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蛇は、なぜエバに目をつけ、誘惑したのでしょうか。世の中には、人の不幸をおもしろがる人間や、嫉妬にかられて人の足をひっぱる人間がいますけれども、この蛇もその類であったのでしょうか。
そうではありません。ここに登場する蛇はサタンの化身でありました。だとすると、蛇が、つまりサタンがエバを誘惑したのは、エバそのひとが目的だったのではありません。エバを誘惑し、罪に落とすことによって、神様を困らせ、悲しませ、苦しませようとしているのです。サタンの目的は、自分の王座を神の上に築くことにあるのです。イザヤ書14章12〜15節にこう記されています。
ああ、お前は天から落ちた
明けの明星、曙の子よ。
お前は地に投げ落とされた
もろもろの国を倒した者よ。
かつて、お前は心に思った。
「わたしは天に上り
王座を神の星よりも高く据え
神々の集う北の果ての山に座し
雲の頂に登って
いと高き者のようになろう」と。
これは、バビロン王に対する嘲りの歌であると言われています。しかし、これをサタンの物語として読む人たちもいます。
かつてサタンは《明けの明星、曙の子》と呼ばれる天使であった。天使の本分は神に仕える僕です。しかし、サタンは野心を起こして、こう考えます。
「わたしは天に上り、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂きに昇って、いと高き者のようになろう」
こうしてサタンは神様に逆らう者となり、天から追放されてしまった。それが堕天使サタンの物語だというのです。
『ヨハネによる黙示録』をみますと、バビロン帝国がサタンの王国の比喩として用いられていたりしますから、そんな解釈もされるのでしょう。サタンが堕天使であるかどうか、ここだけで言い切ることはできないと思います。けれども、サタンが神より高き王座を求めて、いと高き者になろうと目論んでいるのは、その通りに違いありません。エバを誘惑したサタンの言葉にも、《それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる》とあるのは偶然ではありません。神のようになる、これがサタンの一番の願いであり、目標なのです。
そういうことから申しますと、人間を誘惑するサタンは、実は人間を相手にしているのではなく、神を相手にしているのです。サタンの目的は人間を手に入れることではなく、神様から人間を奪い、ひいては万物をさえも奪い、ついには創造主なる神様の上に自分の王座を築こうとすることにあるのです。
天地万物の神様を相手に、そのような大それた野心に勝算があるとはとてもおもえません。しかし、サタンは実に賢い存在でありまして、神様のことをよく知っている。それゆえに神様の最大の弱点が、人間への愛にこそあることを熟知しているのです。神様は人間を神の子らとしてお造りになり、寵愛されました。しかし、人間は神の子そのものではなく、土の塵で造られた弱く、愚かな被造物に過ぎません。ただ神様の愛によってのみ、そのような人間が神の子とされているのです。サタンはその人間を攻撃の対象にするのです。
神様ご自身を直接攻撃しても勝算がないことを、サタンは知っています。しかし、人間はどうか? 神様が目の中に入れても痛くない存在として愛しておられる人間を誘惑し、神様に逆らわせることならば、自分にもできると踏んだのでした。神様の人間に対する愛が深ければ深いほど、そのことが神様を深く苦しめることになることも、サタンはすべて計算し尽くして、私たち人間を誘惑し、罪に落とそうとしているのです。
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ですから、信仰は戦いであると、前回は申し上げました。エバもそうですが、人間というのは好きこのんで神様に逆らい、罪を犯すのではありません。クリスチャンでない人たちだって、それなりに神仏を恐れる気持ちをもっています。悪い人間になりたいなどとは、誰も思っていないのです。
けれども良い人間でありたいと思っているだけでは、結局サタンの毒牙にかかり、いとも簡単に正気を失い、愚かしい罪に支配されるようになってしまうのです。
