何一つ役に立たないからです。だから、頭のてっぺんから爪先まで、主の偉大な力で武装しなさいというのです。
誰もが信仰者でありたいと思っています。信仰によって私たちは神様の平和にあずかるからです。しかし、信仰はそうありたいと思うだけでは守りきることができません。「イエス様は主である」という信仰を崩してしまおうとする悪魔が、策略をもって戦いを挑んでくるからです。信仰を守る闘いを続け、信仰による神様の平和のなかに留まり続ける者でありたいと願います。 |
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