精神科医として、作家として、そしてキリスト者として、犯罪者の心理を研究しておられる加賀乙彦さんという方が『悪魔のささやき』(集英社新書)という興味深い本を書いておられます。加賀さんは多くの犯罪者や自殺未遂者と交流を持ち、「あのときは、悪魔がささやいたんです」というのを耳にしてきました。最初は自分を正当化するための言いわけ、刑を軽くしたいがための誤魔化しじゃないかと思ってきたけれど、それにしてはあまりに多くの人たちが口々に同じことを言うのを聞き、心理学者としてそのことを真面目に研究なさったのです。加賀さんはこういいます。
半世紀以上にわたり人の心をみつめてきた者として断言できるのは、「悪魔にささやかれた」としか言いようのない現象が、人間には確かに起こりうるということ。そして、最近は、それがとくに起こりやすくなっているということです。
もちろん、ここで言う悪魔とは比喩であって、悪魔というものが本当に存在するかどうかは、また別の話です。ただ、比喩であるなら、「悪魔のささやき」ではなく「妖怪のささやき」と呼んでもいいわけだけれど、私にその体験を語ってくれた人たちは、キリスト教徒だけでなく、仏教徒も、宗教になどまったく関心のない人も一様に「悪魔」と表現する。それはおそらく、彼らを自殺や犯罪へと走らせた「自分ではない者の意志」のように感じられる力が、非常に強いことのあらわれなのではないでしょうか。
人間の心は、「悪魔のささやき」としか表現できないような非常に強い何かに捉えられ、正気を失ってしまうことがあり、そのようなとき誰でも破滅に向かって暴走してしまう可能性があるのだということなのです。
加賀さんは、このような悪魔のささやきを避けるためにどうしたらいいかということも提言しています。これは解説なしで、簡単に紹介したいと思います。第一は、360度見渡すような広い視野を持つことです。第二は、キリスト教でも仏教でもイスラム教でも、歴史ある本物の宗教を知り、その経典を読むことです。第三は、死とか、苦しみのむごさと向き合う経験をとおして命の大切さを知ることです。第四は、「私」という個を大事にし、確固とした人生観を持つことです。これらのことから言えるのは、やはり良い人間でありたいという気持ちだけではダメで、「悪魔のささやき」を避ける知恵とか、抵抗する力を身につけなければいけないということでありましょう。
聖書が《悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。》と言っているのも、そういうことなのです。前回は13節までお話しをしてありますから、今日は14〜15節を読みたいと思います。
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
《立って》と言われています。戦いというのは、《立って》するのです。つまり、《立って》とは、「戦いの姿勢を取れ」ということです。
たとえ善良な人であっても、悪魔から身を守るためにはのほほんと生きていてはダメで、悪魔に注意し、戦いの姿勢をもって生きていかなければいけないのです。エバが、神様を愛し、信じていたにもかかわらず、易々と誘惑されてしまったのは、この戦いの姿勢が欠如していたからです。ここには《立って》と書いてありますが、《目を覚ましていなさい》(コリントの信徒への手紙1 16章13節)と書いてあるところもあります。敵を知り、敵に注意を払うことが戦いの第一なのです。
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このように戦う姿勢を取ったならば、まず《真理を帯として腰に締め》と言われています。
真理とは何でしょうか。自分が真理だと思っているものが真理だとは限りません。それでは何をもって、真理だと言われるものを、本当に真理だと認定したらいいのかという問題があります。その際、重要な鍵は、真理はいつの時代でも変わることがなく、また誰にとっても変わるなく通用するものであるということです。時代が変わったり、人が変わったら通用しないというものでは、本当の真理とは言えないのです。
その点、わたしたちには本当に真理と言えるものがあります。それは聖書であり、教会の教えです。旧約聖書は紀元1世紀にユダヤ教で正典化され(ヤムニア会議)、新約聖書はキリスト教で紀元4世紀に正典化されました(カルタゴ会議)。しかし、聖書は、こうした会議で正典化される遙か以前から、神の言葉として尊ばれてきたものです。詩篇のなかの最も古いものは紀元前10世紀以上前にさかのぼりますし、新約聖書のもっとも新しいものは紀元2世紀になって書かれています。1200年にわたって書かれてきた様々な文書が正典化されたのです。
日本で1200年前の文書といえば万葉集です。万葉集と現代の文書が合わさって一つの正典とされ、その後、2000年にわたって読み継がれ、今なお世界中でベストセラーでありつづけている。このようなことを考えるだけで、聖書というのは誰にとっても、いつの時代にとっても通用する真理があると言えるのではないでしょうか。
教会の教えとは、その聖書の解釈です。聖書は様々に解釈され得ます。キリスト教で異端と言われる人たちも、同じ聖書を読んでいたりする。解釈が違うのです。教会は何が聖書の正しい解釈であるか、何が間違った解釈であるかということを、いつの時代も追及してきました。もちろん、過ちを犯すことがなかったわけではありませんが、それを過ちとしていく過程も含めて、教会は聖書の正しい読み方を追及してきたのです。
そのような2000年の歴史の積み重ねを大事にしながら聖書を読むということ、それが教会の教理であり、説教です。説教者自身がこのようなことを言うのはちょっとはばかれるのですが、説教は、決して説教者が思いついた新しい聖書の解釈をお話ししているのではありません。教会の歴史のなかで語られてきたものを、繰り返し繰り返し語っているわけです。ですから、紀元4世紀のアウグスティヌスの説教を読んでも、16世紀のルターの説教を読んでも、21世紀の現代の説教と本質的にはそう変わりません。それが説教です。
真理が、聖書や教会の教えにあるとするならば、それを帯として腰に締めなさいとは、どういうことでしょうか。
今は、帯というものを日常の生活でしないものですから分かりにくいのですが、帯がなければ着物ははだけてしまいます。それは、だらしがないばかりではなく、着物としての機能さえ果たさなくなってしまいます。帯は、私たちの身に纏っているものをきちんと一つの結び付け、私たちから離さないようにするもの、また形よく整え機能性をもたせるものなのです。だとすれば、真理の帯とは信仰のことでありましょう。
私たちは裸一貫で生きているわけではありません。生活をするということは、いろいろなものを身に纏って生きるということです。家族、仕事、学校、地域社会などで、私たちはいろいろな役割を担ったり、責任を負ったり、大切なものをみつけたり、厄介な問題を抱えたりしています。そういうものがバラバラにあると、私たちの生活は結局、雑事に振り回されるだけになってしまうのです。そして、心も体も疲弊してしまいます。真理の帯つまり信仰というのは、そういうものをすべて「神の栄光のため」という一つにまとめるのです。
あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(コリントの信徒への手紙1 10章31節)
仕事のことも、家族のことも、地域のことも、楽しいことも、厄介なことも、自分に与えられたすべてのことを、するにしてもしないにしても、すべてを信仰をもって神の栄光のためにしなさい。それが、私たちの生活をしっかりとしたものにするのです。
『ヨハネによる福音書』8章32節では、《真理はあなたを自由にする》と語られています。真理の帯を締めて、何をするにしろしないにしろ信仰をもって神の栄光と言うことを第一に求めるならば、私たちの生活は自由だというのです。いろいろな問題に束縛されていても、私たちはそのなかで神の子として自由をもって生きることができるのです。
またイエス様は、悪魔は嘘つきの父であると仰っておられます。『ヨハネによる福音書』8章44節です。
あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。
悪魔は「お金がすべてである」とか、「良いことをしても一文の得にもならない」とか、「神様は不公平である」、「神様はいない」とか・・・様々な嘘を私たちに信じこませようとしています。そして、そのような嘘を本当だと思い込むことによって、私たちは嘘に縛られて本当に自分のしたいことができない生活をしているのではないでしょうか。信仰をもって、すべてを神の栄光のためにという生活をすることが、私たちを悪魔の嘘に惑わされることなく自由に生きる者とするのです。
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